Union Binding Company and Pirate Movie Productions
大自然がキャンバス――スノボ界の開拓者 國母和宏の美学
2017/07/14(金) 10:41 配信
オリジナルスノーボーダー・國母和宏について、7年前のバンクーバー五輪での騒動で記憶が止まっていたとしたら、あまりにももったいない。彼はいまや欧米でスターとして扱われているのだから。闘う相手は他のボーダーではない、自然の野山だ。雪山の山頂からノーヘルメットで一気に滑り降りる。バックカントリー、フリーライディングと呼ばれる世界である。オフシーズンに家族とともにくつろぐ國母が哲学を語った。
(ライター・中村計/Yahoo!ニュース 特集編集部)
妻と2人の子ども、犬2匹と過ごす
2011年から住んでいるという、北海道の道央にある約200坪の土地。そこにはログハウスと、広々とした芝生の庭と、野菜や果物が植えられた畑があった。
朝8時半に訪ねると、世界的なプロスノーボーダーの國母和宏は、3歳の一之介(かずのすけ)君と、2歳の六花(ろっか)ちゃんとサッカーをして遊んでいた。
「今年のオフは、いつもより子どもと過ごす時間を増やそうと思ってるんです」
國母は、8月で29歳になる。妻は、三つ上の姉さん女房だ。2人は、2009年11月に結婚した。互いの友だちの紹介で國母が高校2年生のときに知り合ったのだという。
そのときの國母の印象を尋ねると、「昔はもっとかわいらしい顔をしていたんですけどね。どんどんいかつくなってきて」と、夫の横でほほ笑んだ。
その妻と付き合っている時代から飼い始めた8歳と7歳の2匹のバセットハウンドも、庭を駆け回っていた。
オフの國母は、子どもの面倒を見る以外は、土をいじったり、犬の散歩をしたり、冬のために薪割りをしたり、その合間にトレーニングをしたりしながら過ごしている。
朝、最初の仕事は、2人の子どもを保育園へ連れていくことだ。6人しかいない地元の小さな保育園だ。この日は長男が自転車に乗りたがったため、國母は娘をバギーに乗せ、田や畑の中の道を歩いていくことにした。
約20分の道中、緑と黄色がトレードマークの海外製の大きなトラクターを見つけた。國母は息子のことを「いっくん」と呼ぶ。
「いっくん、ジョン・ディア(メーカーの名前)だ! かっこいいねー! 今度、パパと一緒に乗せてもらおうねー」
息子は体をよじらせ、喜びを表現する。
1年で家族といられるのは2カ月だった
ただ、例年だと、このような親子水入らずの生活は、2カ月ほどしかない。あとは、ほとんど海外で生活している。
「いちばん忙しいときだと、7月半ばから8月半ばまでアメリカ、9月はニュージーランドで滑る。アメリカは標高の高い山なら、夏でも雪があるので」
「10月は、その年に撮影した(映像)作品の試写会で海外を3カ所くらい回る。11月の終わりからまた滑り始めて、クリスマスに一度、帰ってきて家族と過ごして、元旦から5月の終わりまでまた山に入ります」
米コンクールで日本人初の受賞
スノーボードの世界では、大会で勝った者よりも、優れた映像作品を残した者のほうが尊敬される。國母は昨年末、スノーボード界で最も権威があるアメリカのムービーコンクールにおいて「年間ベストビデオパート賞」を獲得した。
複数のスノーボーダーが出演する「STRONGER.」という映像作品の中で、國母が映っている約4分の部分が、受賞対象となった。すべての部門において、日本人としては初の快挙だ。
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アラスカとカナダ2カ所の計3カ所で撮影されたその数分の映像には、今の國母が凝縮されている。壁のような斜面を滑るというより、ほぼ落下しているといっていいだろう。そんな状況下で、ジャンプをし、ときに複雑なトリック(技)をからめる。しかも、ヘルメットなしだ。
「わずか数分だけど、冬の初めから終わりまで全力で滑って、満足できる映像ができるかどうかという世界。今回の作品は10人くらい出演しているんですけど、参加していたのは20人ぐらい。いい映像を残せなかった人は、採用されないんです」
