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幸田大地

「死んでも舞台を下りるかってえの」 大正生まれの漫才師・内海桂子の意地

2017/12/08(金) 07:53 配信

オリジナル

現役最高齢の芸人・内海桂子は大正11年生まれの95歳。漫才コンビ内海桂子・好江で人気を博した、お笑い界の重鎮だ。今も月に6度、東京・浅草にある老舗演芸場・東洋館の舞台に立つ。今年1月、転倒して大腿骨骨折の大けがを負った。しかし3カ月後、手術とリハビリを乗り越えて復帰。なぜそこまでして舞台に立つのか。その気概に触れるために、東洋館の舞台裏を訪れた。(作家・伊勢華子/Yahoo!ニュース 特集編集部)

内海桂子・好江時代から使う三味線を片手に、連日客の笑いを誘う(撮影:幸田大地)

「さすがに今度は……」大腿骨骨折の大けが

東京・浅草の歓楽街にひときわ古風な演芸場がある。浅草東洋館。そこは、漫才師・内海桂子(95)のホームグラウンドである。

東洋館は常設の「いろもの寄席」だ。「いろもの」とは、漫才・漫談・マジック・紙切りなどの演芸を指す。

演芸の街、浅草の歴史を伝え続ける浅草六区(撮影:幸田大地)

東洋館ではほぼ毎日番組が組まれ、20組ほどの芸人が出演する。開演は正午。終演は午後4時半。午後2時すぎに仲入り(休憩)が入る。「仲入り前」は「中トリ」ともいって、1日の最後を締めくくる「トリ」に次ぐ重要な出番だ。

桂子は月に6回、東洋館の中トリを務める。

東洋館。立ち見が出る日も少なくない(撮影:幸田大地)

今年6月のある月曜日。下手(しもて)から、指先をヒラヒラと蝶のように舞わせながら桂子が姿を現した。客席から一斉に拍手が起こる。「ケーコさん頑張って!」。大きな声が飛ぶ。

「漫才やるよ! 銘鳥銘木(めいちょうめいぼく)!」

 ♪銘鳥銘木 木に鳥とめた
  なんの木にとめた?
  松の木にとめた
  なに鳥とめた?
  鶴鳥とまらかして そーれ そっち渡した

「松が出ましたから次は竹でどうでしょ」。芸人・中津川弦(38)との掛け合いが始まる。松に鶴、竹に雀、梅にうぐいすがとまったあとは、ほうきにちりとり、ウイスキーにサントリーという具合に、木(き)になんの鳥(とり)がとまるか即興で韻を踏んでいく、古くからの言葉遊びである。

桂子の十八番「銘鳥銘木」が始まる(撮影:幸田大地)

15分の持ち時間を終えた桂子が、やまない拍手を背に舞台袖に戻ってくる。肩で大きく息をしながら薄暗い袖を通り抜ける。楽屋へ向かう狭い通路。よろめいて手を出すとそこに壁がある。古い劇場の窮屈なつくりが今の桂子を助ける。楽屋にたどり着くと、「あ痛タタタァ!」としかめっ面でひざに手をあてて座布団に腰を下ろす。足腰や肩の激しい痛みはやむことがない。

舞台裏の通路。一歩一歩、足取りを確かめるように進んでいく(撮影:幸田大地)

アクシデントが起きたのは今年の1月のことだった。出番を終えて外に出ると、冷たい雨が降っていた。いつものようにタクシーに乗り、自宅の前で降りた直後、路上で転倒した。

桂子のマネージャーであり夫でもある成田常也(71)がその時のことを振り返る。

「料金を支払って降りると師匠の姿が見えない。おかしいなと思ったら車のうしろでひっくり返ってて。痛い!痛い!って。運転手さんと二人で家まで担いでいって。道に割れたかんざしが落ちてて。たぶん頭も打ってんですよね」

自宅で、夫でありマネージャーの成田とほっと一息(撮影:幸田大地)

