兄の仕送りで強豪・浪華商へ 〝かわいがり〟で対外試合禁止も「最後の1年間だけは」 話の肖像画 元プロ野球選手・張本勲(84)<6>
《甲子園の夢に向かって》 広島商、広陵に行けなかった私を拾ってくれたのは松本商(現瀬戸内)です。ただし夜間部です。しかも1学期の間、問題を起こさなければ昼間に編入するという条件付きでした。昼間は食堂でアルバイトして、練習が始まる時間には夜の授業が始まる。ろくに練習ができない。で、野球部は夏の大会の1回戦で負けたんですよ。 でも甲子園への夢がある。どうしても甲子園に行きたい。そんなある日、散髪屋に行ったんです。順番を待っている間、何となくグラビア雑誌を手に取った。見出しが『常勝 平安と浪商』とあったんです。今の龍谷大平安と大体大浪商です。前の年(昭和30年)、浪華商は春のセンバツで優勝し、山本八郎さんが東映(現日本ハム)、坂崎一彦さんが巨人へと4人がプロ入りしたと書いてあった。甲子園の夢とプロへの道が一度にかなうかもしれない。 「大阪に行きたい!」と家に帰ってすぐ、兄貴(世烈さん)に言いましたよ。「何、寝言言っとるん。生活もできないくらいなのに、どこにそんな金があるんや」って。母(順分(スンブン)さん)も大反対でした。食べていくだけで精いっぱいの生活でしたが、私があまりにも泣いてすがるものですから、兄貴は松本商の横田泉監督の所に相談に行った。そこでこう言われたそうです。 「いや、お兄さん、弟さんを浪商に行かせてやってください。ひょっとしたら、鍛えたら化けます。プロになれる力を持ってます。このままならもったいない」と真剣な顔でね。それで兄貴は腹を決めた。母も説得してくれた。「よし、俺が何とかする」ってね。今、そんな兄弟はいないわな。そして大阪へ行かせてくれたんです。 兄貴はタクシーの運転手をしながら毎月1万円を仕送りしてくれた。ほとんど寝ていない状態で働いて、多くても2万円から2万3000円の時代です。大卒の初任給が1万3800円の時代ですよ(32年、歌手のフランク永井の曲『13800円』)。そこをね、兄貴は1万円送ってくれた。私は16歳の高校生で兄貴は24、25歳くらいの遊びたい盛り…。弟のためとね。死に物狂いで野球、やりましたよ。 《浪華商へ編入し、大阪での生活が始まった》
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