福島・浜通りの未来のために――ラーメンを新たな名産へ、鳥藤本店・藤田社長の挑戦
「どうやってこの町を復興していくべきか、自分なりにできることを頑張ってきたつもりでした。そうしたなかでわかったのは、地域には見えないバトンがあることです。先輩から後輩が見えないバトンを受け継ぐ。ただし、震災でみんなが避難したため、受け継ぐ相手もいません。だから、自分はここにあるバトンを勝手に持って走ろう。走れるところまで行ったら、ポトッとそこに置いていこうと考えていました。そうしたら小学生が富岡町の役に立ちたいと言ってくれて、大号泣でしゃべれなくなりました。ラーメンをやったことでバトンがつながるきっかけができたんだなと」 地域のため、次の世代のためにと、袋入りラーメンの売り上げの一部を浜通りエリアの復興のために寄付している。また、コロナ禍では富岡町の小中学校で、子どもたちに自ら「ラーメン給食」を振る舞っている。こうした形でも藤田さんは後輩たちに背中を見せている。
東電で働く人に罪はない
目下、コロナの影響で業績は厳しいが、震災前からの主力事業である東電関連の仕事も続いている。原発事故は藤田さんをはじめ、地元で生きる人たちの人生を変えてしまった。強制的に避難を余儀なくされ、その後、戻ってこられない鳥藤本店の社員も少なくない。 「基本的な思いとしては、今でも東電という会社の体質には疑問がありますが、働いている人に罪はないし、我々もそれによって生活が成り立っていました。30年後の廃炉を見届けるまでは、食事やサービスなどの面で、働く人たちが少しでもいい環境にあるように頑張らないといけないと思っています」 長い年月の中で、藤田さんは多くの東電社員と親交を深めた。原発事故の収束に向けて指揮をとり、「フクシマ50」と呼ばれる数十人の作業員とともに危険な事故現場で対応に当たった、故・吉田昌郎元所長もその一人。実は震災の前日も会っていた。 「吉田所長を含め8人くらいで会合がありました。そのときに原子力の技術者に関する話で盛り上がったのをよく覚えています。所長が、この配管があっちにつながっていて、こっちから出てくるんだとか、目をつむっても構造が全部浮かぶようでなきゃ駄目なんだよと言っていましたね」 その 2日後、原発が水素爆発したとき、当然あの中に吉田所長たちがいることも藤田さんはわかっていた。「今ごろあの人たちが頑張ってくれているんだな」と顔が浮かんだそうだ。 震災は、つらい別れもあったが、新たな縁も生んだ。 「震災がなければ出会えなかった人たちがたくさんいます。彼ら、彼女らにいろいろなことを教えてもらったり、助けてもらったりしました。それが本当にありがたい」 震災から11年が過ぎたが、会社を存続させるため、そして地域を盛り上げるために、これからもどんどんチャレンジはする。昨年には、いわき市小名浜にある観光物産施設「いわき・ら・ら・ミュウ」に浜鶏2号店をオープン。コロナ禍が落ち着いたら、いわき市内でラーメンフェスを開きたいという構想も明かす。 そんな藤田さんが大事にしている言葉がある。父・勝夫さんから贈られた「挑戦なくして、喜びも感激もなし」という言葉だ。 「高校のときに、これが書かれた色紙を父からもらいました。喜びも感激も、どちらもプラスの表現。それが気に入って、ずっと部屋の壁に貼っていました。そのおかげもあって、チャレンジングな人になれたと思っています」 父が残した鳥藤本店、そして生まれ育った富岡町というバトンを未来につなぐため、藤田さんはまだまだ全力疾走をやめる気はない。 --- 伏見学(ふしみ・まなぶ) 1979年生まれ。神奈川県出身。専門テーマは「地方創生」「働き方/生き方」。慶應義塾大学環境情報学部卒業、同大学院政策・メディア研究科修了。ニュースサイト「ITmedia」を経て、社会課題解決メディア「Renews」の立ち上げに参画。