4、5日経ってもおさまらない痛みに耐えかねて病院に行くとその場で入院となった。エックス線写真には折れて骨盤方向に食い込んだ左大腿骨がはっきりと写っていた。左肩の筋断裂も判明した。桂子は80歳をすぎてから手首骨折、中足骨骨折、乳がん、白内障、肺炎などいくつものけが・病気を克服してきたが、「さすがに今度は決定的なことになるかと覚悟した」と成田が言うほどの大けがだった。

しかし桂子は、手術と懸命のリハビリを経て、3カ月で舞台に復帰した。

9歳で奉公へ 考えた「生きる術」

内海桂子は1922(大正11)年、関東大震災の前年に生まれた。

自宅の居間には思い出の写真の数々が飾られる(撮影:幸田大地)

9歳で神田の蕎麦屋に奉公に出た。母と2人、浅草田中町(現在の東浅草、日本堤付近)にあった祖父の家に身を寄せていた頃のことだ。「おふくろが次の男と住む家を探してたの。そしたら家賃が8円で敷金が20円。あるわけないから、あたいが奉公に行ってやるよって」。ビール1本35銭の時代だ。

桂子は店で箸やおちょこを並べ、出前をこなした。クズ麻を拾い集めては、客の草履の鼻緒が取れそうになっているのを修理して、褒美に小銭をもらった。

「生きるすべ考えてりゃ、銭儲けできたんだ」

しとやかな桂子の手。珊瑚の朱色がよく似合う(撮影:幸田大地)

三つ下の坊ちゃんが小学校に上がると、その送り迎えも桂子の仕事になった。校庭の隅に座って授業が終わるのを待っていると、教室から数を読み上げる声が聞こえてきた。あたいも学校に行きたいなぁ。切ない思いで地面に枝で数を書いた。

奉公先はみないい人だったが、幼い桂子があまりに不憫(ふびん)だという理由で2年足らずで実家へ帰される。桂子は母とともに三味線と踊りを習い始めた。病気で思うように働けない義父と幼い弟を抱えて、母と二人、食べるために必死だった。

絵は展覧会が開かれるほどの腕前(撮影:幸田大地)

15歳で漫才師に 焼け野原になった東京

しばらくするうちに、三味線と踊りを見込まれてドサ回りの興行に加わることになった。その巡業で一緒だった漫才師に「相方に」と請われる。1938(昭和13)年、15歳のことだ。困っている人を放っておけない桂子はその話を受け、漫才師として歩き始めた。戦争が始まると当時の満州(現・中国東北部)をはじめほうぼうの戦地や駐屯地へ慰問に出かけた。1945年3月10日の東京大空襲では家が焼けた。寄席や演芸場も焼かれた。8月15日は慰問で茨城へ向かっていて終戦の玉音放送は聞いていない。

戦争は終わったが、浅草はすぐには復興しない。食べるために商売もしたし、キャバレーで女給もした。「桂子」はその時の源氏名だ。三味線が弾けて踊れる女給はまたたく間に売れっ子になった。

大瀬うたじ(右)との掛け合いは、そのすべてが絶妙(撮影:幸田大地)

2001年に漫才コンビ・ナイツを結成した塙宣之と土屋伸之は、桂子に弟子入りしたばかりの頃、「なんでもいいからひとつ芸を覚えろ」と言われた。桂子にとっての三味線のように、芸人としての道を拓くためには才能やセンスとは違う「武器」が必要だった。ナイツは大道芸の南京玉すだれを選んだ。大学の落研出身の二人にとってそれは真似ごとに近かったが、なんとか覚えると、師匠の会に呼ばれるようになった。

桂子は「今の芸人はオツに気取ってるけど、売れてる弾みでお客さんが来てるだけ」と言う。「お尻出したりしてんのもいるけど、(客が)心底見たい芸は違うからね。勘違いすんじゃないよ」。桂子にとって、笑いの沸点を競うことが芸ではない。

「格闘すんだよ。先読みするのは万年早い。切羽詰まって出る本音、それが笑い」

舞台後の楽しみ、ビールをいただく。「あーおいしい!」(撮影:幸田大地)

