世界遺産として有名なアンコールワット遺跡があるカンボジアの街で、18年間、現地の恵まれない子どもたちを世話してきた日本人女性がいる。メアス博子さん、43歳。カンボジア社会の急速な発展の陰で、虐待される子どもたち。その境遇に思いを寄せてきたという。彼女はそこで何を見続けたのか。(ノンフィクションライター・山川徹/Yahoo!ニュース 特集編集部)
カンボジアの「お母さん」
午前8時、マンゴーやデイゴが植えられたテラスを柔らかな日差しが照らしていた。ときおり熱帯らしからぬ、さわやかな風が吹き込んでくる。
アンコールワットの街として知られるカンボジア北西部にある第2の都市シェムリアップ。ここにNGOスナーダイ・クマエ孤児院がある。
朝、足を運ぶと、授業がない子どもたちがホウキを手に掃除を始めていた。5歳の女の子が自分の背丈よりも柄の長いホウキを持ち、振り回すように庭を掃く。といっても、ただ砂ぼこりを巻き上げているだけなのだが、年長の子どもを真似る姿がほほ笑ましい。
施設で暮らすのは5歳から21歳までの20人。みな親に虐待を受けた子どもたちである。1998年の設立から今日まで施設で過ごしたのは、90人を超す。なかには高校や大学で学び、日系企業に勤務したり、通訳やガイドとして活躍したりする卒業生もいる。
1ヘクタールの敷地に、居住施設、物資などを保管する倉庫、食堂兼教室、グラウンドなどの設備がそろう。子どもたちは公立の学校に通いながら自立するスキルを身に付けるために放課後や休日には施設内で、パソコンや英語、伝統舞踊のアプサラダンスを学ぶ。
子どもたちの面倒を見るのが、このNGOの代表で、子どもたちに“お母さん”と慕われるメアス博子さんと3人のカンボジア人スタッフである。
「孤児院での私の原点が、掃除やったね」
18年前を思い浮かべたのか博子さんは苦笑いして、続けた。
「でもね。私は子どもたちのために、という思いでカンボジアにきたわけではないんです。ただ目の前の問題に向き合ってきただけなんですよ」
和歌山県出身の博子さんとカンボジアとの出合いは1997年。母の知人がカンボジア難民支援を行っていた縁で、大学の卒業旅行でカンボジアを訪れた。
カンボジア男性との結婚
「特別な思い入れはなかった」というカンボジアで、1人の男性と知り合った。彼は160万人が虐殺されたとされるポル・ポト政権時代、難民として来日した経験を持っていた。当時は日系のゼネコンに勤務し、貧しい子どもに教育の機会を与えたいと孤児院を建設していた。日本人にはないバイタリティーに惹かれた博子さんは、再度の渡航を経て結婚に踏み切った。
夫とプノンペンで暮らし始めたのは1999年。内戦終結から6年が過ぎていた。とはいえ、街には時折、銃声が響く。自由に外出するのがためらわれ、ストレスを感じる毎日だったという。
そこで博子さんは夫と離れ、生まれたばかりの長男を伴って比較的治安が良かったシェムリアップに移り住む。責任者として、できたばかりのスナーダイ・クマエでの生活をスタートさせたのである。
「2000年当時、高床の建物が一軒あるだけ。そこに貧しい家庭から引き取った20人の子どもが暮らしていました。でも食事と学校に行く時間以外、誰がどこで何をしているのか分からなかった。本当に野放し状態だったんですよ」
施設の敷地の一角に掘った穴へ無造作に捨てられた大量の生ゴミから、ウジが無数に湧き、ハエが飛び回っていた。ひどい臭いも漂っている。
彼女は連日、炎天下のなか自作の焼却炉に生ゴミを運び、黙々と燃やし続けた。やがて「お母さん」の奮闘を見かねた子どもたちが手伝ってくれるようになる。
次に取り組んだのが、手洗いや歯磨きなどの徹底だった。
なぜ手を洗う必要があるのか。何度も繰り返し説明した。いつか理解し、習慣になる日がくると信じ、幼い子どもにも同じように接した。彼女自身も両親にそう教えられたからだ。
「子どもたちの生活は目に見えて変わりました。手洗いや歯磨きが定着しただけでなく、年長の子が年少の子を自然に教えるようになったんです。私のやりがいになったのが、子どもの変化。自分が知っていることを彼らに伝えていければなと」
毎日、怖くて泣いた
日系の建設会社に勤務する30歳のイー・ソケインさんは当時を知る卒業生だ。彼女は幼いころに父を亡くし、農作業などの手伝いで満足に学校に通えなかった。「勉強をしたいという気持ちはもちろんありました。でも村の生活で最も大変だったのは食べ物がなかったこと」と流暢な日本語で語った。
