ベトナムの国立交響楽団で16年間、指揮を執っている日本人男性がいる。彼はなぜ国際的に無名な楽団の指揮者となったのか。そこには国境を超えた音楽家同士の魂の交流があった。
(ライター・中安昭人/Yahoo!ニュース 特集編集部)
ベトナム社会主義共和国の首都ハノイ。その中心部にあるホアンキエム湖から徒歩5分ほどのところにあるハノイオペラハウスは、当地を代表するフレンチコロニアル様式の建物だ。大理石がふんだんに使われ、着工から10年かけて1911年に完成した。夜の帳(とばり)が下りる頃、その正面入り口に、少し着飾った老若男女が集まり始める。2017年8月26日、今晩ここで、毎年恒例となっている「ベトナム国立交響楽団」(VNSO)のトヨタコンサートのハノイ公演が行われるのだ。これはトヨタモーターベトナム社の後援により、1998年から行われている。
オペラハウスの中は、外のねっとりとした湿気と、激しく行き交う車やバイクの騒音からは隔絶され、別世界のようだ。夜8時の開演までの時間、ロビーは談笑する人たちや、スマートフォンで記念撮影をする人たちでにぎわう。
ベトナム楽団の日本人指揮者
開演の時刻になり、オーケストラの楽団員たちが入場して音合わせをする。そして舞台袖からピアニストが登場。続いて、ひときわ大きな拍手の中、1人の男が指揮台に足を運ぶ。彼が指揮棒を構えると、楽団員たちはその先を注視し、劇場全体を静寂が支配する。指揮棒を振り始めると、今晩の前半の曲目、ショパンのピアノ協奏曲第2番の演奏が始まった。
楽団からのSOS
指揮者の名は本名(ほんな)徹次、60歳。2001年からVNSOを指揮するようになり、2009年2月には、同楽団の演奏活動の総責任者である音楽監督に就任している。本名がVNSOと出会ったのは、2000年に名古屋フィルハーモニー交響楽団を指揮してハノイで演奏会を行ったときのことだ。
「ベトナムはアジア8カ国をまわる演奏旅行先の1つだったんです。演奏会が終わると、当時、VNSOの首席チェリストだったクアンが楽屋にやってきて、『我々を助けてくれ!』って言うんです」
ゴー・ホアン・クアン(60)は当時を振り返ってこう語る。
「この演奏会で、独奏者として名古屋フィルと協演をした私は、『本名さんの目指す音楽性はVNSOのそれに合致している』『我々が必要としているのは、まさに彼のような指揮者だ』と強く感じたのです」
VNSOは1959年創立。約60名の楽団員を擁し、ベトナムを代表するオーケストラではあるが、国際的には無名といっていい。
一方の本名は、東京芸術大学で学んだ後、国際的な指揮者コンクールでの優勝経験もある。日本においても、大阪シンフォニカー交響楽団(現・大阪交響楽団)常任指揮者、名古屋フィルハーモニー交響楽団客演常任指揮者をつとめた経歴の持ち主だ。率直に言って、国際的な知名度は皆無なVNSOの指揮者になっても本名のキャリアを上げることにはならない。
VNSOから提示された契約書には、
「2001年から2005年までの5年間で、VNSOをアジアレベルのオーケストラにする。そしてさらに次の5年間で世界レベルにすること」
とある。
「どう考えても、そんなの無理」
世界のレベルの高さを知っている本名は、そう思った。それでも彼は、一度も指揮をしたことすらないVNSOからの申し出を受けて、契約書にサインをした。なぜか。
「よりグレードの高いオーケストラを指揮できるように、ステップアップを目指すという生き方もあります。でも僕は、何か自分にしかできない音楽活動をしたかった。そんな僕にはVNSOのアップグレードに協力するのは、やりがいのある仕事に見えました」
またハノイの街並みに不思議な親近感を覚えた。
「ハノイの空港から市内に向かう途中、バスの中からオレンジ色の街灯がともる街並みを見ていると、初めての土地なのになぜか懐かしく感じたのです」
練習に遅刻してくる楽団員
翌年2001年2月11日、初めてVNSOを指揮したときのことを、本名は忘れられない。プログラムには、ベートーベンのフィデリオ序曲と交響曲第5番「運命」、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲という、人気曲を並べた。
「リハーサルをして驚きました。オーケストラにとって、アンサンブルを意識すること、つまり自分の楽器だけでなく、オーケストラ全体の音に耳を澄ますことが大切です。ところがその意識が欠けているんです。そもそも指揮棒をちゃんと見ていない」
VNSOに割り当てられている予算は少なく、オーケストラの演奏活動の基本である定期演奏会すら開けていない状況だった。全体的に演奏経験が不足していた。
練習態度にも問題があった。
