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田川基成

砂川闘争の現場を歩く――土地はなぜ返還されたのか

2017/02/02(木) 14:08 配信

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「砂川闘争」と聞いて、イメージできることはあるだろうか。米軍立川基地の拡張計画に反対した運動は、60年以上も前のことだ。どういう出来事だったのかを語れる人はいまや多くはないだろう。ただ、日本の米軍基地問題を考えようとすれば、「砂川」は避けて通れないテーマとして浮上してくる。沖縄の米軍基地問題や、米国のトランプ大統領誕生によって日米安保の在り方が改めて問い直されようとしているいま、「砂川」とは何だったのか、現地を歩いて考えてみたい。
(ジャーナリスト・高瀬毅/Yahoo!ニュース編集部)

米軍基地メインゲート跡に残るヒマラヤ杉

目指したのは、JR中央線立川駅。午前9時。駅の北口に出ると、通勤や通学の人たちが急ぎ足でさまざまな方向へと塊になって流れていく。駅周辺には伊勢丹、高島屋のほか、オフィスや店舗などが入ったビルが建ち並んでいる。

現在の立川駅周辺(撮影:田川基成)

1950~60年代の立川を写した『立川の中のアメリカ』という写真集を見ると、北口の繁華街は米軍基地のメインゲートに近い場所だったことがわかる。ゲートを入ってすぐの所にあった細々としたヒマラヤ杉は、いまでは高さ20メートル以上もある巨木になっていた。

かつての米軍立川基地メインゲート前(撮影:田川基成)

駅の北西側に足を向けた。そこには立川広域防災基地がある。2016年の大ヒット映画「シン・ゴジラ」で、日本政府の臨時指令本部が置かれた場所として登場する。時折、離着陸するヘリコプターのローターの音が聞こえる。防災基地の西隣に陸上自衛隊立川駐屯地があるのだ。さらに西側には国営昭和記念公園。すべて米軍基地があった場所である。旧米軍立川基地の広さは、580万平方メートル。途方もない広さだった。

立川広域防災基地にある東京消防庁の施設(撮影:田川基成)

第1幕:米軍基地の「拡張」をめぐる「闘争」

砂川闘争の現場となったのは、立川広域防災基地の北側のエリアになる。当時は、東京都北多摩郡砂川町(現在は立川市砂川町)。町の一角に、「砂川平和ひろば」というプレハブの小さな資料館がある。中に入ると、穴だらけの団旗や、写真、本などの資料などが展示してある。開設したのは、砂川闘争の副行動隊長だった宮岡政雄さん(故人)の次女で、元教師の福島京子さん(67)。2010年に建てたものだ。

「父の背中を見て育ちました。相当な覚悟をもって闘っていました。戦争の道具である基地の拡張のために、先祖からの土地を絶対に使わせてはならないという思いがあったからです。父も母も亡くなり、私にできることは何かと考えた時、闘争のことを広く伝えることだと思いました」

福島京子さん(撮影:田川基成)

福島さんの父、宮岡さんは江戸時代から続く農家の16代目。農家の大黒柱として耕作に励んでいたが、太平洋戦争の終戦から10年目の1955年、突如、米軍基地拡張の話が持ち上がった。

なぜ、砂川に米軍基地なのか。

もともと砂川は江戸時代初期から続く農村で、東西に走る五日市街道に沿って農家や畑、住宅などが街道を挟み込むように並んでいた。戦後すぐの戸数は1878戸。人口は8900人。10年後の1955年には約2500戸、1万2600人に増加した。

基地との縁は1921年に飛行場建設が決定し、1922年に旧日本陸軍航空第5大隊が移駐してきたことが始まりだ。場所は現在の五日市街道の南側。1945年8月に戦争が終わると、今度は占領軍である米軍が飛行場を接収した。

米軍はその飛行場を北へ500メートル拡張するのだという。住民たちは驚いた。町が東西に真二つに分断され、住民の土地の一部も失うことになるからだ。

資料館に掲示されている手書きの地図には、収用認定区域や滑走路延長予定地などが示されているほか、「すわりこみをした場所」などの書き込みがある(撮影:田川基成)

町民は反対の総決起大会を開催し、基地拡張反対同盟を結成。町長自ら反対を表明し、町議会も拡張反対を決議した。1週間たらずで、「町ぐるみ」の拡張反対運動へと発展していく。写真集『米軍基地を返還させた砂川闘争』には、ハチマキを締め、隊列を組んで五日市街道をデモ行進する男たちとともに、割烹着やモンペ姿の女性たちも写っている。

