「タバコをたくさん吸うのが、早くに死んでいった」シベリア抑留者が明かした恐怖の記憶
3歳で家族と樺太に渡り、18歳で樺太鉄道の機関士見習いとなった伊藤實氏。ソ連軍による占領下、勤務中のミスを理由に納得できる説明のないまま2年半の有罪判決で極寒のラーゲリ(強制収容所)に送られた。日本では戦時死亡扱いされた伊藤氏の運命は?石村博子『脱露 シベリア民間人抑留、凍土からの帰還』(KADOKAWA)の一部を抜粋・編集したものです。 【この記事の画像を見る】 ● 信号は見落としたが事故に至らず 事情説明すれば放免と思われたが… 運命の日は、1946年6月30日だった。伊藤實氏は前日夕方からその日の朝7時まで、飲まず食わずで貨物列車を走らせ続けたので疲労は極点に達していた。 やっと泊居(とまりおる)で業務が終わり帰ろうとしているとき、真岡行きの旅客列車の運転をするようにとの命令が飛び込んでくる。 誰かに交替をと頼んだのだが、人手がないから交替などできるわけがないとロシア人上司(編集部注/1945年8月11日、ソ連は日本領の南樺太に軍事侵攻し、同月22日に日ソ停戦協定成立、日本軍武装解除)は全く受け入れようとしない。1分でも発車を遅らせたら自分は軍事裁判にかけられてしまうから、何が何でも走らせろとわめき続けた。 泥のような重い体を引きずって、實氏はまた列車に乗り込むしかなかった。 午前8時、上司を乗せて泊居駅を出発。機関士の實氏は18歳、罐に石炭を入れる機関助士はまだ16歳の「ちっちゃい子」だった。しばらくは順調に走らせていたのだが、昼を過ぎると助士は立ったまま眠ってしまった。實氏も真岡が近づくと気持ちも緩み、眠りにひきずりこまれていった。
その先にはいつもは青の信号があった。しかし、はっと気が付くと信号は赤く点灯している。前方には間違えてこちらの線路に入ってきた貨物列車が止まっているではないか。このままでは正面衝突してしまう。 「この時、本当に髪の毛が立ち上がって帽子が頭から浮き上がったんだよ」 力いっぱいブレーキを踏みこみ、止まってくれと念じると、奇跡的に貨物列車の数10センチ手前で列車は停車した。そのままバックさせて、近くの蘭泊(らんどまり)駅へ。そこから真岡に向かい、無事到着したのは午後2時30分ごろである。 その日は夕方まで勤務して、夜にやっと泊居の官舎に帰宅した。眠りにつく前、電話がかかってきて、すぐに軍の施設に行くようにとの呼び出しを受ける。逃げようとは思わなかった。 確かに信号を見落としたのは自分の過ちだが、誰かを殺したわけではないし、何かを壊したわけでもない。貨物列車の機関士の方にも問題があったのだから、事情を話せばそれで放免されるだろうと、深刻さは感じなかった。 施設の事務所に行くと部屋には誰もおらず、仕方なく朝まで1人、座り続けた。