今年3月、日本アカデミー賞授賞式に森山未來の姿があった。映画「怒り」の演技で優秀助演男優賞を受賞。さかのぼること2カ月前。その姿は舞台の上にあり、変幻自在なダンスパフォーマンスを見せていた。俳優か。ダンサーか。カテゴライズを振り切るように、森山未來は疾走する。
(ノンフィクションライター・歌代幸子/Yahoo!ニュース 特集編集部)
「イスラエルがどこにあるかもわかってなかった」
この1月、森山未來は横浜赤レンガ倉庫1号館の舞台に立っていた。自身が企画・制作するパフォーマンス作品「JUDAS, CHRIST WITH SOY~太宰治『駈込み訴え』より~」。ライトで浮かび上がるのは、たくましい森山の肉体だ。赤ワインのグラスを持つ異国の女を演じるのは、イスラエル出身のダンサーでエラ・ホチルド。彼女は、森山と共同でこの舞台をつくりあげている。森山の愛読してきた、太宰治の短編小説『駈込み訴え』に描かれるユダとキリストの複雑な関係を通じ、浮き彫りにするのは、愛と憎しみに翻弄される人間のありようだ。
「僕は彼女のヒブル(ヘブライ語)で綴った詩に日本語で韻を踏んでいっただけなんですね。だから、実際に彼女が何言っているのかはわからない。だけど、それに合わせて僕は日本語を書いていったんです」(森山)
森山未來、32歳。
昨年11月、所属事務所から独立し、1人で仕事をしている。携帯電話を持たない。仕事の幅が狭まってもおかしくはないだろう。が、むしろその活動は「森山未來でないとできないもの」へと変貌をとげている。
たとえばこの2月には、東京芸術劇場シアターウエストで、子どもの考えた物語を舞台化する「なむはむだはむ」(岩井秀人、前野健太と共演)を上演し、話題をさらっている。演技もある。歌もある。ダンスもある内容で、大人がよってたかって子どもの空想を現実化する試みだ。舞台で躍動する森山の身体つきは、たくましさを増している。身体はひと回り、いや、ふた回りは大きくなっている。
いつから森山はこうなったのか。何がきっかけになったのか。
流れを辿っていくと、2013年10月から中東イスラエルで送った1年間に行き着く。この頃、森山は文化庁の文化交流使としてテルアビブのダンスカンパニーに入団し、踊りに没頭した。その姿は、TVドキュメンタリー「踊る阿呆 森山未來・自撮り365日」(NHK BSプレミアム)で放送されている。森山にとってこの1年間は、生まれ変わりの1年だったのだ。
「海外へ出なきゃいけないと。そもそもイスラエルがどこにあるかもわかってなかったくらいだけど」(森山)
公園で野宿しながら、稽古場へ通った
なぜ、イスラエルへと飛んだのか。
これを理解するためには、彼の抱えてきた葛藤を知る必要がある。森山は、最新の出演作「怒り」にとどまらず、「人類資金」「北のカナリアたち」など、数々の邦画で存在感を発揮し、評価もされてきた。しかし、俳優として売れれば売れるほど、ある種のわだかまりがたまっていったという。彼のなかには「役者である一方、ダンサーでもある」という自意識がある。そう、森山がこの世界に入ったきっかけは「ダンス」にあったのだから。
3歳の頃だった。マイケル・ジャクソンが来日し、家族でコンサートへ行った。触発され、姉がダンスを習い始めると、森山も続いた。
「あまりに落ち着きがないから、親が見かねてダンススタジオに放り込んでしまえ、と。性に合っていた」(森山)
ミュージカル映画が好きな母の影響もあり、フレッド・アステアやジーン・ケリーに憧れた。小学校に上がった頃に新聞広告で劇団ひまわりの募集を見つけ、入団。劇団をやめてフリーランスになったのち、15歳で宮本亜門演出のミュージカル「ボーイズ・タイム」でデビューしている。
19歳のころに出演したテレビドラマ「WATER BOYS」で脚光を浴び、27歳で主演した映画「モテキ」が興行収入22億円を超えるヒットを飛ばす。その後の評価は揺るぎないものになっていく。ダンスがきっかけで始めた芸能活動を確固たるものにしたのは、演技の仕事だったのだ。
だが、森山の個性は「いい演技」の枠に収まるものではなかった。現場で一緒に働いた関係者の言葉から、そのことがわかる。
「モテキ」の監督・脚本を務めたのが大根仁だ。劇中でダンスのシーンがあることから、「配役は森山未來しかあり得なかった」と語る大根は、こうも言う。
「彼との仕事で、その後の監督人生が大きく拓けた。本人に面と向かっては絶対言いませんが(笑)」
