4年で108人死亡 岡山県「人食い用水路」はなぜ誕生したのか? 危険性は近年緩和も、そもそも存在するワケとは
工場立地の進展
さて、もともと農地として開発された干拓地に、どうして多くの住宅が建設されるようになったのだろうか。岡山市南部(岡南)を中心に説明しよう。 この地域では、1899(明治32)年から藤田組の創業者・藤田伝三郎による干拓事業が順次開始されている。このときにできあがった干拓地は、 ・農地 ・工業地 から成っていた。藤田組の事業では、農地と工業地が規則正しく配置されており、工業地には戦前から倉敷絹織(現クラレ)をはじめ、汽車製造や立川飛行機といった工場が数多く立地するようになった。こうして農地と工業地が広がっていた岡南地区に変化が起こったのは、戦後になってからのことである。 太平洋戦争末期の空襲で壊滅した岡山市では、1946(昭和21)年9月に戦災復興都市計画事業として、岡山駅・城下町・港・工場地帯を結ぶ放射環状型の街路計画や区画整理事業が本格化した。 ここで志向されたのは、 「農業中心から工業中心への転換」 だった。都市計画は産業中心の開発を軸としており、将来の都市像への視点は乏しかった。この工業化は、岡山市だけでなく県全体で進められた。
宅地開発の急速進展
1951(昭和26)年に三木行治(ゆきはる)が岡山県知事に就任すると、工業化に向けた様々な大規模事業が立案された。例えば、水島地区の埋め立てによる工業地帯の造成などである。こうした事業によって、岡山県は農業県から工業県へと急速に脱皮していった。 1952年には企業の優遇措置を盛り込んだ県企業誘致条例が制定されている。これにより、岡山市や倉敷市の工業地帯開発が加速度的に進み、従来は農地だった地域の都市化が始まることになった。 企業立地にともない、近接地域では宅地開発が活発化した。例えば岡山市内では、立川飛行機跡の広大な干拓地を所有していた同和鉱業が宅地開発に乗り出した。1954年に市に用地を売却して誕生した、あけぼの町を皮切りに、築港栄町、同新町、同緑町、同ひかり町といった分譲地を1978年までに計画的に販売した。 こうして、従来は農地だった地域は宅地に変わり、人口も急速に増加した。例えば、岡山市南区芳泉町周辺の状況はこうだ。岡山県紙『山陽新聞』から引用する。 「1974年に芳泉高校が開校。4年後に福浜小と芳田小から分離して芳泉小が誕生、芳泉幼稚園もできた。さらに2年後には芳泉中が開校した。芳泉小の児童数は、ピークの87年には千六1636人に増え、90年に2、3年生が通う「ひばり分校」を北側に新設した」(『山陽新聞』2003年7月24日付朝刊) この記事によると、芳泉学区では1970年代から学校の新設が相次ぎ、芳泉小学校の児童数は1987年にピークの1636人に達したという。もともとは人口の少なかった農村地帯が、わずか数十年で膨大な人口を抱える住宅地に変貌したことがわかる。