【力道山生誕100年】力士時代の逮捕状、昵懇だった元総理大臣…“プロレスの父”だけでない破天荒エピソードの数々
永遠の偉人
中曽根が力道山に、応援してくれる理由を問うと、力道山は、明快に答えたという。 「だって、首相公選制も、プロレスも、私の事業も、みんな、大衆を最優先に喜ばせるためのものだからね(笑)」 晩年、財布の中身を見せて貰った記者は驚いたという。1万円札が1枚しか入っていなかったのだ。「今日はまだある方だよ。全部、事業につぎ込んでね」と力道山は笑っていたという。そして、「俺もそう長くは(プロレスを)出来ないからな」と引退をほのめかすこともあった。アントニオ猪木とスパーリングをし、互角以上の動きを見せる猪木に、「もう、いいだろう」と、自ら切り上げたこともあった。しかし、試合には出続けた。 1962年9月14日、試合で右胸鎖関節亜脱臼の重傷を負うも、5日後には肩にアメフトのショルダーパットを装着し、復帰した。1963年12月7日。浜松市で、生涯最後の試合である6人タッグマッチを戦った力道山は、翌日、用事があるため、夜行電車で帰京したが、試合結果はフルに戦い、61分時間切れだった。 亡くなる年の頭に、プロレス、そして、事業について語った思いを引用したい。 〈レスラーとして出発した私、プロレスを輸入した私が、個人の感情で“明日からやめた”ということはできない。できるまでやりますよ(中略)百年後の人に、“むかし力道山というみんなのためになる男がいた”といわれたい〉(「サンデー毎日」1963年2月3日号) 身障者や孤児などの施設への寄付にも熱心だった力道山。1956年12月23日、恵まれない園児たちに、ラジオがプレゼントされる企画があった。譲渡先のデパートでサンタクロースに扮した力道山は、ことさら嬉しそうだったという。 2013年、百田光雄さん宅での取材で、意外な選手の話を、家人が嬉しそうに明かしてくれた。 「いつも父のことを話題にする時、“力道山先生”って言ってくれるんですよ」。 アニメではなく、実在した初代タイガーマスク(佐山聡)の、エピソードだった。 瑞 佐富郎 プロレス&格闘技ライター。新著『アリは猪木戦の直前にプロレスラーと戦っていた! プロレス発掘秘史』(宝島社)が現在好評発売中。 デイリー新潮編集部
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