ハンセン病(らい病)は、長く差別と偏見に晒されてきた。ハンセン病は、らい菌が主に皮膚と末梢神経を侵す慢性の感染症であるが、現在では治療法が確立されている。日本では20世紀初頭から隔離政策がとられ、1996年に「らい予防法」が廃止されたのちも、差別や偏見は容易には消えない。
隔離政策は中国でも同様で、現在約600の隔離村がある。しかも、多くは日本とは比ぶべくもない劣悪な環境に置かれている。2003年、そのうちのひとつに、ひとりの日本人が住みついた。彼は、地元の大学生を巻き込んで、村の生活環境を改善する活動を始める。彼が立ち上げたNPO「JIA」(「家」の意)を取材した。
(ノンフィクションライター・三宅玲子/Yahoo!ニュース編集部)
中国からの来訪者
ドッと笑い声が起きた。こざっぱりとした和室で、ベッドに腰かける老人の足もとに数人の若者が座り込み、老人を囲んでいる。
2017年2月、彼らは東京都東村山市の国立療養所多磨全生園を訪れていた。
冗談を言い合う姿は、介護施設に暮らす祖父を訪ねた孫とその友達のようにも見えるが、若者たちは中国・広州からの来訪者だ。中国で、大学生によるハンセン病快復者村支援活動を組織するNPO「JIA(家)」を運営している。
引率するのは、JIAの創設者・原田燎太郎(39)だ。入所者の佐々木松雄(71)が、原田の通訳を交えて、若者たちとの微妙にずれる会話をおもしろがっていた。
中国人の彼らが多磨全生園を訪ねたのは、日本のハンセン病快復者が、彼らのような若者たちとの接触を望むのか、手がかりを得るためだ。
ハンセン病は、結核と同様に細菌性の病気だ。皮膚が激しくただれる、後遺症で手足や指が変形するなど、外見に著しく影響が出る場合が多い。1947年に新薬「プロミン」が普及するまで何百年もの間、「奇病」「遺伝病」などとして多くの患者が差別を受けてきた。日本では、1931年に「癩(らい)予防法」が成立すると、全国13カ所に国立療養所がつくられ、すべてのハンセン病患者が隔離された。故郷に帰ることも、子どもを持つことも禁じられ、施設の中で一生を終えていった。
佐々木が暮らす多磨全生園には、ピーク時には1000人以上が住んでいたが、現在の入所者は180人。平均年齢は86歳である。
佐々木は、12歳だった1958年にハンセン病を発症。治癒後も人生の大半を療養所の中で過ごしてきた。
1996年にらい予防法は廃止された。その後、各地の快復者らによって起こされた裁判で、隔離政策は誤りだったとしてらい予防法に違憲判決が出され、2001年に国が謝罪している。
中国に約600カ所ある隔離村
ハンセン病への対策は国や地域によって異なる。中国では、今も約600の隔離村で患者たちが自給自足の生活をする。
JIAはそのうち、広東、広西、湖北、湖南、海南の5つの省の約50のハンセン病隔離村で活動する。学生たちが住み込んで生活環境の改善を支援する活動を、やはり学生が自主的に運営する8つの地区委員会と連携して展開している。
2003 年に、原田燎太郎がこの活動のきっかけをつくった。だがその時、ある関係者は「村に中国の学生がやってくることは、この先15 年はないだろう」と言った。ところが、予想に反して、3年もしないうちに、社会から孤絶していた村に大学生たちが渦のように押し寄せ、水道や電気を引き、トイレを整備するようになった。汗をかいて働き、村人たちの物語に耳を傾け、夜にはみんなで酒を飲み、歌い、語り、笑い、泣く。これまでにのべ2万人の中国人大学生が活動に参加してきた。
「あんたは患者を怖がらないのか。感激だ」
原田は、早稲田大学政経学部の学生だった2000年から、何度か国際ボランティア活動に参加していた。地元民と衣食住をともにしながら生活インフラを整備する「ワークキャンプ」という手法のボランティアだ。
中国広東省潮州市のリンホウ(岭後)村を訪ねたのは2002年、大学4年の秋である。ワークキャンプの下見のためだった。リンホウ村は、1960年に建設されたハンセン病隔離村だ。広州市からバスで5時間半、そこからさらに車で30分。