「例えば遅刻です。練習の開始時刻になっても団員がそろわない」
自分のパートの練習が不十分な状態のまま、オーケストラの練習にやってくる団員もいた。その態度に本名が怒って練習場を出ていったことも何度となくある。
「本名さんは、厳しすぎるくらい厳しい人です」
というのは、楽団員のまとめ役をつとめるコンサートミストレスのマイ・アインの本名評だ。彼女は「そこまで厳しくしていると、本人も大変で、体を壊してしまうのではないか」と、まるで自分のことのように心配そうな表情を見せる。
「楽団員のなかには、彼に反発する人もいます。本名さんと楽団員がしばらく口をきかないこともありました」
「でも」とマイ・アインは言葉をつないだ。
「彼は、心の底からVNSOを愛しているんです。愛しすぎていると言ってもいいくらい。だから怒るんだというのを我々も肌で感じています。彼に反発する楽団員がいても、他の楽団員が説得して、オーケストラをまとめてしまうのは、彼の真剣さゆえだと思います」
きらきらした輝きを持つ音
ではなぜそこまで、本名はVNSOに入れ込んだのか。
「彼らが出してくる音なんです」
と、本名は言う。
「初めて演奏を聴いたとき、きらきらした輝きを持つ不思議な音が聞こえてきたんですよ。そんな音に出会ったのは初めてです。『なんだこれは!』と思いました」
どうしてそういう音が出せるのか。
「楽団員たちは、強烈な自我と独立心を持っています。そのエゴがツボにはまると、他に類を見ない響きを生み出すのでしょう」
VNSOは国立のオーケストラだが、国からの予算は少なく、その環境は恵まれたものではない。
「でも音楽に関する感性の素晴らしさから言えば、VNSOの音楽家たちは、音楽先進国と言われる国の音楽家と比べても負けていません」
ベトナムの人々の優れた音楽的感性を証明する存在として、男性ピアニストのダン・タイ・ソンが挙げられるだろう。
彼は1980年のショパン国際ピアノコンクールで、アジア人として初めて優勝したピアニストであり、世界40カ国以上の国々で演奏会を行い、CDも数多く出している。VNSOとも何度か共演を重ねてきた。
本名は「ベトナムにはダン・タイ・ソンに続く、将来有望な若手音楽家がたくさんいますよ」といい、VNSOの演奏会にも積極的に客演として招いている。今年のトヨタコンサートで独奏をつとめた青年ピアニストのグエン・ヴィエット・チュンもその一人だ。彼は弱冠20歳。こういう若手が伸びていくのを見るのが楽しみだという。
東京の自宅を売り払いハノイへ
VNSOが定期演奏会を開けるようになった2005年、本名は東京の自宅を手放し、ハノイに生活の拠点を移す。10年以上ヨーロッパに住んでいた経験があるとはいえ、思い切った決断だっただろう。
本名が本腰を入れてから、VNSOはめざましい変化を遂げた。技術面だけではなく、レパートリーも広がった。以前は馴染みがなかったバロック音楽や後期ロマン派、近現代音楽も積極的に取り上げる。
日本へも2004年、2008年、2013年と3回の演奏旅行を行っている。コンサートホールが満員になっても、まだ入場希望者が入りきれず、まだ空席があった別の日の演奏会に回ってもらったほどの反響があったという。
「本名さんが来てくれて、我々はようやくプロになったんだと思います」
と、VNSO事務局長のズン(57)は語る。
「例えば、オーケストラの年間計画表を掲載したシーズンブックという冊子を作りました。そこには『いつ、どこで、何を演奏し、指揮者は誰で、独奏者は誰』という情報が掲載されています。『ああ、オーケストラというのは、こうして年間計画を決めて、練習をして本番にのぞむんだ』というのを、私たちは初めて知りました」
2009年、本名は正式にVNSOの音楽監督に就任した。
音楽監督というポジションは単に指揮をすればいいだけではない。いろんな独奏者や指揮者に声をかけて客演に来てもらう交渉から、定期演奏会を続けるためのスポンサー探しまでを行う。ストレスもたまる。それが原因で彼は一度、12日間の入院生活を送ったこともある。
安い給料
また、演奏以外の課題もある。大きなものは給料が安いことだ。
ズン事務局長によると「現在、楽団員の平均給与は300万ドン程度」だという。日本円にして1万5000円くらいだ。民間企業の法定最低賃金である375万ドンより低い。いくら物価の安いベトナムでも、これでは暮らしていけない。多くはアルバイトをしながら生計を立てている状態だ。
本名の報酬も低い。
「最初は月100ドルでした。徐々に増額してくれましたが、音楽監督の今でも月給400ドルです(笑)」(本名)
昨今、ベトナムの日系企業で働く日本人は、20代の若者でも月給1500ドルくらいはもらっているだろう。それと比べるとあり得ない安さである。