大根にとって森山との関係は、もはや監督と役者という関係ではなかったという。撮影のあと、夜通し酒を飲んで、作品について延々と議論した。翌日一緒に現場に行くこともしばしば。大根は森山をこう呼んではばからない。
「表現の化け物ですよ」
大根の記憶に強く焼きついているのは、自らが台本と演出を務めた2012年の舞台「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」での仕事だ。1カ月の稽古期間中、主演・森山はテントを自転車に積んで公園で野宿し、稽古場に通ったという。家に、帰らない。当時のことを森山本人に尋ねると、ためらいがちに、こう答えた。
「家に帰ると生活があるんです。稽古したあとそのまま家に帰っても、家で過ごす気持ちの切り替えをできる気がしなかった。(舞台で演じた)ヘドウィグは根無し草でどこにも定住できず、地べたを這いつくばっているような人間だから、自分もそうしたかった」
「そもそも、なんであなたが撮るの?」
NHKディレクターの井上剛も森山の抑えられない性分を見ている。
2008年のことだった。NHK大阪放送局に勤務していた井上は、阪神淡路大震災をテーマにした番組制作に取りかかろうとしていた。
「当時、(1月17日が近づくと)『あの日を忘れない』という趣旨の番組が作られていたけれど、視聴率が芳しくないばかりか、被災した人々からは『見たくない』という声すら聞いていたんです。じゃあどんな番組を作れば人々の心に寄り添えるのか?」
そんななか、あるアイデアが出た。番組制作にあたって局スタッフだけでなく、脚本家や俳優にも入ってもらって考えてみよう。その仲間に、神戸出身で、10歳のときに阪神淡路大震災を経験した森山がいた。メンバーで議論し始めた矢先、彼が井上に向かってこう口を開いた。
「あなたは神戸の人じゃないし。そもそも、なんであなたが撮るの?」
森山にとって、阪神淡路大震災は内面の「しこり」になっていた。身内でなくした人はいなかった。小学校が休校になり、使われなくなった線路を歩いて親戚のところへ行くなど、むしろ非日常を楽しんでいた記憶が残っている。その一方、同じ街には家を失い、家族をなくした人々がいた。それをずっと見ていたから負い目のようなものがあり、わだかまりを抱えてきた。
一緒に酒を飲めば、森山はその思いをぶつけてきた。時にケンカ腰で。井上は苦笑いをする。
森山とは一本の番組を撮りあげた。「未来は今~10years old, 14years after〜」(2009年)だ。番組は阪神淡路大震災から14年後、森山が遺族と会う姿を追ったつくりになっているが、実は台本があった。最初は構成通りに収録を進めるも、従うことができなくなった森山によって、いつしかシーンは台本を逸脱した代物に。虚と実を往復する「フェイク・ドキュメンタリー」は独特の「真実味」をまとっていく。井上にとって、森山がいたからこそ「発見」できた手法だった。テレビマンとして階段を1段上った井上は、2013年に連続テレビ小説「あまちゃん」のチーフ演出も担う。
「今、僕が演出の仕事をしているのも、未來くんに開拓されているところがあるかもしれない」(井上)
「ハエは生き生きして見えた」
けれども、誰もが森山の熱量をおもしろがってくれたわけではない。「わがまま」ととられることも多かった。彼はこう言っている。
「食って掛かりたいだけじゃなくて、単純に会話をしながらものを作りたかったんです」
そんななか、森山はコンテンポラリーダンスに出合う。既存のリズムやダンスの技法を逸脱した、身体表現に心を奪われたのだ。決定的な影響を与えた舞台がある。ミュージカル「100万回生きたねこ」(2013年)だ。主役の「ねこ」を演じた森山は、ここで海外行きのきっかけをつかんでいる。このとき振付の助手をしたのがエラ・ホチルドだった。彼らが舞台を作り上げる手法は、日本とまるで違った。森山は「衝撃的だった」と振り返り、こうも続けた。
「自然な会話の中で作品が生まれていく。そうか、こういう世界があるんだと知った」
森山のなかで、こんな言葉が響いた。「外に出よう」。そこからの行動は早かった。10月には文化庁文化交流使に選ばれ、イスラエルのテルアビブへと向かうことが決まった。街には、「100万回生きたねこ」の演出・振付を務めたインバル・ピントとアブシャロム・ポラックの設立したダンスカンパニーがあり、そこを拠点に踊りに没頭しようというのだ。