目標は「測量の阻止」

宮岡政雄さんの著書『砂川闘争の記録』によると、米軍滑走路延長のためには、農民の私有地を行政が強制的に取得(=収用)する必要がある。その手続きを「収用認定」という。そのためにはまず、東京調達局(のちの東京防衛施設局)局長が、米軍立川基地拡張の事業主となる。収用手続きは日米安保条約に基づいて行うが、そのための特別措置法があり、内閣総理大臣に認定の申請をする。

東京調達局は、内閣総理大臣の認定を1955年10月に取りつけた。これにより、砂川の農民の土地の利用は東京都の土地収用委員会の裁決だけで決定できるようになった。宮岡さんも、自分の土地に手をつけられなくなった。

故・宮岡政雄さん。宮岡さんの自宅はかつての収用認定区域(拡張予定地)の中心に近い所 にあった(撮影:田川基成)

資料館に展示されている、宮岡さんが使っていた六法全書(撮影:田川基成)

次の段階として、土地の補償額を決めるために精密な調査と測量が必要になる。東京調達局は、そのための測量を行うことになるが、農民側にしてみれば、測量を許せば土地収用手続きが進んでしまうため、なんとしてもこれを止めたかった。

測量をめぐってもみ合いに

住民側と警官隊との間で接触や衝突が起きた。『米軍基地を返還させた砂川闘争』によると、1955年8月以降、同年11月にかけて4度の衝突で、少なくとも住民や支援の労組員など10人が逮捕され、計約200人の重軽傷者が出た。

資料館に展示されている写真(撮影:田川基成)

測量をめぐる衝突が激しくなるのは1956年からだ。支援する労働組合に加え、全学連(全日本学生自治会総連合)も数万人規模で参加した。最も激しい争いが起きた10月12日から13日には、警官隊にこん棒で殴られたり、蹴り上げられたりして、1000人が重軽傷を負い、メディアは「砂川に荒れ狂う警官の暴力」「警棒の雨・暴徒と化した警官隊」などと大々的に報道した。翌14日、政府は突然、測量中止を発表する。『写真集 砂川闘争の記録』には、「ラジオからニュースが流れると町はたちまち歓喜のるつぼとなり、焚火を囲み、3000人が深夜まで肩を抱き合い、手をとりあって勝利の喜びを確認しあった」とある。

これほどの大きな闘争となったのは、戦争の記憶がまだ生々しく残る時代だったということがある。平和主義、基本的人権の尊重、国民主権をうたった戦後憲法にも通じるものでもあったようだ。ただこれは1幕目に過ぎなかった。

第 2 幕:「米軍基地の中にある民有地」をめぐる訴訟

第2幕。それを説明するには、終戦直後に時計の針を戻す必要がある。というのは、米軍は、戦後すぐに旧日本陸軍の立川飛行場を接収したが、それだけでなく、一部の農民の土地も強制的に接収した。これが伏線となった。

接収対象の農地は、のちに砂川闘争の行動隊長となる青木市五郎さんを含め、8戸。接収された農地は5万4000平方メートルだった。

「そのままでは先祖伝来の土地が奪われてしまうというので、祖父は周囲の心配をよそに、単身、基地に乗り込んだそうです。基地司令官と掛け合い、農地を接収したということをハッキリさせてほしいと交渉したんです」

そう話すのは 、市五郎さんの孫の栄司さん(62)だ。

青木栄司さん(撮影:田川基成)

直談判は5回に及び、5回目にやっと司令官に会えたという。最終的に米軍が青木さんら全戸に賃貸料を支払う契約で決着した。契約書によれば、土地は1002坪(約3300平方メートル)で、毎月の賃貸料1坪8銭。1002坪だと月に80円16銭にしかならなかった。とはいえ、占領軍だった米軍に単身乗り込む行動力は、いまでも青木さんの家族や周辺の人たちの語り草となっている。

その青木さんが、砂川闘争が激しくなった1956年4月、土地の明け渡しを求める訴訟を起こす。

「反転攻勢に出たわけです。土地への愛着でしょうね。祖父は桑苗業を営んでいましたが、砂川は乾いた土地で、根がよく張るんです。だから砂川でなければダメだという思いがあったんでしょうね」(青木さん)

青木さんの訴訟に対して、東京調達局は、その土地を継続使用するために測量を開始した。それに対して拡張反対の住民や支援者たちは測量阻止の行動に出た。1957年のことだ。

中央の黒い三角形の区域が青木さんの土地。滑走路の一部になっていたことがわかる(撮影:田川基成)