戦友・好江を失っても、なお

舞台上でともに格闘した戦友が、相方の内海好江だった。コンビを組んだのは1950(昭和25)年。桂子28歳、好江14歳だった。三味線どころか着物も着られない好江に、桂子は芸人としてのすべてをたたき込んだ。コンビが成長するにつれて、気っ風のいい三味線と、互いの意地がぶつかり合う男勝りの啖呵芸は大衆を魅了した。

人生の伴侶である成田は、桂子・好江の漫才に魅了された一人。子どもの頃はラジオで聞いた。「ネタ合わせをせずに互いの感性でやる。客席の半分が好江ファンで、もう半分が桂子ファン。好江さんが桂子さんをイジると、『ケーコさん頑張れ!』って声援が飛ぶ。これこそ生演芸だなって」。成田が声を弾ませてそう語る。

内海桂子・好江が微笑む、浅草六区通り(撮影:幸田大地)

テレビ本放送開始から3年後の1956年、「NHK漫才コンクール」(現在の「NHK新人お笑い大賞」)が始まった。第1回に出場した桂子・好江は有力視されながら2位に終わった。2回、3回と続けて出場するがいずれも1位を獲り逃す。3回目が終わったあと、桂子に叱責された好江は多量の睡眠薬を飲んで自殺を図った。桂子は病院に駆けつけたが、目を覚ました好江に謝ることはしなかった。

「お互い知ってましたから。やるしかないって」

第4回大会で優勝しリベンジを果たすと、1961年には芸術祭奨励賞を受賞。1982年には文化庁芸術選奨文部大臣賞を漫才師としてはじめて贈られた。

洋食屋「ヨシカミ」を見守る内海桂子・好江の色紙(撮影:幸田大地)

1997年10月。好江は胃がんのため亡くなった。61歳だった。告別式で桂子は、好江が眠る棺に向かって叫んだ。「漫才やるよ! 銘鳥銘木!」

「『ねえさんの死に水は私がとる』なーんて言ってたくせに先に逝っちゃって。アテにならないよ、人生は。2人足しても小学校5年しか行けてないけど……。コンビ組んでたのは48年間。その倍、アタシ生きてんだね」

戦友を失っても桂子は舞台に立ち続けた。袖にいる若手芸人を巻き込み、客を喜ばせた。

裏を切り盛りするのは漫才協会の若手芸人(撮影:幸田大地)

入院中も心は次の舞台へ

好江という相方を失ってから20年。桂子は今も舞台に立っている。客席から「ケーコさん頑張って!」と大きな声が飛ぶ。

中津川ら若手芸人との「銘鳥銘木」の次は、大瀬うたじ(69)との音曲芸だ。うたじが軽快に太鼓をたたく。桂子の三味線がそれに続くと思いきや、まったく別の節(ふし)を奏で始めた。不意を突かれるうたじ。観客は息をのむ。つかの間の沈黙のあと、さらに予想外の桂子の毒舌に、パッと笑いの花が咲いた。

その日の公演後。東洋館からほど近い洋食屋で、桂子を中心にうたじ、中津川らがテーブルを囲んだ。

「師匠、さっきのあれは暴投、危険球ですよ」。段取りを無視した桂子にうたじが冗談めかしてなじるように言うが、桂子は「あたしゃ構わずやり始めるから」とどこ吹く風だ。決められた演目をやりこなすだけでは「格闘」にはならない。「出るからには花を咲かせないと」。「切羽詰まった時に出る本音、それが笑い」なのだ。

一杯やりながら、その日の舞台を振り返る(撮影:幸田大地)

その様子を見守っていた成田が口を開いた。「今回のけがで私がつくづく感じたのは、2人のありがたさ。1人で15分やるって相当過酷だから」。それを聞いた桂子がすかさず返す。「余計だってえの。“コレ”が出てきたからって客が増えるわけじゃない。客呼ばなきゃ芸人じゃないよ」。芸歴47年のベテランうたじも、桂子にかかれば「コレ」呼ばわりである。啖呵は健在。しかし、今の自分に誰よりも悔しい思いをしているのもまた桂子である。

