コミックアート界のトップランナー米山舞。「アニメとイラストの中間で生きる」
とにかく描き続けた辛い下積み時代
■基盤ができたアニメーター時代 専門学校卒業後はアニメ制作会社のガイナックスにアニメーターとして入社しました。作画担当からスタートしたのですが、これが大変で。若手は月300枚以上描くのですが、単価が安くお金が稼げなくて。好きなことができて楽しいけれど、親に支援してもらったり大事にしていた貴重なゲームや画集を泣く泣く売ったりしながら生活していました。 原画担当になるための試験に受かるまでの1年半は本当に大変でした。原画が描きたかったし、生活を安定させるためにも一刻も早く受かりたかったので、抑えるべきポイントなど、試験のアドバイスを仕事終わりに先輩に聞いたりしていました。あとは、帰宅した先輩のゴミ箱や机をこっそり見ていましたね。そこから書き損じや落書きがいっぱい出てくるので、それを見て覚えて。それを思い出しながら練習していました。先輩の技を間近で見るのが一番の勉強だったので、とにかく学び取れるものは学ぼうとがんばっていました。 若手の頃は、絵を描いても「正解の絵ではない」と先輩から戻されることもよくありました。どこが間違っているのかわからないまま、同じカットを何十回も描き直して。そういう繰り返しのなかで技術が培われたような気がします。今でも描いている時に頭の中の先輩から「それ、違うぞ」と言われることがある気がするんですよ。 ■「絵を描くことは全部やってみよう」 キャリアを積んで作画監督やキャラクターデザインを担当するようになると、絵をコントロールしたり要求に技術で答えるのに必死で、当時の自分はオリジナリティをそこに込める技術がまだなく、創作的ではありませんでした。それもあって、イラストソフトが使えたこともあり仕事とは別にイラストを描いて、ネット上で発表するようになりました。アニメだけでなくイラストもやることで、アニメに逆輸入できるものがあるのではないかという考えもありました。 そしてその時期の自分にとって大きな出来事が、父の他界。これを機に自分の人生について改めて考えるようになりました。アニメーターの道を極めるまで他のことはできないと思い込んでいたのですが、「イラストでも絵画でも自分がやりたかった事は全部やってみよう」と考えるようになったんです。2015年、26歳の時でした。 そこでアニメ制作会社から独立してフリーでイラストレーター、アニメーターとして活動することを決めました。その後2019年に現在のSSS by applibotに所属しました。