叔母の家で暮らしていた時、「孤児院に入ったらどうか」と親戚に勧められる。当時、ソケインさんは12歳。カンボジアの孤児院には、両親がいない子どもばかりではなく、貧困を理由に親と離れて暮らす子どももいる。しかし彼女は不安だった。
「悪い大人に売られてしまうんじゃないかって、怖くて、怖くて毎日泣いていました」
もしも村に残っていたら――とソケインさんは言う。
「何も知らない12歳のままだったでしょう。でもいまはスナーダイ・クマエで教えてもらった日本語を使って仕事をしています。お母さんと出会ったおかげで、私は広い世界を知ることができたんです」
そのころ、博子さんは20代半ば。若い日本人女性と20人を超すカンボジア人の子どもたちの共同生活である。問題が起きないわけがなかった。
味わう挫折感
手のかかる幼少期だけ施設に預け、労働力になる10代半ばになると「働かせて金を稼がせるから」と引き取りにくる親権者が少なからずいた。「そうやって子どもたちが村に戻ってしまったんです。子どもには落ち着いた環境でもっと勉強させてあげたい。私はがんばっているのに……と焦っていました」
理想的なのは、孤児院と親や親類が子どもの自立という目的を共有し、協力すること。そのためにはコミュニケーションを取り、互いの考えや事情を理解しなければならない。当初、それができなかった。
親と協力する必要性を、さらに強く感じる出来事があった。カンボジアのNGO団体からの依頼で、2004年から虐待児童の受け入れを始めたのである。
「いくら貧しくても子どもだって親と一緒に暮らしたいはず。経済発展するカンボジアのなかでどのような活動をしていくのか……。スナーダイ・クマエの存在意義ってなんだろうと考えているさなかに、虐待で親と離れざるを得ない子どもの存在を知りました。より苦しい環境の子どもたちをサポートしていきたいと思ったんです」
かつては問題にされなかった家庭内暴力をケアしようという動き。そこに博子さんは、カンボジア社会の変化を感じた。
内戦から10年が過ぎ、経済的にも社会的にも余裕が生まれた。それまで貧困という言葉で一括りにされていた問題の細部に光が当たり始めたのである。
虐待児童の受け入れ
カンボジアの虐待は父親が酒に酔って、妻や子どもに暴力をふるうケースがほとんどだ。受け入れが決まった子どもの母親にはまず施設を案内し、運営方針を説明する。何か問題が起きればすぐに連絡できる態勢を整え、必要に応じてひんぱんに面談を行う。
精神的なショックを受けた母と子が、それぞれの将来をどのように思い描いているのか。5年先、10年先を見据えて慎重にじっくり話し合う。そのプロセスが、母と孤児院が一緒になって子どもをケアしていくという意識を育むのだという。
子どもたちがスナーダイ・クマエで暮らす期間は平均で10年ほど。孤児院は子どもに生活の場を提供するだけではない。卒業生たちの拠り所として、第2の家族と言える役割も果たさなければならない。
孤児院を運営する責任――その重みを受け止めるきっかけがあった。
2010年、博子さんはカンボジア人男性との離婚を決断する。しかし、彼女に帰国する選択肢はなかった。
「一緒に暮らしてきた子どもたちを置いて日本に帰れないという思いはもちろんありました。でも私の思いだけでは孤児院は運営できません。どんなにキレイごとを言ってもお金がなければ、続けられない。でも10年の活動を通して、離婚しても孤児院を続けられる自信を持てたんです。日本の支援者の方々と信頼関係を築けていましたから」
スナーダイ・クマエは、サポートを申し出てくれた一人ひとりに対し、博子さんが活動内容や方針を直接説明する。ホームページやチラシで支援金の振込先口座をアナウンスするNGOやNPOが多いなか、博子さんは納得してくれた人にだけ支援金の振込先を伝える。それが、支援者との信頼関係につながり、長期の支援に結びつくのだという。
博子さんがカンボジアで暮らし始めて20年が過ぎた。1992年にアンコールワットが世界遺産に登録されてからシェムリアップには世界中から観光客が集い、瞬く間に開発が進んだ。
5つ星ホテルやショッピングモールの前に大型バスが止まり、舗装された道をレクサスやフォードなどが行き来する。
一方、街からクルマを数十分走らせると高床の小屋が点在し、牛や鶏が闊歩する農村がある。十分な教育を受けられず、現金収入を得るためにタイに出稼ぎに行く若者が今も後を絶たない。そこには日本以上の厳然とした格差が存在する。
1万6579人。これは2017年のユニセフの報告によるカンボジアの“孤児”の数である。実に350人に1人が施設で暮らしているという。カンボジアでは貧困を理由に親と離れて暮らす子どもを“経済孤児”と呼ぶ。