天候が荒れる冬のアラスカでは2、3週間、待機しなければならないこともある。転倒すると新雪の上にラインが残ってしまうため、やり直しがきかない場合もある。バックカントリー(自然な状態の雪山)におけるロケは、尋常ではない集中力を要求される。
絵を描くように滑る
スノーボーダーがプロとして生きていくには、二つの道しかない。大会に出るか、映像作品に出演するか。「勝負」か、「表現」かとも言い換えられる。
國母は、ボーダーとしてより多くの尊敬を集める後者だ。フリーライディングと呼ばれることもある映像の世界は、自分で斜面を決め、どのようなラインで、どのようなトリックを取り入れるかを判断する。それは「絵を描く作業に似ている」という。
スノーボード界は小さい。世界的な大会でも優勝賞金は200万円ほど。競技者であれ、表現者であれ、その世界でファンを獲得し、認められる存在となり、メーカーから契約金をもらわなければ生活は成り立たない。
國母は現在、大きなところではアディダス(ウェア全般)、キャピタ(スノーボード)、オークリー(ゴーグル)とスポンサー契約を結んでいる。
「スノボがうまいやつは、なんぼでもいる。その中から選ばれるのは、最終的には、カッコいいやつ。だから、俺は、ヘルメットをかぶらないで、プロテクターもしないで、誰もできないような滑りをする。ブランドの広告塔として滑るから、イメージはすごく大事なんです」
収入の多い映像世界でスターになっても、3000万円以上の収入を得られるのは、世界のトップ10ぐらいだという。
危険をともなうムービー撮影は、ときに命を落とすことさえある。
切り株に激突、脳内出血
國母に死を意識した瞬間があるかと問うと、こう答えた。
「1回……2回……3回……4回、かな」
もっとも重傷を負ったのは2013年2月の事故だった。横に回転しながらジャンプをしている最中、雪に覆われていた切り株に激突した。
「膝が顎にはいって、顎の骨と、頬の骨が折れた。膝の靱帯もやって、脳内出血もしていた。気絶していたので、まったく記憶がないんですけど」
仲間がスノーモービルで運んでくれ、病院で緊急手術をし、一命を取り留めた。ニュージーランドで雪崩に巻き込まれ、約300メートル落下し、間一髪、救出されたこともある。
スノーボード漬けで満身創痍
4歳のときからスノーボード漬けの生活を続けてきた國母の体は、すでに限界に近い。首、腰、膝、足首と、痛くないところはない。小学生のときにすでに腰を痛めていて、体育座りができなかったという。
幼少期、毎晩のように近所のナイター設備のあるスキー場へ送り迎えをしたという父の芳計さん(58)は言う。
「小学生のうちから打ち込めば、絶対、プロになれると思った。親ってトンビの子どもはトンビだと思っちゃうからいけないんだよ。俺だって環境さえ整えば、タカになれたかもしれない。トンビの子どもがタカになることもあるんだよ」
絶壁のような斜面を滑降するとき、怖くないのかと問うと、國母は言った。
「まあ、祈ってますね。ずっと。家族の写真を胸に入れて滑ってる。タトゥーを入れてるのも、そうだし」
腕の名前はお守り
國母の右の上腕から手にかけ、無数の入れ墨が彫られている。妻の名前と、結婚記念日。自分が滑ってきた山々。子どもの名前と、2人が生まれたときの足形。2匹の犬の足跡もある。
「全部、お守りですね。見守っててくれという」
バンクーバー五輪騒動について
國母と言えば、2010年のバンクーバー五輪における騒動を抜きに語ることはできない。日本からバンクーバーへ移動する際の格好が「だらしない」と大バッシングを受けた。ドレッドヘアに大ぶりなサングラス。公式スーツのネクタイを緩め、シャツを外に出し、腰パンで決めた。
ただ、スノーボードの世界では、むしろ「正統」な着こなしだった。その姿はスノーボードに誰よりも一途な國母が、すでに戦闘モードに入っていることを示していた。國母は当然のことのように言う。
「葬式のときに葬式の格好をしていくように、スノーボードのときにスノーボードの格好をしていっただけ」