出発の直前、森山は井上と会っている。世間では井上が演出した「あまちゃん」が社会現象を巻き起こしていて、飲みの席で森山は井上に冗談めかしてこう言った。「なんでおれを出してくれなかったの」。言葉につまった井上は「未來くんは次、何をやるんだっけ?」と聞いた。
「イスラエルに行く」
森山の答えに、とっさに井上は「おれも行くよ」と続けたものの、局内で同行取材の許可はすぐに下りない。苦肉の策で、森山に小型ビデオカメラを手渡した。のちにこれが、ドキュメンタリー「踊る阿呆」の素材になる。映像は数カ月おきに送られてくる。
パレスチナとの間で行われる戦闘で撃ち込まれる砲弾の音。かと思えば、アパートで始まる森山の独白。断片的な映像をつなぐ「物語」と呼べるものは何なのか――。初めは見当もつかなかったが、帰国した森山は何度もこうつぶやいていた。
「ハエやねん、ハエなんだよなあ――」
「彼自身がハエなのか、と気づいたんです」(井上)
森山が住んでいたアパートの下は生ゴミ置き場で、隣は市場。夕方になると生ゴミが積み上げられ、ブルドーザーで運ばれていく。
「ハエが飛び交い、生ゴミの臭いも漂っている。そんななかを、活気にあふれた人間たちが生きている。ハエは生き生きして見えた。『ハエ』という存在が自分のなかに入ってきた。自分の踊りと暮らし、あらゆるところにハエはいた」(森山)
「身体が解放される感覚を純粋に楽しんでほしい」
森山は強烈な不安にも駆られていたという。「日本に帰りたくない。単純に純粋におもしろい仕事だけをやりたい。でも、日本でそういうふうに生きていける自信がない」。「踊る阿呆」の最終盤にこう物語るシーンがある。日本に帰る前日、森山は不安に耐え切れず、部屋でひとり泣いた。
2014年10月、文化交流使の役目を終え、彼は日本に帰ってくる。その後、何本かのテレビドラマに出演し、映画「怒り」でも存在感を見せた。役者としての実力に翳りは見えないどころか、凄みを増していた。そんななか、森山は大きな決断をする。所属してきた芸能事務所からの独立を決めたのだ。
森山にとって、この選択はどんな意味を持っているのか。
冒頭の「JUDAS, CHRIST WITH SOY」の公演時、森山はエラとともにダンスのワークショップを行った。参加者は、ヒップホップやバレエ、演劇など、それぞれの道を目指す高校生と大学生。若者たちと一緒に身体を動かし、手とり足とり教える時の表情は「兄貴」のように優しい。こう語りかけた。
「身体が解放される感覚を純粋に楽しんでほしい」
森山の伝えるイスラエルで掴んだことは、シンプルだ。どんな場所にだって行ける。出かけていって、染まってみろ。それは海を渡る行為に他ならない。染まって染まって、最後にどんな表現者でいられるのか。ダンサーと役者を横断しながら働く様は、あとに続く表現者にとっての可能性でもある。自分で自分を、信じてさえいれば、道は拓けるかもしれないのだ。
「これからどう変化するのかわからないけれど、反面、僕自身もどんな色を身にまとっていけるか楽しみなんです」(森山)
森山未來(もりやま・みらい)
1984年、兵庫県出身。数々の舞台・映画・ドラマに出演する一方、近年ではダンス作品にも積極的に参加。文化庁文化交流使として2013年秋より1年間イスラエルに滞在、インバル・ピント&アヴシャロム・ポラック ダンスカンパニーを拠点に、ベルギーほかヨーロッパ諸国にて活動。2017年4月28日から30日まで原宿VACANTにて、ダンサーで振付師の辻本知彦とのユニット「きゅうかくうしお」 の最新公演「素晴らしい偶然をあつめて」、劇団☆新感線「髑髏城の七人 Season 鳥」(同年6月、IHIステージアラウンド東京)出演などが控える。李相日監督作品、映画「怒り」にて第40回日本アカデミー賞優秀助演男優賞受賞。第10回日本ダンスフォーラム賞受賞
歌代幸子(うたしろ・ゆきこ)
1964年新潟県生まれ。学習院大学文学部卒業後、出版社で女性誌などの編集を経て独立、ノンフィクションライターに。人物ルポルタージュを主に、スポーツ、教育、事件取材等を手がける。著書に『精子提供 父親を知らない子どもたち』『一冊の本をあなたに 3・11絵本プロジェクトいわての物語』『慶応幼稚舎の流儀』など
[写真]
撮影:岡本裕志
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