シェムリアップ市の行政担当者は言う。
「一向に減らない経済孤児がカンボジアの社会問題となっています。子どもを施設に預けて出稼ぎに行く親が増えているんです。一度、断絶してしまった親子関係を修復させるのは容易ではありません。施設や団体に経済孤児を受け入れないように、と指導を始めたところなんです」
「孤児院ビジネス」の闇
カンボジア政府に登録された孤児院などの施設は254。しかし実際には400を超える施設が確認されている。なぜ、施設が増えるのか。端的に言えば、カンボジアの子どもが金になるからだ。
2015年までカンボジアにはNGOに対する規制がなかった。支援金を子どもに還元せずに私腹を肥やす団体は今もあると指摘される。また支援者や訪問者の前で子どもたちにアプサラダンスを踊らせ、見せ物にして金を得る団体も少なくない。子どもがビジネスに利用されているのだ。
2003年から2013年までにカンボジアで逮捕された児童性犯罪者は288人。うち170人が外国人で、4人の日本人も含まれている。政府の目の届かない施設は、人身売買や児童買春の温床になるリスクもある。孤児院の運営者や支援者、訪問者による子どもへの性的暴行事件も起きている。
『カンボジア孤児院ビジネス』の著者の岩下明日香さんはこう指摘する。
「観光客はカンボジアの孤児というイメージ通りの貧しい子どもに同情し、お金を出す。運営者もそれが分かっているからイメージに合わせた子どもの姿を見せようとする。なかには、貧困家庭の子をわざわざ集めて、観光客に見せるために活動しているエンターテインメント施設と呼べるような孤児院もあるのです」
「孤児院ビジネス」が表面化したとき、博子さんは良かったと感じた。子どもを利用する施設や団体がなくなるきっかけになるからだ。スナーダイ・クマエは、行政と連携し、子どもの将来を最優先した教育を続けてきた。そう思えるだけの自負があったからだ。
岩下さんが指摘するように貧しいカンボジアの孤児というイメージに金を出す支援者は少なくない。そのイメージとは、発展途上国に対して日本人が持つ先入観でもある。
「いまだに日本では、カンボジアというと“ポル・ポト時代が”という枕詞がつくでしょう。ポル・ポト時代の影響で貧しいのに、子どもたちの目はキラキラしていると語られている。でも、いま起こっている問題をすべてポル・ポト時代に押しつけるのではなく、現実を見なければ、と考えているんです」
博子さんは、目の前で大きく変わるカンボジア社会と真摯に向き合ってきた。だからこそ、どんな社会にも存在する虐待された子どものセーフティーネットをつくる道を選び、子どもたちが安心できる場を創出できたのだ。博子さんは言う。
「最近、子どもと接していると、母の存在を思い出す機会が増えたんです。私も子どものころ、母からこんなふうに教えてもらったな、いま私も母と同じ話をしているな、と」
母が急逝したのは2006年。カンボジアにいた博子さんは死に目に会えなかった。
孤児院を掃除する風景、勉強を教え合う姿、食事中の所作……。子どもたちの日常のささいな一つ一つを見るたびに感じるのだ。うちの子どもたちのなかには、お母さんに教えてもらったことが、確かに息づいているんだな、と。
午前10時30分。自習時間が終わった。机に向かっていた子どもたちが一斉に顔を上げる。
「おかあさん」
たどたどしい日本語で博子さんを呼び、幼い女の子たちが博子さんの手を握る。彼女たちの小さな手に触れるたび、博子さんは巣立っていった子どもたちを思い出す。そして、この手が大きくなるまでここで一緒に暮らしていくんだな、と改めて思うのだ。
メアス博子(めあす・ひろこ)
1974年生まれ。和歌山県出身。甲南大学経営学部卒。2000年からカンボジアのNGOスナーダイ・クマエ管理運営責任者、2011年に代表となる。
山川徹(やまかわ・とおる)
ノンフィクションライター。1977年、山形県生まれ。東北学院大学、國學院大学卒業。大学在学中からフリーライターとして活動。著書に北西太平洋の調査捕鯨に同行した『捕るか護るか?クジラの問題』(技術評論社)、東日本大震災の現場を取材した『東北魂 ぼくの震災救援取材日記』(東海教育研究所)、『それでも彼女は生きていく 3・11をきっかけにAV女優となった7人の女の子』(双葉社)など。今春、カルピスを開発した三島海雲の評伝を刊行予定。
[写真]
撮影:後藤勝
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト