亀山亮

写真が生き続ける理由になった 「路上」から生まれた若き写真家

2016/10/19(水) 15:16 配信

写真家 石川竜一

スウェーデンのメーカー、ハッセルブラッドのカメラを2台、むき出しのまま肩から交差するようにかけ、ビッグスクーターで沖縄の街を走る。それが写真家・石川竜一(31)の普段の姿だ。撮りたいと思う人と遭遇したら迷わず声をかける。ポートレートを撮り始めたのは2010年。3000人を超える「沖縄の肖像」を撮った。頭で考える前にシャッターを押した。「撮って撮って、自分は消えてしまえばいいと思ってた」。ところが、無数の被写体と向き合ううちに、よそよそしかった世界はその姿を変えていく——。
『okinawan portrait 2010-2012』『絶景のポリフォニー』で写真界の芥川賞と言われる木村伊兵衛写真賞を受賞した若手写真家が、写真を撮ることで探し続けているものとは。
(ノンフィクションライター・藤井誠二/Yahoo!ニュース編集部)

「彼はもうストリートを卒業した気がします」

写真集『okinawan portraits 2010-2012』(2014年、赤々舎)を初めて手にしたとき、名状し難い衝撃を受けた。あえて言葉にすれば、あらゆる外部からの沖縄イメージの地表を叩き割り、ひっぺがし、誰も見向きもしない地肌を露出させたようだとでも言おうか。

切り取られた沖縄の風景の中に、人間がたった一人、立っている。町の中で、自然の中で、ポーズをとるわけでもなく、表情を作るわけでもなく、ただこちらを見つめている135点のポートレートは、どこか殺伐としているように感じられたし、人間の存在の孤絶感というような感覚を私にもたらした。しかし、同時に、撮り手が被写体を抱きしめようとしている意志のようなものも感じ取った。

今年9月に赤々舎から発売された『okinawan portraits 2012-2016』の制作風景。写真の色味などをチェックする(撮影:亀山亮)

写真家・石川竜一は、この写真集と、同時に刊行した『絶景のポリフォニー』(同上)で、その年の木村伊兵衛写真賞を受賞した。

2015年に刊行された3冊目の写真集『adrenamix』は、前2作へと続く、初期作品集だ。ほとんどが2009年、石川が25歳のときに撮影された。暴走族、スケーター、セックスをするカップル、駐車場にたむろって酒を飲む若者たち。青年期に味わう鬱屈や悦び、思いどおりにいかない人生への咆哮が、浮かび上がっている。

木村伊兵衛写真賞を受賞した後も、石川は生まれ育った沖縄に拠点を置いている。しかし沖縄で過ごす時間はものすごく少なくなった。写真展への参加や、メジャーな雑誌からの撮影のオファーが立て続けに舞いこむようになったからだ。今年だけですでに5つの個展を開催し、5つのグループ展に参加した。年内に、さらに4カ所ほどで展示が予定されている。

2月には、約6年ぶりに音楽活動を再開した宇多田ヒカルとのフォトセッションを行った。写真は宇多田の新しいアーティスト写真として公開され、4月に発売された「ぴあMUSIC COMPLEX Vol.4」で特集もされた。雑誌「SWITCH」10月号の巻頭特集では、映画「SCOOP!」でパパラッチ役を演じた福山雅治を撮り下ろした。

沖縄在住で、アジアのカルチャー・アート情報を発信するウエブサイト「Offshore」を主宰する山本佳奈子は、沖縄に移住して石川の活動や作品を知り、注目するようになった。山本は、石川の現在の活躍をこう見る。

「彼が撮っている対象はいまだにストリートかもしれない。でも、彼自身はもうストリートを卒業した、という感じがします」

石川竜一という写真家は、どこから来て、どこへ行こうとしているのか。

「okinawan portraits」シリーズでは、日常的に走る道で見かけた沖縄の人を撮った。生活圏内で撮影したからこそ、彼の目が人々の姿を捉えやすかったとも言える(撮影:亀山亮)

「何もしてなくても人は人に迷惑をかけるんだと思った」

20歳になった頃、石川は毎晩のように「P2」にたむろしていた。那覇の北に位置する浦添にあるハンバーガーショップA&Wの沖縄2号店の横の、何の変哲もない駐車場だ。「P2」とは「第2駐車場」のことだ。暴走族も集まれば、スケーターもやってくる、地元では知られた場所だった。時間やエネルギーを持て余した若者が夜な夜な集まるアスファルトの路上。

その「路上」に気の置けない友人らとたまり、夜を徹して酒を飲み、語り続けた。話題は尽きなかった。とりとめもなくしゃべる。向かいどころのないエネルギーが横溢(おういつ)していた。

「俺たちはいつも何かやりたいと話し合ってました。たとえば芸大に行ってるやつは専門的な勉強ができたかもしれないけど、俺たちはない。人に承認されたいし、見てほしいけど、何をやればいいかわからない。だいたい音楽の話なんかをしたけど、酒飲むのが目的です。ときどきいろんな社会現象についても議論した。毎日酒飲むためには、毎日誰か有名人の誕生日会をすればいいって誰かが言い出して、過去の偉人たちの誕生日会をやって、その偉人たちについて話をしたこともある。毎日そんな感じでずっと話していました」

石川は、中学校に進むとき、父親の勧めでボクシングを始めた。格闘技は性に合っていた。のめりこみ、高校時代は国体で全国3位にまでのぼりつめた。大学やプロのボクシングジムから獲得のオファーが舞いこんだが、高校卒業を機に石川はあっさりとボクシングをやめてしまう。「チャンピオンを目指してボクシングを続けるってそんな甘いもんじゃないんです。ボクシング漬けの日々がもし急に途絶えたら、何もなくなってしまう。それが怖かったんです」。

妻と息子2人の4人暮らし。アパートの部屋には、A4からA0サイズまで印刷できる大型のプリンタが置いてある(撮影:亀山亮)

県内の大学に進学したが、生活環境の激変からか、無気力な鬱状態に陥り、死ぬことばかりを考えるようになる。

「俺は何もしてなくて、死ぬこともできなかった。何もしてなくても人は人に迷惑をかけるんだと思った。メシは食うし、住むところもいる。タバコも吸う。生きているだけでカネがかかる。もう自己嫌悪だけですね」

あるとき、那覇市内の商店街浮島通りをあてもなくふらふらと歩いていた。すると、面識のあるリサイクルショップの主が石川を見つけて声をかけてきた。

「おい、これを買わないか」

店主はカメラを手にしていた。1968年に発売された「オリンパストリップ35」という、フルサイズの小型EEカメラだった。EEとは、今でいうAE(自動露出)機能である。

ポケットには、ちょうど彼女から借りた2千円があった。石川はその日、所持金を何かで使い切りたいという強迫的な思いでいたから──2千円を使い切るのはタバコでもなんでもよかった──そこでカメラをすすめられたことは何か運命にも、啓示のようにも思えた。カメラは千円だった。

「当時カラーフィルムが終わるころで、100円で売っていたんです。それを10本買って、全部撮りきって、現像に出して、引き取りにいったら全部写ってなかった。でも俺はカメラが壊れているとは思わなくて。AEカメラだからどうやっても写るはずなんです。写らないのは俺が使い方がわからないせいだと」

那覇の浮島通りのリサイクルショップ。ここの主人が石川に声をかけなかったら、今の石川竜一はなかったかもしれない(撮影:亀山亮)

「でも、そのカメラは、恥ずかしくて人に見せられるようなもんじゃない。だから、現像屋のおっちゃんに実物を見せずに『こういうタイプのカメラなんですけど』って聞いたりしてました。そうやっていろんな人にカメラの使い方を聞いていくうちに、自分の中で写真を撮るイメージができたし、知識もついた。あるとき、しょうがなく、その現像屋のおっちゃんに、このカメラなんだよねと持っていったら、『壊れてるね』と言われたんです。よし、そしたら、バイトして動くカメラを買おう、と」

ちなみにリサイクルショップの店主は、壊れたカメラを売りつけたわけではなく、完動品を売ったつもりだった。しかし、結果的に写真の神から手招きをされたようなものなのだから、世の中はおもしろい。

