MEIKO20周年、クリプトン 佐々木渉が語る“VOCALOID黎明期”前夜の軌跡 「そのままでいてくれることが救い」
2004年に世界初の日本語対応バーチャルシンガー・ソフトウェアとして発売されたMEIKO。その20周年を記念して、初音ミクの開発者でもあるクリプトン・フューチャー・メディア株式会社の佐々木渉氏へのインタビューを行った。 【写真】“VOCALOID黎明期”前夜を証言するクリプトン・佐々木渉氏 2003年にヤマハ株式会社が開発した音声合成技術・VOCALOIDの初代エンジンを使用し、クリプトンが初めて発売した歌声合成ソフトウェアのMEIKO。その後、2007年に初音ミクが発売され、ニコニコ動画やYouTubeを舞台に“ボーカロイド文化”として新たな創作文化が花開く前夜には、どんなことが起こっていたのか。改めて話を聞かせてもらった。 ■クリプトン社、VOCALOIDとの出会い ーー佐々木さんがクリプトン・フューチャー・メディアに入社されたのはいつ頃のことでしたか? 佐々木渉(以下、佐々木):2005年です。MEIKOが発売された翌年ですね。 ーーその前からクリプトンとの関わりはあったのでしょうか。 佐々木:はい、ありました。高校生の頃はまだネットも手が届かなかった時代で、地元である札幌で音楽を聴こうと思うと、タワーレコードに行って100連奏のCDチェンジャーみたいなものでひたすら音楽を聴くしかなかった頃でした。そういう中で、アンダーグラウンドな音楽シーンにも興味があり、“音”そのものにも興味があって。音の断片がたくさん入っているサンプリングCDというものがあり、札幌にそれを扱って商売をしている会社があるという情報からクリプトンを知りました。カタログを見たら、自然音とか効果音とか、DJの音ネタとか、ドラムループが有名ですが、実はおならだけを集めたCDとかもあったんですよ。これはサウンドアートに近しく、かつ多様なパーツとしても成立している。すごく奥深くて興味深いなという、そういうところからクリプトンに興味を持つようになって。それが高校生ぐらいの頃でした。 ーークリプトンに入社したきっかけを教えていただけますか? 佐々木:もともとクリプトンへサンプリングCDを聴きに遊びにいく機会があったんですけど、その時に一緒にいた友達がいて。そいつが僕に隠れて求人情報を見ていたらしく、気が付いたらその友達が入社していたんです(笑)。彼はそんなに多種多様な音楽を聴くほうではなかったので、たとえばアトム・ハートというテクノやラテンのミュージシャンやDJスプーキーというNYのDJであり哲学者でもあったアーティストとか、そういったマニアックなクリエイターが参加したサンプリングCDが海外から入荷された時には、僕のほうが詳しかったので“紹介コメント”を書くような手伝いをしていて。その彼がMEIKOも担当していたんです。VOCALOIDが初めて発表された時に、彼は渋谷で行われたヤマハさんの記者会見に同席したりもしていて、それを眺めたりもしていました。 ーー当時の佐々木さんはVOCALOIDという新しい技術をどのように捉えていましたか? 佐々木:VOCALOIDのソフトウェアとしては、クリプトンのビジネスパートナーであったイギリスのZERO-Gという会社が先にLEONとLOLAというソフトを出していました。その会社が先にVOCALOIDを英語圏で広めようという展開をしていたんですが、それはあまり上手くいっていなかった。当時のサンプリングCDの業界の文脈としては、たとえばダンスミュージックに使われる掛け声とか、声ネタの音源は結構売れるものだったんです。だから、VOCALOIDも頑張れば売れるんじゃないか、盛り上がるんじゃないかというところでZERO-Gさんとヤマハさんの共同で制作を進めていたんです。でも思いのほか、“声”というのは難しいんですね。