「砂川事件」は「基地内の民有地」をめぐって起きた

この時、測量を止めようとした人たちと、警官隊との間で衝突が起き、反対派の一部が米軍の敷地内に入り込んでしまった。当時東京学芸大学1年生で参加し、のちに立川市議会議員となった島田清作さん(78)によれば、「いっしょに基地に入り込んだデモ隊は数十人いた」という。その時には拘束された者はいなかったが、2カ月後、学生や労働組合員ら23人が逮捕され、7人が起訴された。これが「砂川事件」である。

島田清作さん(撮影:田川基成)

黒枠が当時の米軍基地。島田さんが指差すのが「砂川事件」の現場となった場所。赤の格子は拡張予定地だった区域(写真手前が北の方角)(撮影:田川基成)

米軍基地への立ち入りは、日米安保条約の第3条に基づく行政協定の刑事特別法(1952年制定。60年の改正により現在は「第6条」に基づくと法令名を変えている)で禁止され、罰則が定められている。7人はこの法律に違反したとして起訴されたのだが、裁判の争点に浮上したのは、そもそも米軍の駐留は戦力の保持を禁止する日本国憲法に違反するのではないか、ということだった。

砂川事件を報じる当時の新聞(撮影:田川基成)

第1審の東京地裁の判決が下されたのは1959年3月30日。伊達秋雄裁判長は「米軍の駐留は憲法9条で禁止されている戦力の保持に該当し、駐留米軍を特別に保護する刑事特別法は憲法違反。したがって米軍基地に立ち入ったことは罪にならない」とし、全員無罪とした。これが裁判史にも残る有名な「伊達判決」である。

ところが、検察は高裁を飛ばして、最高裁に「跳躍上告」する。8カ月後の12月16日、最高裁(田中耕太郎裁判長)は東京地裁判決を破棄、東京地裁に差し戻した。争点の米軍基地に関しては「日本に駐留する米軍は憲法9条2項にいう『戦力』に当たらない」とした。

現在「砂川判決」と呼ばれるのは、この最高裁判決を指す。2015年に成立した安全保障関連法の審議中に、自民党の高村正彦副総裁が引用した。判決文の「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の機能の行使として当然のことといわなければならない」という部分が、集団的自衛権行使の根拠とされた。

これに対して、法曹関係者や事件の当事者などから、砂川判決は、憲法は自衛権を否定していないと言っているだけで、そもそも集団的自衛権が争点の判決ではなかったと、反論や批判の声が上がった。それでも砂川判決が持ち出されたのは、最高裁判決の重みがあったからだ。

「砂川事件」の現場の現在(撮影:田川基成)

返還された土地の今

砂川事件は決着したが、1960年代に入っても土地をめぐる「闘争」は続いた。元立川市議の島田さんによれば、「ベトナム戦争は激化し、立川基地の空輸基地としての使用はますます激しくなった」という。米軍は再び基地拡張に動き出し、滑走路をオーバーランした米軍輸送機が農家の近くで爆発炎上するという事故も発生した。1967年に東京都に革新系の美濃部亮吉知事が誕生すると、潮目は急変する。土地の収用認定が取り消されたのだ。1969年、米軍は基地移転を発表、1955年から続いてきた砂川闘争は幕を閉じた。

その後、1976年に、青木さんの裁判は和解が成立し、土地の返還が決まった。そこはいまどうなっているのか、栄司さんに案内してもらった。

五日市街道の南側に柵があり、入ると、アスファルトで舗装された、広場のような奇妙な土地が広がっていた。「これが昔の米軍基地の滑走路の跡です。うちの土地は向こうです」

滑走路跡のフェンスを開ける青木さん(撮影:田川基成)

200メートルぐらい南側に林が見えた。林の中に足を踏み入れると、歩道が奥の方に向かって延びていた。周囲は元滑走路だったとは思えないほど深い緑に覆われている。「返還された時、何もなかったんですが、種が飛んできたり、雑草が生えたりしていつの間にかこんなになったんですね」

歴史の現場を見ながら、青木さんは静かにこう言った。

「終わってみれば、結局アメリカは基地を 1 センチも拡張できなかったのです」

更地で返還された土地に再生した雑木林(撮影:田川基成)


高瀬毅(たかせ・つよし)
1955 年長崎市生まれ。明治大学政治経済学部卒業後、ニッポン放送入社。記者、ディレクター。1982 年ラジオドキュメンタリー『通り魔の恐怖』で日本民間放送連盟賞最優秀賞、放送文化基金賞奨励賞。1989 年よりフリー。雑誌『AERA』の「現代の肖像」で 19 年にわたって人物ルポを発表する一方、ラジオ、テレビでコメンテーターやナビゲーターなども務めてきた。著書に『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』(平和・ 協同ジャーナリスト基金賞奨励賞)など多数

[写真]
撮影:田川基成
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝

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