「自分の内面や無意識みたいなものがどんどん出てくる」

22歳のとき内地(沖縄以外の日本)の自動車工場に季節労働にいき、夜は塩茹でしただけのパスタを食べる生活を1年送り、160万円を貯めた。東京・新宿のホストクラブでも働いたし、沖縄でバーテンダーもやった。写真を本格的にやるためにカメラや道具を揃える必要があった。

「その頃、俺の中では、自分はどうせ死ねない、クズ野郎なんだから、何かをやりたい放題、だれかに殺されるぐらいやっていいんじゃないかと開き直るようになっていたんです。写真家になりたいと考えていたわけではなく、なんでもよかったんです。ひたすら撮って撮って、自分は消えてしまえばいいと思ってた」

写真を始めた頃は抽象的な合成写真をつくっていたという。「沖縄で生きる人々を生々しく切り取った写真家」というイメージとはかなり違う。

石川の表現の出発点について、おもしろいエピソードを聞いた。

石川は幼少から少年期にかけて、しょっちゅう同じ夢を見ていたという。地球と宇宙が戦争をしている。宇宙からの攻撃を受けて小学校の体育館に走って逃げようとしたら、端っこに女の子が一人座っていた。この子も逃げて来たんだと思って、そこに寄っていっしょに座っていた。すると、性欲のような「ちょっとむらむらする感じ」がおそった。急にその女の子が「いいよ」と言い、ワンピースをまくって、石川の頭にかぶせた。女の子の腹が見えたと思った瞬間、目の前の腹がぐにゃぐにゃと蛇がとぐろを巻くかのように歪んだ。石川はこの女の子は宇宙人なんだと思うのだが、なぜかその瞬間が「心地いいんです」。

「自分が楽しい気分でいる時は、10人に声をかけたら7〜8人は撮らせてもらえます。その時に会った人は、その時に撮るしかない」(撮影:亀山亮)

夢はいつもそこで終わった。石川はその女の子に恋心のような思いを抱く。寝る前に、その女の子の顔が見たいと願って瞼を閉じると、同じ夢をまた見ることができた。一週間同じ夢を見たこともあった。

中学生になるとその夢を見ることはなくなっていたが、あるとき、夢の中の女の子が大好きだったことをふいに思い出した。彼女どうしてるかなと思いながら眠りにつくと、女の子は自分と一緒に小学校の駐車場にいて、手をつないでずっと空を見ていているではないか。きっと女の子は宇宙に帰るんだと思った。やってきたUFOを見上げていたら、女の子がいなくなったと同時に、UFOの窓に石川自身がいた。UFOを見上げている石川を、石川自身が見下ろしていたのだ。

石川は「いかにもフロイト的な夢判断っぽくないですか」と笑った。

「初めてつくった合成写真のプリントを幼なじみに見せたことがあるんです。そうしたら、『おまえ、これ、小学校のころ言ってたよなー』と言われたんです。『なんのこと?』って聞いたら、その女の子の夢だった」

そのプリントは、真っ白に塗った自分の体と、ガジュマルの木の幹を合成したものだった。

「子どもの頃の夢が無意識に出たと思った。そこから合成写真にはまっていくんです。おもしろい。自分の内面や無意識みたいなものがどんどん出てくると思った」

初期作品。石川の写真表現の出発点はドキュメンタリーではなく、アブストラクト・フォトグラフィー(抽象写真)に近い、合成写真だった(撮影:リマインダーズ・プロジェクト)

「今までみたいな向き合い方をしていてはいけない」

大学を卒業する頃、石川は沖縄舞踊家のしば正龍に出会う。齢90にならんとするしばは、タイ舞踊やインド舞踊、コンテンポラリーダンスなどの身体表現を追求する前衛派だ。石川は、のちにしばの写真を撮るために──踊りを習うことが条件だった──付き人のような生活を送るようになる。

その2年後には写真家の勇崎哲史と出会い、師事。写真の技術や写真を撮ることの意味について考えることを学んだ。二人の「師」の間を大型スクーターで行き来する生活の中で、石川は、行き交う人や、友人たちの日常を撮った。