たとえば古ぼけたピアノの音を聴いても気持ち悪いと感じない人は多いと思うんですけど、人間の声だと、不自然なタイミングで震えていたり、ちょっとした印象で、気持ち悪い、怖いと感じてしまう。人間は声に敏感な生き物なんです。VOCALOIDの初期の声って、ちょっと異様な声というか、のっぺりとしていて、人間の声ではない歪さを感じる部分があって。当時のイギリスの音楽制作情報誌でもこれはダメだ、というレビュー記事が載ったりしていました。 ーー当初は否定的な受け取られ方だった。 佐々木:たとえば、ダンスミュージックに使う声って、ファンキーでソウルフルなものが多く、気合の入った掛け声や魂を込めた歌フレーズ、セクシーなボイスフレーズが圧倒的に多かったんですが、そういうものを切り刻んでダンスミュージックにはめ込むような使われ方が大半だったから、VOCALOIDの歌い回しは“気持ちが入っていない平たい歌”というイメージになってしまい、アメリカやイギリスでは総スカンというか……歌と呼ぶには難しいだろうぐらいのニュアンスだったという印象ですね。当時のUSのトレンドは女声でヒップホップならミッシー・エリオットや、ソウルならメアリー・J. ブライジとか、太く迫力のある声でしっかり自分の熱情を表現するのがメインだったので、尚更だったと思います。オートチューンというエフェクターで、声を大胆に加工するTペインなどのアーティストの台頭は、ちょっと後。その状況の中でVOCALOIDが理解されるのは難しかったと思いますね。 ■MEIKOの可能性と初期VOCALOIDの課題 ーーその後の日本でのMEIKOの開発はどういう流れで進んでいたんでしょうか。 佐々木:その前に、YAMAHAさんの方で、まずVOCALOIDそのものを開発する工程がありました。最初はDAISYプロジェクトという、もう少し機械音声感が強いものがあって。そこからVOCALOID 1のリリースに至る中で、ヤマハさんも研究や実験を進めるために複数のシンガーの方に声を録音されていました。そういったプロトタイプシンガーの方の声の中から、御本人がポジティブでお名前を出してリリースしてもいいとか、これだったら大衆受けするんじゃないかとか、いくつかの思惑で男性と女性のシンガーが選ばれた。それがMEIKOとKAITOだったんです。 ーーMEIKOの発売は2004年11月ですが、佐々木さんが入社した当初の反響はどんな感じでしたか。 佐々木:興味を持ってくれた人、とりあえず買ってみようかなという人たちはいましたね。同人音楽を作っている方が同人CDの歌に使おうとか、新しいもの好きの人が仮歌に使おうとか、そういう流れはありました。でも、その段階ではニコニコ動画はなかったので、ユーザーがこれを使って作品を発表するような場所はなかった。当時の2chの専スレや、音楽配信サービスのmuzieはありましたけど、「これだ」という決め手になる場ではなかった。お互いの作品を聴き合うという、今となっては当たり前のVOCALOIDの文化のUGCらしい習慣がなかったんですよね。みんなそれぞれ部屋でこっそり歌わせているみたいな、そんな状態だったと思います。 ーー売上的にはどんな感じでしたか? 佐々木:僕が入った時には月300本ぐらい出荷することもありました。当時はREAL GUITARというリアルなギターの音が出るソフトウェア音源や、SUPERIOR DRUMMERというドラムの音源とか、大人気製品の売り上げに匹敵するくらいの売り上げはありました。大々的にプロモーションされてるワールドワイドな製品と日本のローカルで買われ続けているMEIKOが同じくらいの勢いだったんです。VOCALOIDには何か他のバーチャルインストゥルメントとは別の可能性があって面白いなという。そういう印象でした。 ーーその後の初音ミクのインパクトに比べると小さなものではありつつも、当時のDTMユーザーに受け入れられていた、という感じでしょうか。 佐々木:初音ミクのインパクトと直接比較するイメージは僕にはないんです。