「日本列島に匹敵する距離を3か月で完走も」アテネ五輪金メダリスト・野口みずき「スタートラインに立ったとき誰よりも練習してきた自負があった」
── オリンピックに向けては具体的にどんな練習をされていたのですか? 野口さん:とにかく土台づくりですよね。レースに出場するには準備に3か月かかるのですが、最初の1か月はトータルで1370km走りました。2か月目に1350km走り、3か月目は調整に入るので900kmくらいです。 ── すごい距離ですね!日本列島の長さが約3000kmだから、日本の半分近くを1か月で走ったことになりますよね。3か月かけて日本の端から端まで余裕で走っていらっしゃる。
野口さん:それはわかりやすいたとえですね!もちろん、距離をただ走ればいいというものではなく、走りの質も上げなくてはなりません。40km走はもちろん、ショートのインターバルやスピード練習も入れるなど、目標達成のためにどれだけきつい練習でもやってやる、という思いで取り組んでいました。最初の1か月間は中国の昆明で高地トレーニングを、2か月目は時差調整も兼ねてヨーロッパ入りし、スイスのサンモリッツで合宿しながらトレーニングを積みました。
■スイスのホテルで転倒するアクシデントがあった ── アテネの4年後、北京五輪はケガで欠場となりました。その時はどんな気持ちでしたか? 野口さん:北京の前にケガをしたのではなく、2005年にベルリンマラソン大会で日本新記録を出した時も実は足が痛かったんです。足が痛かったうえにとても暑い中で2時間19分12秒という結果だったので、条件がよければもっといい記録が出たんじゃないか、という欲が出たんですよね。また記録を更新したいと。
翌年のベルリンマラソン大会での記録更新を目指してスイスで合宿をしていたのですが、宿泊先のホテルの浴室で滑って転び、タイルの硬い床で腰を強打してしまったんです。それ以降、体幹やバランスを崩してしまった気がします。結局その年のベルリンには調整が間に合わずに断念しました。その翌年のベルリンも走ろうとスイスで合宿し、東京国際女子マラソンで優勝して大会記録を出したのが、元気で走れた最後だった気がします。 北京オリンピックへの出場は決まったものの、スイスのホテルでのアクシデントが響いたのか…自分を追い込んでしまい、やらなくてもいい練習をしたり調整がうまくいかず肉離れを起こしました。精神的にも追い詰められてつらい時期になりました。