『逃げ上手の若君』風間玄蕃のルーツ・風間氏と南北朝時代の忍
北条時行(声:結川あさき)は、諏訪頼重(声:中村悠一)の勧めもあって、謎多き忍びの少年・風間玄蕃(声:悠木碧)を仲間に加える。さて、この風間玄蕃にモデルはいたのだろうか? ■諏訪氏の分家にはじまる風間一族 時行の下に集った諏訪の少年少女たち「逃若党(ちょうじゃとう)」に新たに加わった風間玄蕃。変幻自在の狐面を被り、年齢どころか素顔さえ不明な少年である。子供のくせに金と女が大好きという俗物を演じているが、それすら本心かどうかはわからない飄々としたキャラクターだ。 彼の名である「玄蕃」は古代の律令制で寺や僧侶・尼の管理や外国人の接待などを担当するセクション「玄蕃寮」の略で、同時にそこに勤務する役人を指す。「蕃」の字自体には「えびす」「異民族」といった意味もあり、はじめから時行の従者となるべく集められた他の面々とは違う「来訪者」玄蕃のイメージにふさわしい。 彼の実家である風間氏は実在する。諏訪の大祝・諏訪氏の分家で、平安時代末に現在の長野市風間の地に土着したのがその始まりだ。今も現地には風を司るとされる級長津彦命(しなつひこのみこと)を主祭神とする風間神社が鎮座している。 諏訪周辺の領主は諏訪大社の祭りへの奉仕を義務づけられていた。風間氏もまた『逃げ上手の若君』の時代よりさらに100年ほど後、室町期の文安年間(1444~1449)から文明年間(1469~1487)に祭りの頭役を務めた記録が残されている。ただし忍びめいた術を磨いていたという確証はない。 敵の内情を探ったり、誤情報を流して敵を攪乱するといった諜報活動を行う者は間者と呼ばれ、労せずして勝利を得るための方策として孫子もその重要性を説いた。 「忍」という言葉の初見は南北朝時代といわれる。『太平記』巻20「八幡宮炎上の事」で、石清水八幡宮を包囲していた足利尊氏の執事・高師直の命令を受けた「逸物の忍」が奇襲攻撃をかけて宮に火を放ち味方を勝利に導いたエピソードがそれで、巻24「三宅荻野謀反の事」、巻34「結城が陣夜討ちの事」でも隠密行動を担当する工作部隊の存在が描かれており、とくに「結城が陣夜討ちの事」では敵地に潜伏した間者を味方と区別するための「立ちすぐり・居すぐり」と呼ばれる独特の符丁の存在が示される。南北朝の動乱では間者が活発に活動し、敵側もそれを見破るための対策を練っていたのである。 下総国の戦国武将・結城政勝(1503~1559)が定めた『結城氏新法度』に「草、夜業、斯様之義は、悪党其外走立もの一筋ある物にて候」という一文がある。「草」とか「夜業」などと呼ばれた諜報や奇襲作戦を行うのは「悪党」や何らかの特技を持つ者だった。そうした者たちがさらに隠密行動の技能を磨き、やがて相模の「風魔」や甲斐の「三ツ者」、「歩き巫女」といった戦国大名に召し抱えられるような集団へと発展していったのであろう。 信濃国の武将・真田氏の下にも唐沢玄蕃という優秀な忍びがいたといい、これも風間玄蕃のモデルのひとつかもしれない。こちらは信頼できる史料ではその実在を確認できないが、もう一人、やはり玄蕃の名前の元ネタと推測できる忍び・風魔小太郎については「風間出羽守」という人物が小田原北条氏のために前線で戦を補佐していたとみられる史料が残されており、風魔のイメージのルーツと考えられている。 本来表舞台に出ないのが忍びであるからその実像は謎に包まれており、研究はまだまだ始まったばかりである。
遠藤明子