たどり着いた村の光景に、原田は、「こんな世界があっていいのか」と衝撃を受ける。井戸は壊れ、住まいは荒れ果て、膿んだ傷口をひきずっていざって移動する老人や、やせた固い身体でじっと座り続ける老人がいた。
村には当初300人以上が収容されていたが、原田が訪ねた時にはすでに14人にまで減り、平均年齢は65歳を超えていた。
2カ月後、ワークキャンプのために再訪した時、原田は蘇振権(スー・ジェンチュエン)という老人の部屋で初めて一緒に酒を飲んだ。ハンセン病快復者を怖がらない原田に対して蘇は「感激した」と言った。
「振権さんと僕の心が通じ合う瞬間だったと思います。特別なことがあったわけではありません。ただ、一緒にごはんを食べ、酒を飲みながら話をする。最初は筆談でした。振権さんは、自分の話もしてくれるけど、一方的に話すのではなく、ところでお前はどうなんだ?と聞いてくる。自分を不要に卑下しない大きさと、動かない足を笑いのネタにしてしまうような強さがありました」
17日間の滞在で原田は、村人から必要とされている感覚と、怒りを刻んで帰国する。
「僕らが村を去る朝、蔡玩卿さんというおばあさんが臥せっていました。呼吸さえ辛そうなのに、僕らの無事の帰国を祈ってくれるやさしい人です。それなのに家族は会いにすら来ない。彼女を姉と慕う村人が、『みんな死んでいく』と泣いていました。隔離された彼らの痛みと悲しみを見てしまったので……」
その時、原田は、座り込んで「尾てい骨をふるわせて」泣いたという。
必ず戻ってこようと決意して帰国した後も、「怒り」は薄れることはなかった。その年の終わり、神奈川の実家の部屋で村人の姿を思い出しながら、ブルーハーツを繰り返し聴いた。
翌年の春、新聞記者を目指した就活がうまくいかないまま大学を卒業した原田は、今度はリンホウ村に住みついてしまう。そして、地元の大学生をこの村のワークキャンプに引き込むべく、大学への働きかけを始める。
地元の大学生を巻き込む
朝、蘇や村人に見送られて自転車で出発する。山道を下り、トンネルを抜けて、ふもとの町からバスに乗って大学へ。ワークキャンプを呼びかける交渉は遅々として進まない。日が暮れた山道を自転車で村へ戻る原田は、真っ暗なトンネルの中で方向感覚を失い壁にぶつかる。一体ここで自分は何をしているのかという焦り。モヤモヤとした思いで帰りつく原田に、蘇は不自由な身体でつくったごはんを食べさせ、一緒に酒を飲む。
8月、地元の大学生11人を迎えてワークキャンプを行うことができた。
「自分たちを隔離してきたのはほかでもない地元の人たちですから、潮州の学生との交わりは信じられないくらいの驚きと喜びだったと思います。学生たちも、ハンセン病快復者の一群とボランティア学生という関係から、振権さんと僕のような個人と個人へと関係が変化していきました。村人たちの生きる力や深い優しさは、むしろ学生に力を与えてくれました」
そして1年後の8月、原田はこのキャンプをきっかけに、中国人の学生たちとJIA を設立する。
「自分たちで社会を変えることができる」
日本からも、笹川記念保健協力財団がJIAの組織基盤を整備するための支援を決めた。当時の担当理事だった山口和子は、原田が切り拓いたJIAについて「断絶され、排除されてきた中国のハンセン病快復者たちへの道を開いた」と評する。
近畿大学総合社会学部准教授の西尾雄志は、原田が大学2年で初めてフィリピン・レイテ島のワークキャンプに参加した際のリーダーである。その後、ハンセン病関連の国際ワークキャンプの立ち上げをめざす西尾が、山口の助言を得てリンホウ村を選び、下見に原田を誘った。その時西尾に同行した原田のほうが、キャンプを立ち上げてしまった。
数年後にリンホウ村を訪れた西尾は、変化に気づく。