2000年に入団したベテラン楽団員であるコントラバス奏者のタン(40)は、
「給料が安いから、週末にはアルバイトでカフェやホテルで演奏をしているよ。それから楽器の個人教授もしている。10歳の坊主と2歳の娘がいるから、副業をしないとお金が足りない」
と苦労話をしながらも、彼の顔はどこか楽しそうだ。
「苦労しているように見えないって? そうだねえ、音楽が好きだからね。息子には、今、ピアノを教えているんだ」
VNSOには親子2代続いて楽団員という人もいる。報酬や待遇に関係なく、音楽に取り憑かれた人々がここにもいた。
楽団員たちが「本名さんは誰とでも友達になれる人」と言う通り、交友範囲は幅広い。そういう人たちも、VNSOと本名の活動を支える応援団である。1992年からハノイに住んでいる小松みゆき(70)もそのひとり。2001年、認知症にかかった母親をハノイに呼び寄せ、仕事をしながら介護に追われる日々を送る。それが一段落したとき、生活に潤いを与えてくれたのが音楽だった。小松は年会費を払ってVNSOの会員になり、定期演奏会に足を運んでいる。
「人間、お金も大切だけど、精神的に豊かになりたいって思うじゃない。私にとってそれを与えてくれたのが、VNSOだったの。本名さんはベトナムに夢を持っていて、お金を超えた活動をしている。だから好きになっちゃうのよねえ」
本名の応援団
日本から彼を応援しているのが、本名が所属している音楽事務所「KAJIMOTO」のプロジェクト・アドバイザーである佐藤正治だ。同社は日本国内最大手のクラシック専門のアーティスト・マネジメント会社である。
「2005年秋にハノイで本名さんとVNSOのコンサートを聞いたとき、彼がどうして、ここで指揮活動を続けているのかが、はっきりしました。彼は、欧米や日本のオーケストラとは異なる、VNSO独自の響きを創り上げていたのです。その緩みを持たせた音が、私に温かい感動を与えてくれました」
VNSOと本名には、実現したい夢がたくさんある。まず現在年間30回程度開いている演奏会の回数を増やしたい。
「ベトナムの南部、中部でも演奏会をしたいですね。特に国内最大の都市であるホーチミンでは、定期演奏会が開けるようにしたいですね」
国外への演奏旅行も定期的にやりたいと夢は膨らむ。
「将来的にVNSOが、例えば世界最高の舞台の一つである、ザルツブルク音楽祭から呼んでもらえるようなオーケストラになってほしい。それは言葉を換えれば、他のどのオーケストラにもない、VNSOのみが出せる音を確立していくことです」
ベトナムの大きな家族
後半のブラームスの交響曲が終わった後、会場からの盛大な拍手に応えて同じくブラームスのハンガリー舞曲第1番がアンコールで演奏された。こうして今年のトヨタコンサートも無事終了した。
終演後、本名や楽団員たちがいる楽屋には、お祝いの言葉を述べる友人たちがやってくる。ベトナム語、日本語、英語など、いろんな国の言葉が飛び交い、スマートフォンで写真を撮りあう。その光景を見ていて、私は本名が自宅で語ってくれたこんな言葉を思い出していた。
「僕がこうしてベトナムに住み続けられる最大の理由は『人』ですね。以前、僕は『オーケストラは家族だ』と感じていましたが、その後、ベトナム人自体が、大きな家族なんだと感じるようになりました」
楽屋に引き揚げてきた楽団員たちは、笑顔で会話を交わしながら、素早く着替え、次々とバイク乗り場に消えていく。これから打ち上げのレストランに移動するのだ。挨拶にやってくる友人たちと忙しく記念撮影をしていた本名も、それを追いかけるように着替えて、オペラハウスを後にした。彼らの様子は、まったく、本当に大きな家族のようだった。
(文中敬称略)
本名徹次(ほんな・てつじ)
1957年福島県生まれ。東京芸術大学で学んだ後、主にヨーロッパと日本で指揮者としてのキャリアを重ねる。2001年からベトナム国立交響楽団の音楽顧問兼指揮者をつとめ、2009年からは同楽団の音楽監督兼首席指揮者。2010年のハノイ遷都1000年祭では記念演奏会を行った。同楽団を率いて、アメリカ、イタリア、ロシアなどでの国外公演も行っている。2012年には、ベトナム政府から文化功労賞を授与された。
中安昭人(なかやす・あきひと)
1964年大阪生まれ。1995年に初めてベトナムを訪れて以来、頻繁に渡越を重ねる。2002年にベトナムの現地日本語フリーペーパーに招かれ、日本での15年の編集者生活に別れを告げてホーチミン市に移住。2014年からは原稿執筆を中心に活動している。2000年に結婚したベトナム人妻との間に娘が1人おり、移住以来、ホーチミン市の下町にある妻の実家に居候中。
[写真]
撮影:大池直人