千島連盟・脇理事長語る(全文1)「北方領土あくまで四島一括返還が方針」
千島連盟の考え方は四島一括返還で変わっていない
――現状、いろんな報道があって、例えば日ソ共同宣言の文言を受けて、歯舞・色丹の2島の返還や、共同統治案が出たりしていますが、元島民の方たちの考え方としてはどのようにとらえられていますか。 「元島民の考えは、やっぱり元島民というのはたくさんいますから、しかも、それぞれ択捉から、国後、色丹、歯舞と、遠いところであったり、近くであったりという状況があるんですね。連盟組織としては、あくまで四島一括返還だというこの基本的な考え方は、今まで、ずっと一貫して、変わっておりません。」 「いまこういう状況の中にあっても、その考え方に変わりがありません。というのは、四島からそれぞれ戦争が終わって、強制的に退去させられているわけですね。そういう状況の中ですから、あくまでも交渉、私たちの目標は四島一括返還ということです。島民それぞれの個々には思いがあるでしょう。私自身も理事長の立場でなければ、別の考え方ができるのかもしれませんけど、理事長として取材を受けているわけですから、あくまで理事長の立場としてお話させてもらっています。」 ――連盟としては四島一括返還である、というところを国に強く要請する形になるわけですね。 「千島連盟という元島民の立場は、領土の交渉する権利はないですね。主張は出来ても交渉する権利自体はないです。国と国との問題ですから。ですから、この後どういう形で交渉が決着になるか。結果、今までと違った形で進展してほしいと願っているんですけど、結果は結果として、国と国との問題ですから、ある程度連盟としてもその推移を見守りながら、今後の対応も考えていかなきゃ、とそういう風に思っています。」
島占拠後の思い出 機関銃への恐怖 一方でソ連兵の子供・家族と交流も
――元島民は島も違えば、日本に強制に戻されたときも、いろんな経験をされています。背負ってきたものがそれぞれ違うところもあるかと思いますが、理事長自身はどういう体験をしましたか。 「私は1941年生まれで、戦争が始まったのが、その年の12月ですよね。終わったのが、1945年です。そのとき4歳でした。戦争が終わって、島にもよりますが、島にとどまるということについて、旧ソ連が占拠した状況の中で、脱出してきたという人もかなりいるんですね。私たちは国後という、ある意味では近くではあったんですけど、距離的には、根室に来るためにかなりの行程です。遠い距離の中で、船で脱出するというのは、私の父親は大きい船を持っていなかったので、脱出する手段もなくて、そのまま島にとどまっていたんです。そして3年間いて1948年に最後の引き揚げという形で退去させられたということでした。」 「ですから4歳から7歳まで、戦争が終わってから、こちらに引き揚げてくるまでの記憶は、幼かったこともあって断片的にしか覚えていないんですけど、ある意味、強烈なことだけは、覚えていますね。例えば、ロシア(旧ソ連)の兵隊が侵攻してきて、私の家に土足で上がりこんできて、いろんなうちの中を物色していた。もちろん外国人を見たのも初めてでしたから、そのときはロシア(旧ソ連)だと思っていなかったんです。どこの国の人かもわかっていなかった。後からそれはわかったことであり、小さかったこともあって、かなり大男がいて、機関銃みたいなものを構えながらね、物色していると。そういうことでどうなるんだろうという恐ろしさだけは記憶しています。」