「タバコをたくさん吸うのが、早くに死んでいった」シベリア抑留者が明かした恐怖の記憶
ロシア人の通訳者が伝える日本語はほとんど意味不明で、取調官とロシア語で何かを話しているのが不気味だった。通じない問答が30分ほど続くと、やおらはっきりした日本語で判決が言い渡された。 「あなたは罪を犯した。2年6カ月の実刑です」 驚いて息が詰まり、言葉も出てこない。刑法59条であるという。 「その時の気分?訳が分かんないだけさ。正直に言えば帰らせてくれるものとばかり思っていたのに。部屋に戻ると、これから2年半もどうするんだ?ってうろうろするだけだよ。そのうちソ連兵に『ダワイ、ダワイ(行け、行け)』と追い立てられて、刑務所の外に放り出された」 外には窓に鉄格子がはめられた囚人車が停められ、機関銃を手にした監視兵が2人乗り込んでいる。まだ夜は明けていない。発車し、車が南へ下っていることはわかった。大泊港についたのはちょうど海から朝日が昇って来るときで、その瞬間の眩しい光景は鮮やかに覚えている。 大泊(おおどまり)港に停泊していた大きな船は、實氏が乗り込むとまるでそれを待っていたかのように、すぐに動き出した。1947年1月末であった。
「船には何十人もの人が乗ってたよ。ロシア人、朝鮮人、日本人……。日本人は年配者が多かった。10人くらいかな。朝鮮人もたくさんいて、そっちは若いものばっかりだ。 朝鮮人は日本人を恨んでいて、日本語を話すとリンチを受けそうだった。だから日本人はほとんど口をきかないで、みんな小さくなっていたね」 3日後、ウラジオストクに到着し、列車でハバロフスクに。そしてトラックに大勢詰め込まれてコムソモリスク・ナ・アムーレという町の収容所に運ばれた。ハバロフスクから約300キロメートル北に位置するラーゲリで、あちこちがカンカンに凍っていた。 「寒かったよ~」 ● 飢えと寒さに耐えながら森林伐採 日本人は皆死んで自分が最後の1人 ラーゲリは森林地帯にあった。大きな小屋がいくつも並び、総勢何百人もが収容されていた。 日本人はそれほど多くなく、全部で50~60人というところか。 あてがわれた部屋には二十数名の収容者が入っていた。日本人は4、5人で朝鮮人は10人くらい。あとはロシア人や他の国の人々である。日本人で若い収容者は實氏だけで、ほかは皆40~50代の中年であった。