MEIKOがリリースされた当時って、インターネットでDTM製品が売れたりユーザーが動いたりする前夜だったんですよね。インターネットのバフがないギリギリのタイミングがMEIKOだった。それが発生したところにリリースされたのがミクであるという違いです。 ーー先程もおっしゃいましたが、当時はmuzieというインターネットの楽曲投稿サイトもありました。そこはどう見ていましたか? 佐々木:当時はテキストサイトも元気で、お絵かきサイトみたいなものもあって。それの音楽版というところですよね。muzieはネットクリエイターの繋がりとしては“プレニコニコ動画”とも言えると思うんですけれど、アマチュアのDTMユーザーの社交場みたいな感じもあったと思います。もっと遡ると、90年代初頭にはHELLO!MUSIC!や日曜音楽というような、パソコンで音楽を始めてみよう! というコンセプトのパッケージのDTMソフトが一般層向けに売っていて、RolandさんのSC-88といった音源モジュール主体で曲を作っているような人たちが情報交換をしていて。そこからハードディスクレコーディングやエフェクト技術が進んで、ベッドルームミュージックとしての録音編集テクノロジーが進化していく。そういう流れと当時のmuzieのような発表の場の発展は一緒に進んでいた部分だと思います。最初はハードウェアの音源を使っていて、そこから徐々にソフトウェアの割合が増えていく、CPUやメモリが増えてVST規格などでやれることが増えていく。とうとうボーカルもコンピューターベースになっていくんだという、その象徴がVOCALOIDだった。そういうDTMの歴史の中で、当時のmuzieには若いクリエイターとして後にボカロPとして活躍するOSTER projectさんやsasakure.UKさんがいた、そういう世界だと思います。 ーー佐々木さんが入社された段階ではKAITOが開発中だったと思いますが、そのあたりはどんな記憶がありますか? 佐々木:僕が最初に会社に入って任された仕事が、剣持秀紀さん(ヤマハ・当時のVOCALOIDプロジェクトリーダー)とメールのやり取りをしながらVOCALOIDのバージョンアップのパッチを検証するというものだったんです。その時に、隣を見たらKAITO……当時はまだKAITOじゃなくてコードネーム TAROが唱えてる呪文をヘッドホンで聴きながらウトウトしている同僚がいたり。KAITOの名前募集の企画会議を行ったり。そういう時期でした。ただ、MEIKOもKAITOも作られたのは少し前で、ヤマハさんとのやりとりも、レコーディングから立ち会って、というミク以降のものとは違う流れでした。 ーーこの頃、佐々木さんはVOCALOIDの先行きやポテンシャルについてはどんなふうに思っていましたか? 佐々木:私自身、当時のセカイ系と括られるアニメが結構好きだったり、マスでもドラマ『電車男』(フジテレビ系)を流行らせようという動きがあり、秋葉原カルチャーがこれから熱い、みたいなムードがあったんですよね。たとえば“秋葉系DJ”のようなものだったり、さらにはAKB48だったり、あとは同人シーン発の強い作品が複数台頭してたりアダルトゲームの文脈も非常に大きなうねりになって、コミケのようなイベントにもそういう盛り上がりが現れていた。サブカルがトレンドになるぞ! みたいな雰囲気もあったりした中で、伊藤(博之/クリプトン・フューチャー・メディア株式会社・代表取締役)からも、こういうトレンドもあるし、MEIKOを買ってくれてる人たちにもそういうシーンに敏感な人は多そうだから勉強してねと言われ、秋葉原でランダムに買ってきたサブカル情報誌みたいなものを束で渡されたんです。ただ、マニアックで、あまり読みきれなかったのは覚えてます(笑)。とはいえ、音楽的にも、Perfumeもすでに盛り上がってましたし、鶴田加茂(ika)さんが後に合流するMOSAIC.WAVが電波ソング・ジャンルの旗印として注目されてたり、音楽シーンの変化には注目していました。