「村人の部屋を訪ねると、壁いっぱいにキャンパーの学生との写真や、結婚したOBの赤ちゃんの写真が飾られていました。何十年もの間、家族とのつながりさえ断たれていた村人が、孫世代の学生たちと個人的なつながりを得ているんです。燎太郎は村人の人生を変えたと思いました」
化学反応は村の外でも起こった。リンホウ村に近い集落の人たちが、学生たちにつられて村へ足を運ぶようになり、徐々に快復者たちに慣れていく。バスへの乗車拒否や貨幣の受け渡しを断るなどの差別行為が次第に減っていった。地域にもたらされた前向きな変化は、学生たちに「自分たちで社会を変えることができる」という自信を育む。それは、共産党が一党支配する中国では日本とは異なる重みを持つ。
顔循芳(エン・シュンファン)は、医学部2年だった2005年にJIAに参加した。
広西省のある隔離村では、長年濁った水を飲んでいた。顔たちはその村に貯水池と濾過設備をつくった。ワークキャンプの間に築いた村人との深い信頼と、村人たちの生活環境を自分たちで変えられるという手応え。一緒にワークする仲間とのわかり合える関係。顔はそれまで知らなかった自己肯定感を得た。そして、ワークキャンプが、社会を変えることをあきらめない若者を育成する場になると予感する。
顔は、2015年、原田に替わって事務局長となった。祖父は医師、母は著名な教育者という家庭に育ち、医学生だった顔が、給料が安く将来の見通しが立ちにくいJIAに人生を賭けることになる。
ワークキャンプの曲がり角
日本からも多くの大学生が参加した。村人や中国人キャンパーのあたたかさに深く心を動かされる。10年連続で毎年約100人がJIAのワークキャンプに参加した。
だが、状況は変わった。今年2月の日本人参加者はわずか5人。隔離村のインフラ整備が進み、ワークキャンプの役割は終わったという人もいる。
九州大学機械航空工学科2年の櫻井啓介(21)は、昨年まで3回連続でキャンプに参加したが、今年は参加を見送った。日本からの参加人数が減った背景を櫻井はこう言う。「JIAのワークキャンプでは得難い体験ができます。でも、今は、いろんなイベントにメールやSNSで登録して気軽に参加できるので、複数の活動をかけもちするのが当たり前。ワークキャンプだけに集中するのは僕らには難しい」
今度は日本で、ワークキャンプを
中国のハンセン病快復者たちから、「人間とは何か」を知るきっかけを得てきた日中の若者たち。だが、現在、日本からの学生の参加が激減していることに対し、JIAは日本の学生がハンセン病快復者から学ぶ機会を失うのではないかと危惧している。そこで、今度は日本で日本の大学生と合同でワークキャンプをしてはどうかと考え、多磨全生園を訪ねたのだった。
同園の佐々木は、「オレのところにはふだんからたくさん人が訪ねてくるけど、たいていの人は静かに暮らしてるもんなあ」と、やんわりと実現の難しさを指摘する。
一方、近畿大の西尾は可能性を否定しない。
「当初は生きる希望がないと言っていた中国の快復者たちが、今では孫のような学生との語らいが楽しみで、1分でも長く生きていたいと言うそうです。それは予想外のことでした。日本でも、やってみないとわからない」
快復者たちの高齢化が進み、時間はもう多くは残されていない。「今回のような訪日を定期的に繰り返し、日中双方に新たなワークキャンプの流れを生み出していきたい」。こう話す原田は、JIAの仕組みを逆輸入して、日本の療養所でワークキャンプを展開することを、具体的に考え始めている。
三宅玲子(みやけ・れいこ)
1967年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。「人物と世の中」をテーマに取材。2009年3月〜2014年1月北京在住。ニュースにならない中国人のストーリーを集積するソーシャルプロジェクト「Billion Beats」運営。
[写真]
撮影:長谷川美祈
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