スノーボードはライフスタイルであり、もっと言えば、生き様だ。「横乗り系」のスノーボードは、スケートボードやサーフィン同様、滑る姿勢が思想にも影響しているのだろう、カウンターカルチャーだ。反社会的な態度こそが美徳なのだ。だから、バンクーバー五輪の騒動のときも、スノーボード界の人ほど國母のスタイルや言動を支持した。
「スノーボードの歴史上に名を残してるヤツらって、悪役というか、やんちゃなイメージがある。スノーボードって、そういうものだから」
國母のメインスポンサーであるアディダスは、スノーボードやスケートボードの商品には以前の三つ葉マークのロゴを使用し、スポーツラインの商品には「スポーツパフォーマンスロゴ」と呼ばれる三角形のロゴを採用する。横乗り系をカルチャーとして認め、区別しているのだ。
14歳で天才少年と呼ばれた
國母は14歳のとき、伝統あるUSオープンで準優勝し、天才少年として脚光を浴びた。以降、世界を舞台に大会、映像と二足のわらじを履き続けてきた。國母は2010年、11年とUSオープンで連覇を果たしている。國母ほど高いレベルで、二つの分野を両立してきた選手は世界でも稀だ。國母は「ずっと戦ってきた」と振り返る。
「東洋人だし、子どもだし、どこ行ってもなめられるのが当たり前。でも、滑りで逆に鼻で笑ってやった。おまえら、板の上に乗ったら、へなちょこじゃんかよって」
國母は2012-13年シーズンの大会を最後に、映像の世界一本に絞った。
年々、いたずらに技術ばかりが高度化し、まるでサーカスのようになっていくハーフパイプ種目についていけなくなったのもあるし、しっくりしないものも感じていた。
授賞式で突き立てた中指の意味
年間ベストビデオパート賞の授賞式で、國母は「イチバン」と言って、中指を突き立てたまま両手を合わせ、頭上に掲げた。
「自分は、家族や先祖に、ずっと祈りつづけて滑ってきた。それと同時に、俺はスノーボードで、世間に対してだったり、自分に対して、中指を立て続けてきた。そういう意味を込めました」
スノーボーダーがスノーボーダーでなくなるとき――。それは板を降りるときではない。
「第一線を退いても、コーチになったり、メーカーに就職したりはしたくない。それまでにちゃんと稼いで、何もしないで生きていけたらいい。どれだけ一般社会から離れて生きていけるか。そこでちゃんと生きていけたやつだけが、スノーボーダーっていう。そういうボーダーに憧れますね」
2016-17年シーズンは心身の消耗が激しかったため、このオフは、秋ごろまで自宅でのんびりと過ごす予定だ。
夕方、保育園から子どもたちが帰ってくると、國母はスケートボードに乗って、子どもたちと犬の散歩に出かけた。國母がボード上に腹ばいになり、さらにその上に子どもが腹ばいになって滑るのが、今、親子の間でのブームなのだという。
(文中一部敬称略)
國母和宏(こくぼ・かずひろ)
1988年、北海道石狩市出身。4歳からスノーボードを始め、小学5年生で全日本スノーボード選手権ユース部門で優勝。中学2年生で全米オープン・ハーフパイプ大会2位。2006年トリノ五輪出場、10年バンクーバー五輪で8位入賞。10年、11年と全米オープンで連覇を飾る。映像作品には中学3年から取り組み、16年12月、米大手メディアが主催する世界最大のスノーボーダー授賞式「RIDER'S POLL 18」で、「STORNGER.」に収録された出演パートが、年間ベストビデオパート賞を受賞した。
中村計(なかむら・けい)
1973年、千葉県船橋市生まれ。同志社大学法学部卒。スポーツ新聞記者を経て独立。スポーツをはじめとするノンフィクションをメインに活躍する。『甲子園が割れた日』(新潮社)でミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞。近著に『勝ち過ぎた監督 駒大苫小牧 幻の三連覇』(集英社)がある。
[写真]
撮影:工藤了
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