【力道山生誕100年】力士時代の逮捕状、昵懇だった元総理大臣…“プロレスの父”だけでない破天荒エピソードの数々
英雄の抱いた“孤独感”
〈力道山に逮捕状〉。 前職の力士時代、1950年6月14日の毎日新聞の見出しである。過去に所有するも売却していた自分の漁船「力道山丸」が前年冬に炎上し沈没。こちらが保険金目当ての持ち主の自作自演であったことが発覚し、前の持ち主である力道山にも嫌疑がかかり、6月13日から連行され、取り調べを受けていたことが報じられたのだった。結局、力道山にはまったく咎がなく、翌日には釈放されたが、力道山はこの3ヵ月後、自ら包丁で髷を切り落とし、力士を廃業した。 力道山が新弟子検査に合格したことを報じる相撲協会発行誌「相撲」(1940年7月号)に、「本名 金信済 出身地 朝鮮」と明示されているように、国籍が日本でないことは角界では周知の事実であり、最初からイジメや差別の対象となっていた。先輩から本名で呼ばれ、しごきを受け、力道山はいつしか、午前1時から独りで稽古するようになった。その時間なら先輩たちが起きておらず、しごきもイジメもないためであった。 戦争が終わると、力道山は進駐軍の関係者との親交を深めた。アロハシャツを着こみ、オートバイで場所入りし、角界関係者の眉をひそめさせた。先の嫌疑も、すぐ晴れただけに、逆に力道山には大変なショックだったようだ。 力士廃業は、表向きは病気が理由とされたが、その実、逮捕状騒ぎに見られる周囲の偏見からの苦悩や、国籍の問題から大関以上の昇進が見込めないことの絶望が主因だったとされる。 プロレスラーとして、日本のトップに立ち、数々の名士とも交流し、そして急死した翌日、新聞に、以下の述懐が明かされた。それは、その立場から言ってもパーティーの主賓となることが多かった力道山本人が語った呟きだった。 〈大勢に囲まれてドンチャン騒ぎの最中にも、ふとたまらなくなることがある。たれも楽しんではいないし、たれも私に心を許していない〉(読売新聞。1963年12月16日・夕刊。原文ママ)