《ブラジル記者コラム》 1千団体ひしめく日系社会の今=知られざる鳥居大国ブラジルの謎
渋沢栄一、岩崎久弥、武藤山治が夢見たブラジル
移民会社の「ブラジルには金のなる木(コーヒー)がある」という宣伝を信じて「5~10年ブラジルで出稼ぎして大金を貯めたら祖国に錦衣帰郷する」ことを夢見て、戦前だけで19万人が40~50日間の船旅を経てやってきた。「日本人の民族移動」という観点からもかなりの数字だが、日本の地理教科書に記述があるが、なぜか歴史教科書にはない。 1908年6月18日にサントスに上陸した第1回移民船「笠戸丸」は有名だ。実は名曲『石狩挽歌』(作詞=なかにし礼/作曲=浜圭介)の一説には《沖を通るは 笠戸丸 わたしゃ涙で ニシン曇りの 空を見る》という歌詞がある。日本においては移民船というよりは、ニシン漁船としての方がもっぱら有名だ。 明治の日本経済界を牽引した「近代日本経済の父」渋沢栄一もブラジル移民事業に関わっていた(3)。渋沢栄一は1913年、桂太郎首相の後援により、自ら創立委員長となって伯剌西爾(ブラジル)拓殖会社を設立。ここが主体となってブラジル最初の永住型植民地のイグアペ植民地計画を進め、最初の場所には首相の名を取って「桂植民地」と名付けた。他にアマゾンに日本人植民地を拓いた南米拓殖株式会社、移民の教育を目的とする海外植民学校などに関わり、それ実現するために尽力した。
三菱財閥3代目総帥の岩崎久弥氏は1927年、ポケットマネーでカンピーナス市に東山農場を創設した。三菱財閥の2代目総帥の岩崎弥之助氏の曾孫・透氏は、昨年6月に同農場で亡くなったばかり。その透氏の呼び寄せで2001年にブラジル移住した大野恵介氏(4)が現地法人社長になって2012年に第1号店を開店したブラジル・ダイソーは大躍進を遂げ、3月時点で148店舗を展開している。 「日本の紡績王」と呼ばれた武藤山治氏も南米拓殖株式会社の設立に深くかかわった。その南米拓殖が1929年に設立したトメアスー移住地が戦後、胡椒の病魔に苦しむ中でアマゾン熱帯雨林と共存する農業として森林農法を生み出し、来年パラー州で開催されるCOP30に向けて注目されている。このように明治の政界や経済界にとって、ブラジルは希望の土地だった。 終戦時の宰相を務めた東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)と明治天皇の第9皇女である聡子内親王(としこないしんのう)の間に生まれた多羅間俊彦氏(旧名、東久邇俊彦王)も特異な存在だった。1947年に皇籍離脱した4年後の51年にブラジル移住した。移住当時の邦字紙では「昭和の天孫降臨」と呼ばれ、日系社会では「殿下」と親しまれてきたが、2015年に亡くなった。 小説家の谷崎潤一郎氏の実の妹・林伊勢氏も家族と共に1926年にブラジル移住した。その娘の後藤田怜子さんは谷崎の文才を引き継ぎ、吉川英治著『宮本武蔵』のポ語版『MUSASHI』(1999年、Editora Estação Liberdade)の翻訳を手掛けた。上下巻計1800頁の大著にも関わらず10万部という空前のベストセラーとなり、現在も第8刷の3巻セット特別版が販売中だ。