「仕事と家庭」両立しようと疲弊する人の根本原因 禅僧が解説「疲れや不安を手放す」生き方
だが、それでもなお、努力を続けることだと著者は強調する。「結果がほしい、結果が出ないことはやる価値がない」という考えは、「いま、この瞬間」を生き切ることを第一とする禅にとっては邪念でしかないというのだ。 禅では、何かのために坐禅をすることを「邪禅」と呼んで、戒めているくらいです。 ただし、禅は「結果」そのものを否定しているわけではないのです。 ただ無心に目の前にある「なすべきこと」を続けていると、想像を超える結果がもたらされることがしばしばあるからです。
「小水常流如穿石(しょうすいのつねにながれていしをうがつがごとし)」。お釈迦様が入滅に臨まれるさいに弟子に説いた言葉です。僅かな水の流れでも絶え間なく流れ続けていれば、いつしか硬い石を貫いてしまう。目に見える変化がどれだけ小さくても、毎日の努力は必ず実るのです。(101ページより) 「たいした努力をしなくても、運だけで成功している人もいる」という反論もあるだろう。だが、そもそも運をつかむには相応の準備が必要だ。努力なしには、チャンスをつかまえて生かすこともできない。ましてや、チャンスがいつ訪れるのかは誰にもわからない。
しかし確かに言えるのは、そのチャンスは誰のもとにも平等に必ずやってきているということです。 「誰家無明月清風(たがいえにかめいげつせいふうなからん)」。誰の家にも月は光り、清らかな風は吹いてくるという意味の禅語です。あなたにもすでに幸運は訪れているのです。これからも幸運は訪れることでしょう。(102ページより) 逆にいえば、もしその幸運をつかめていないのなら、備えが不足していたと考えるべきなのかもしれない。そこで、ふたたび幸運が訪れるときまで、ふたたび努力を続けることが大切なのである。
■仕事は仕事、家庭は家庭として全うする お寺や神社にある長い参道と門や鳥居の役割をご存知でしょうか。門や鳥居には、俗なる場所と浄らかなる場所を隔てる「結界(けっかい)」の機能があります。参拝者は、参道を歩きながら気持ちを鎮め、神様仏様とお会いする心構えを整えるのです。 同様に、日常生活において私たちは「結界」を必要としています。例えばそれは、「仕事モード」を家に持ち帰らないための結界です。(110ページより)