【力道山生誕100年】力士時代の逮捕状、昵懇だった元総理大臣…“プロレスの父”だけでない破天荒エピソードの数々
大実業家でもあった力道山
今年はプロレスラー・力道山の生誕100年となるメモリアル・イヤーである(1924年11月14日生。1922年、1920年生説もあり)。また、12月15日には、その命日がやって来る。1963年12月8日、ナイトクラブでの喧嘩が元で相手に刺され入院及び手術し、快方に向かうも、その一週間後に急死したのは知られるところだろう。 【写真を見る】力道山刺傷の現場となった「ニューラテンクォーター」
入院中は親族、関係者以外は面会謝絶だったが、何人かは見舞いに訪れており、その中には、力道山がことさら寵愛し、後に総理大臣となる人物も含まれていた。節目の年として、その生涯とともに綴りたい。 アニメ番組「タイガーマスク」の中に、「力道山物語」という回がある(1970年4月23日放送)。タイガーマスクが、プロレスラーの先人である故・力道山の逸話を聞き、奮起するというエピソードである。正義のヒーローであるタイガーマスクが、深く影響を受ける人物として描かれているわけだが、実際、その偉業は枚挙に暇がない。 1954年2月、力道山は日本にプロレスを輸入し、大ブームを起こした。群衆が街頭テレビに詰め掛ける光景は有名だが、日本テレビによれば、関東の55カ所に220台設置されたテレビに、300万人以上が集まったという(※旗揚げ戦から3日間で、全国で約1400万人が視聴したという概算がある)。後に女子プロレスの実況アナウンサーとして名を馳せ、当時は日本テレビの社員だった志生野温夫さんは語る。 「中継では、『街頭テレビをご覧の皆さん、押し合わないように』と言うのはもちろん、今でも覚えているのは、新宿の角筈の街頭テレビに皆が殺到して、都電の線路を塞いじゃったんです。当時、僕はブースの担当だったんですが、『新宿角筈でプロレスをご覧の皆さん、電車が通れるように空けて下さい』とブースから別ラインで声を入れたのを覚えていますよ」 ちなみにこの年の9月15日、日本映画史上に残る傑作「二十四の瞳」が公開されているが、同時上映が「力道山、大いに怒る」。力道山の試合をまとめた映像集だった。テレビも普及してなかったゆえ、一本の映画としてまとめることで、更なる集客が見込まれたのだった。 力道山は実業家としても名を馳せ、急死する1963年時点で、6つの会社の社長を兼務していた。自らの団体である日本プロレスや、こちらも自ら創設した「リキ・ボクシング・クラブ」、不動産を管轄する「リキ・エンタープライズ」や、そちらを開拓する「リキ観光開発株式会社」、さらには「神戸ビーフステーキ・ハウス」も経営していた。渋谷にはプロレス会場を常設した「リキ・スポーツ・パレス」を1961年にオープン。地上9階、地下1階の威容で、中にはボーリング場やビリヤード場、レストラン、サウナ、クリニックまでもが入り、まさに家族で出かけられる総合娯楽施設のはしりだった。 実現に至らなかったが、神奈川県三浦半島の油壷に、ゴルフ場や水泳プール、自転車レース場に室内スケートリンクまで備えた一大スポーツ・ランド「レイクサイド・カントリークラブ」を設営する計画もあった。 「ベンツを含め、常に外車が5台(家に)あった」と、かつて筆者の取材に語ってくれたのは、息子のプロレスラー、百田光雄さん。大変な車好きで、当時は珍しいガルウィング(※扉が羽根のように持ち上がる仕様)の外車を入手すると、石原裕次郎がそれを欲しがり、同型を手に入れた逸話は有名だ。このように、有名人との交流も華やかだった。美空ひばりとは映画で共演し、「空手チョップが出ないとつまらない」とダメ出しされると、その夜の試合で奮発するという、胸襟を開ける仲だった。