千島連盟・脇理事長語る(全文1)「北方領土あくまで四島一括返還が方針」
――その後、ソ連兵も入ってきて、混住どちらも暮らしているという状況も体験されたということですね。 「ですから、4歳のときにロシア(旧ソ連)の兵隊の子供も、家族も来ましたんでね、ロシア(旧ソ連)の子と一緒に遊んだ記憶があります。浜で石蹴り・石投げしたり、あるいは川で小魚をすくったりっていうことで、遊んだ記憶あります。」 「そしてソ連の子供のお母さん、家族から、缶詰だとか、乾パンだとかもらった記憶があります。だから案外、戦争という経験をしていた中で、厳しいということもあったんでしょうけど、われわれ子供たちは、いつ戦争が始まって、いつ戦争が終わって、どういう状況かってことはあんまりわかんなかったっていうか、いまみたいな情報社会でなかったですから。ですから、わからなかったということもあって、意外と仲良くのんびりと生活、暮らしていた気がします。」 ――国後では両親はどのような仕事をしていましたか。 「特に海藻類、コンブ、ふのり、ギンナン草、海藻類を採取して生計を立てていたということです。」 「戦争が終わってから、ロシア(旧ソ連)の占領下に置かれ、親父たちはどうしているかというとロシア(旧ソ連)の指示によって借り出されて、毎日毎日山に行ったり、あるいは手伝いをさせられていたようです。強制的に。それで、それなりに賃金、何かはもらっていたんだと思います。そのへんのことも私自身定かではない。それだけ、子供だったこともあって、親の苦労もあんまり知らないままに、暮らしていたのかと。今になって思えば、両親が亡くなる前にその辺のことをしっかり聞いておけばよかったなと後悔しています。」 ※千島連盟・脇理事長(全文2)に続く