大腿骨骨折で入院していた時、桂子は病院の白い天井を眺めながら、次の舞台でやる都々逸を考え続けたという。

 生命(いのち)とは 粋なものだよ
 色恋忘れ 意地張りなくなりゃ 石になる
 石になっても 俺らは違う
 茶漬け 梅干し 沢庵石になって
 百まで 生きてやる

若手芸人に手を引かれてゆっくりと階段を上る(撮影:幸田大地)

足が痛くても、座る時は決まって正座だ(撮影:幸田大地)

死んでも舞台から下りるか

大けがから復帰して2カ月後の今年6月末。桂子は再び自宅前で転倒した。腰痛が再発。骨粗しょう症による背骨の圧迫骨折も判明した。この時は出番を2回休んだだけで、翌月復帰した。

東洋館の楽屋。入れ代わり立ち代わり挨拶に来る芸人に、桂子は軽くうなずいて応える。三味線の準備をしながら、問わず語りに話し始める。

「これは竿が3本に分かれてるから三つ折れって言うの。溝にそれぞれ『壱』『弐』『参』って書いてあるだろ? 壱は弐にしか入んない。手入れしないで溝にゴミがたまってもうまくいかない。こんな(精巧な)ものは何人かで作ってもダメなんだ。職人が一人でやんないと」

楽屋に入ってまず手にするのは三味線(撮影:幸田大地)

一人でやんないと−−。その言葉に悔しさがにじむ。鏡に目を向ける。子どもの頃の栄養不足がたたったか、右目の視力はほとんどない。

「涙だけは出る。見えなくても、目で物が言えさえすれば、漫才はできんだ」

中津川はこう言う。「(師匠に)『自分の言葉で金とれるようになれ』ってよく言われるんですけど、いつかその言葉がわかるようになりたいです」

ナイツの塙は言う。「(師匠の言葉は)いつも胸に刻んでいます。刻んでおかないとなって」。ナイツの独演会には「一寸の気晴らし」「顎を引いて頑張れ」など毎回一風変わったタイトルがついているが、それらは桂子の言葉からの引用だ。今年のタイトル「味のない氷だった」は、7月のこのツイートがもとになった。

2010年、87歳で始めたツイッターには、現在約36万6千人のフォロワーがいる。1日1回、その日に見聞きしたものや感じたことを140字にしたためて投稿する。今では欠かすことのできない日課だ。

そろそろ出番です! 楽屋に声が響くと、桂子は、痛いはずの左手でかんざしを少しだけ傾けた。あの日二つに割れたかんざしが修理されて、蛍光灯の下ににぶく光る。桂子がいつもの狭い通路をゆっくりと歩きはじめる。

うたじはこう言う。「桂子師匠を見に来るお客さんは、パワーをもらいに来てるんですよ。そして桂子師匠も、お客さんからパワーをもらっているんです」

薄暗い舞台袖のパイプ椅子に内海桂子は静かに腰を下ろした。

舞台袖にて。じっと前を見据え出番を待つ(撮影:幸田大地)

出番を待つ間、頻繁に聞かれているであろう愚問をあえてしてみた。健康の秘訣はなんですか。「骨折れても車椅子に乗らないだの、酒は1日1合だの言ってるけどね……。死んでも舞台から下りるかってえの」

そして、突然振り返るとこちらに向かってVサインをした。

「イ、ジ、ダ」

口元はそう動いた。

(文中敬称略)

(撮影:幸田大地)

内海桂子(うつみ・けいこ)
1922年、千葉県銚子生まれ、本名は安藤良子。浅草、南千住で幼少期を過ごす。1938年に高砂家とし松とコンビで浅草橘館に漫才初出演。1950年、内海好江とコンビ「内海桂子・好江」結成。1958年NHK漫才コンクール優勝。芸術祭奨励賞、芸術選奨文部大臣賞、紫綬褒章など受賞・受章歴多数。1998年、漫才協団会長に就任。2005 年に漫才協団が社団法人漫才協会になり、同協会会長に就任(現在、名誉会長)。


伊勢華子(いせ・はなこ)
作家。東京都出身。学習院大学卒業、同大学院修士課程修了。著書に『健脚商売―競輪学校女子一期生24時』『サンカクノニホン−6852の日本島物語』『「たからもの」って何ですか』など。

[写真]
撮影:幸田大地
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝

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