乗車したバスの運転士が耳の聴こえない「ろう者」だったら? 「危ないんじゃないか?」と感じるのは無理もないかもしれないが、そこには大きな誤解が潜んでいる。道路交通法施行規則の改正により、補聴器をつけて一定の聴力があれば、「第二種運転免許」の取得が可能になったからだ。そして2017年10月、全国で初めてろう者のバス運転士が誕生した。松山建也さん、25歳。同僚たちは当惑したが、それは最初だけ。ひたすら前向きな一人の若い運転士が、ろう者、そして「障がい」に関する壁を崩しつつある。(吉田直人、笹島康仁/Yahoo!ニュース 特集編集部)
「運転、僕の何倍もうまいですよ」
東京都北区、JR赤羽駅近くの停留所。午前8時前に1台の大型バスが滑り込んできた。1組の親子が乗車すると、運転士の松山さんは身ぶり手ぶりを用いて母親から運賃を受け取り、領収書を発行する。
手元の金額表示を指し示したり、“領収書”の形を両手で作って見せたり。乗客とのやりとりはスムーズだ。
東京バス株式会社に勤務する松山さんは2017年10月、全国で初めて、ろう者のバス運転士としてバス会社に入社した。12月からは正式な乗務に就き、今はJR赤羽駅・王子駅と羽田空港を結ぶリムジンバスを運転している。
この日、車掌として同乗したのは酒井力さん(34)だ。松山さんとは同期入社。前職はタクシー運転手だという。
「松山さん、僕の何倍も運転うまいですよ。車両感覚が優れていて、『先を見通す力』も高い。バスでは急ブレーキはご法度ですから、すごいなと。(聴覚)障がいですか? 運転には何も支障はないと思います」
左折時には、運転席の左側に立つ酒井さんが「オーライ、オーライ」と言うようにジェスチャーで合図を出す。2人に“会話”が必要な時は「筆談ボード」にサラサラと文字を書き合う。
慌ただしい朝の幹線道路の雰囲気とは裏腹に、松山さんは滑らかな発進・停止を繰り返しながらバスを走らせた――。
「マイホームを」の夢を追って
聴覚障がいは、聴こえ方によって大きく三つに分かれている。「伝音性難聴」と「感音性難聴」、両者の混在した「混合性難聴」だ。
このうち、松山さんは「感音性難聴」に該当する。音が歪んだり、響いたりして、聴こえる言葉の明瞭度が悪くなるタイプ。普段は手話話者であり、補聴器をつけて生活している。補聴器を外すとほとんど何も聴こえないという。
「鉄橋や陸橋、ガード下で少し音が聴こえるくらい。補聴器をつけると日常の音は聴こえますが、音声による言葉の判断は難しいです」
ろう学校を卒業後、最初の勤務先は金融機関だった。障がい者を多く雇う「特例子会社」。50人ほどの障がい者と共に働いていたさなか、「マイホームを建てたい」という夢を持つようになり、給与などの条件がより良い勤務先を求めた。そこに、自身の運転好きが重なったという。
「マイカーでろう者の友だちとドライブした時、運転の楽しさに気付いたんです」
しかし、家族は反対した。松山さんの両親はろう者で、姉は聴者である。
「トラック運転は長時間だし、事故の危険性もあるからやめなさい、と。でも、自分の考えを伝えて、説得しました」
まず、トラック運転手に
松山さんは運送会社の入社試験に挑んだ。その会社はそれまでろう者の採用経験がなく、会社としても不安があったという。それを知った松山さんは、音声認識ソフトやSNSを用いたコミュニケーション手段を面接で提案し、晴れてドライバーとして入社を果たした。
「会社の方に理解していただき、『一緒に頑張ろう』と言ってくれました。こちらの熱意が通じたのかもしれません」
入社後は、4トン車で半年、10トン車で1年半、トラックのハンドルを握った。無事故、無違反で1年が過ぎた頃、松山さんは社長に「ろう者のドライバーをもっと増やしたらどうか」と提案する。運送業界は慢性的な人材不足に直面しているからだ。当時、ろう者の社員は松山さんだけだった。
社長に認めてもらうと、松山さんは自らSNSなどで告知し、最終的に10人が新規採用されたという。
「ろう者の中にはトラックドライバーの夢を持っている人が何人かいました。その夢をかなえてあげることも、私の役割だと思ったんです」
「転機」となった規則改正
さらなる転機は、2016年4月に施行された道路交通法施行規則の改正だった。
バスやタクシーの乗務が可能になる第二種運転免許は改正前、「補聴器を使用せずに、10メートルの距離で90デシベルの警音器の音が聴こえること」という条件だった。その制限が緩和され、補聴器を使用してこの条件を満たせば、二種免許の取得が可能になったのである。
すると、京都府でさっそく、免許取得者が誕生した。「旅客輸送を夢見ていた」という松山さんも動いた。
運送会社を退職し、ほどなく二種免許を取得。そして、観光バス会社を中心に転職活動を開始した。ところが、4連敗。面接にも進めなかった。不採用の理由は全て「コミュニケーション面の不安」だった。
「ある会社からは言われました。観光バスでは、複数台で行動する時、無線での連絡が必要になる。(採用は)難しい、と」
「最初に反対したのは私です」
5社目が東京バスだった。書類審査を通過し、面接へ。その場で向き合った代表取締役の西村晴成さん(48)は「熱意がものすごく伝わってきた」と振り返る。
「(松山さんは)用意周到やったわけですよ。(筆談)ボードを持ってきたり、(音声)変換器があります、とか。今までトラックの運転手をやってて(ろう者の)仲間も増えていたのに、夢がバス運転士やから、って辞めて。要は、退路を断って来た。これは相当な思いがあるな、と」
西村さんは、社員それぞれに「意見を聞かせてほしい」と問いかけた。すると、「採用に賛成」という意見は出てこない。
取締役・統括本部長の佐藤智彦さん(39)は言う。
「正直、最初に反対したのは私です。障がいを持った方と一緒に仕事したことがなかったので、どのようにフォローすればよいか、想定ができなかった。お客様とのやりとりや安全面、社との連絡をどうすればいいのか、と」
運行管理部の久保田健治さん(69)は、松山さんの入社後に研修を担当した人物だ。久保田さんも採用に不安があったという。
「ちょっと難しいんじゃないか、ということを申し上げたんです。社長(代表取締役の西村さん)も『みんながそう言うならば……』と」
5社目の不採用通知を受け取った松山さんは、観光バス乗務の就職を一度諦め、福祉バスやスクールバスの採用試験を考え始めた。
覆った、不採用通知
不採用とした後も、西村さんは悩んでいた。
「(不採用を決めて)家に帰ってからも、ずーっと、彼のことが気になって仕方がなかったんですね。僕がチャレンジしてやれへんかったら、誰がチャレンジしてやるんかなと……。あくる日、佐藤に、経営判断として(松山さんを)採用したいと思っているから、もう1回、彼と話したい、と。彼の夢をかなえるべくやってみようとなったんです」
2度目の面接を経て東京バスに入社した松山さんは、社員のアドバイスやサポートを受けながら、研修を無事にこなした。
松山さんは「研修で使用したバスは観光バスだったので、高級感があり、かなり緊張して走った覚えがあります。足が震えてました」と笑う。
研修担当の久保田さんは、こう振り返った。
「むしろ、楽しんでいるように感じましたよ。同じ大きさの車を彼はトラックで経験してましたから、運転技量は大丈夫。ただ、『トラックの運転だな』が第一印象でした。私たちが運ぶのはお客様。車酔いをしたり、不快感を与えたりするようではいけない。まずは、優しい運転。止まる時、カーブを曲がる時。一つ一つを毎日のように指導しました」
採用が決まった時、松山さんはどう感じたのだろうか。
「『社内のみんなでサポートしていく』という話をいただいた時は、とてもうれしかったです。家族に報告したら『すごいね。無理だと思ったのにすごいね』って。父親は『親戚や友だちにも報告しなきゃ』って」
「偏見というより、誤解が多い」
法改正などで選択肢が広がっているものの、聴覚障がい者の就労には、依然として課題も多い。
早稲田大学障がい学生支援室に勤務する志磨村早紀さん(28)は「聴覚障がい者に対する偏見というより、誤解が多い」と話す。
志磨村さんは、松山さんと同じ「感音性難聴」。だが、普段は手話ではなく、口話でコミュニケーションしている。職場では、障がいの当事者として、身体障がい学生への支援を担当。一番多いのが、聴覚障がいのある学生だという。
「私も『しゃべれているから聴こえているだろう、支援は要らないだろう』と結構言われるんですけど、そこには(認識の)ズレがある。私には私なりに困ることがあるんです」
「それは(障がい)当事者にも責任はあると思っていて。どういう聴こえ方をしていて、どういう時に困るのかをきちんと発信していかないと、周囲の理解や支援は得られない。当事者からも歩み寄らないと」
聴覚障がいの学生の場合、障がいの程度が軽い人ほど、就職で壁に突き当たるケースが多い、という。
「例えば、聴覚障がいがあることを履歴書に書かないでエントリーしちゃう。それで、面接担当者の話が聴き取れなくて、落ちてしまった、とか。そりゃそうじゃん、みたいな。(障がいが就職に)不利になるんじゃないか、という気持ちが働くんです。入社後に職場でコミュニケーションがうまくいかず、悩んでいるという声も多いです」
志磨村さん自身も、かつては自身の障がいを伝えること、支援を受けることに負い目を感じていた。「頑張れば何とかなるんじゃないか」と。支援を受けるまでの心理的なハードルを、障がいの当事者がどう乗り越えていくか。それが大きな課題の一つだと、志磨村さんは感じている。
不安を打ち消した社員旅行
話は再び、東京バスに戻る。
松山さんの入社後、実は社員にも変化が起きたという。研修担当だった久保田さんによると、2017年12月に正式乗務が始まった後も、運転を不安視する声が多かった。「彼の運転で本当に大丈夫なのか」と。
変化のきっかけは、その月の社員旅行だった。久保田さんは言う。
「湯河原にバス2台で行き、2台目を松山君に運転させたんです。どんな運転か、同業者には分かるから。そうしたら『(運転が)良かった。あの運転なら安心だ』と。ハンディはあるので、フォローは必要ですが。その夜は彼を交えて慰労会でした」
代表取締役の西村さんにも社員たちの声が届いていた。
「うちのベテラン(運転士)が声をそろえて言うんですよ。『運転は全然大丈夫。いつでも出せます』と」
「採用反対」を最初に言った統括本部長の佐藤さんは――。
「やっぱり“情報”だと思うんです。私も最初は不安でした。耳が聴こえなくて、運転ができるのか、と。ただし、よく聞いてみると、全く聴こえてないわけじゃなくて、補聴器をつければ、救急車や消防車のサイレンの音だって聴こえる。“聴覚障がい”という言葉の捉え方の問題があると思う」
この取材に応じてくれた理由も説明してくれた。
「彼の情報を積極的に公開し、(乗客の)皆さんに安心してもらえれば、と。(実情をオープンにすれば)いろいろなところで活躍できる人が増えていくんじゃないのかな、と」
東京都北区にある東京バス本部では、社員の待機室に手話の本が並んでいる。松山さんとコミュニケーションをとるため、手話教室に通う社員もいるという。
「そんなことは、忘れちゃってます」
代表取締役の西村さんはこんなふうに語る。
「彼は同じ仲間なんだ、と。いつも、彼を特別扱いは絶対にすな、言うてます。会社の中が変わって、業界の中が変わって、一般の方々がより理解を深めてくれれば、もっとそういう(ろう者の)方々が新しい世界に飛び込んでくれるかもしれない。そのきっかけになると大いに期待しています。松山にも『どんどん(ろう者のドライバー)仲間増やせよ』って言うてあるんです」
採用するかどうかで、当初は社内に立ったさざなみ。最も近くで見てきた研修担当の久保田さんは「そんなことは、忘れちゃってます」と一蹴した。
王子駅を出たリムジンバスが羽田空港に到着した。
国内線ターミナルで数人の乗客を降ろし、終点の国際線ターミナルへ。軽快なハンドルさばきで、停留所にバスを寄せ、停車させると、松山さんはふーっと息を吐いた。
これから再び乗客を乗せ、赤羽駅へ戻る。午後2時過ぎには、午後便の乗務に就く。自身の乗務スケジュールが更新されると、Twitterで欠かさず告知するのもルーティンの一つだ。中には、覚えたての手話で「ありがとう」と言って降りていく乗客もいる。
まずは、近距離のリムジンバスから。それが会社の方針だが、松山さんのゴールはブレていない。
「最終目標は観光バスの運転士です。ろう者や、手話に興味のある人たちのツアーを任されて運転したいと思っています。また、同じろう者のバス運転士の夢をかなえられるようなサポートをしたいと思っています」
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吉田直人
1989年、千葉県生まれ。2017年にフリーランス・ライターとして独立。専門は障がい者スポーツの取材。
笹島康仁
1990年、千葉県生まれ。高知新聞記者を経て、2017年からフリー。
[写真]笹島康仁
[動画制作]撮影・編集:笹島康仁、音楽:藤山拓善