「カメラは持っていたけど、何もかもかがどうでもよかったから、写真を撮って、そのまま酒飲んで道端で寝てしまうというような生活だったんです。ゲイバーとかはしごして、そのバーで寝てしまったり、友達の家に転がり込んだり、公園やアーケードの中で2~3時間仮眠とって、写真撮って、酒飲んで、また朝がきて、しばさんや勇崎さんのところに行くという生活でした。実家には1~2週間に1回ぐらい、風呂入りに帰ってました」

ピアニストの米田哲也は、当時、毎夜のように石川と過ごした仲間の一人だ。現在は那覇市安里でライブハウス「ファンファーレ」を経営する米田はこう言う。

「僕たちの人生は今も現在進行形で続いていて、未来もどうなるかはわかりません。あの時の僕たちは子供でもなく大人でもなく、社会の中でも不確定な存在だった。P2という路上はカオスでした。でも、その中で竜一は、僕らよりはるかに状況を客観視していたのかもしれません」

かつて仲間とたむろしていた「P2」で。撮影を相手にお願いする時には、「カメラのレンズを、テレビを見ているような感じで見ていてください」とだけ頼む。なんらかのポーズは「自然なもの以外はしないようにお願いしています」(撮影:亀山亮)

石川とP2に行ってみた。数年ぶりだという。駐車場の真ん中あたりに柵ができていた以外、何も変わっていなかった。相変わらず、何もなかった。座り込むとアスファルトが蓄えた熱がじわりと尻から上がってきた。「ここかよ? と思いません? なんもないんですよ」と石川は笑い声をあげた。

「何にもないこの路上から、俺や、俺たちは、出てきた感じですね」

石川にポートレートの撮影をすすめたのは勇崎だった。沖縄の若者が沖縄の若者を撮った写真を見てみたいという勇崎のアイデアだった。かつ、被写体と向き合うとき、物腰の柔らかい石川の性格が生きるのではないか。そう石川は言われた。

「始めてみると、今までみたいな人(被写体)との向き合い方をしていてはいけない、と思うようになった。俺が求めているものや探している何かは、被写体から常に与えられるものだ、と思っていてはいけないというか。その瞬間を無駄にしていくようでは、カメラの前に立ってくれた人に申し訳ないというか。そういう感覚を持つようになったんです」

石川は、大好きだった音楽を聴くことを自らに禁じてまで写真にのめり込んだ。

音楽は、中学時代から、ハードコア、ノイズ、フリージャズ、クラシック、前衛的な即興音楽まで聴き漁った(撮影:亀山亮)

「それは全部後付けに過ぎない」

P2のアスファルトに座り込み、石川と話し込んでいたら、空が赤く染まりだした。目の前の幹線道路は那覇方面に向かう車線が渋滞し始めた。

鬱状態で、死ぬことばかり考えていた頃、耽読したのが、ハイデガーの『存在と時間』だという。今ここにいても、次の瞬間は過去になる。存在するとは時間的であるということ。そして、死に向き合うからこそ、生きることが実感でき、真剣に生きようとすることができる──。

石川は、『okinawan portraits 2010-2012』にこう書いている。

〈写真には自分の意識を越えたものまで写ってしまう。それを知っているにもかかわらず、写真について語り、思いを巡らせていくなかで、それがもともと自分のもっているような、高尚な気分に浸ってしまう。しかし、それは全部後付けに過ぎず、本当はただ、その人と、その場所で、その時にしかない、写真との出会い。それだけなのだ。そんななかで写真はいつも話しかけてきてくれる。「お前が探しているのはこれじゃないのか」と。しかし、それも断定はできないのだ。多分、永遠に。〉

「路上」で仲間たちと過ごしたありあまるほどの時間。「そこで考えたこと、得たことが、今の自分の土台になってます」(撮影:亀山亮)

道端でひょいと手渡されたカメラが、一人の青年に生き続ける理由と糧をもたらした。

9月、石川は、『okinawan portrait 2010-2012』の続編となる『okinawan portrait 2012-2016』を出版した。その写真集で「沖縄の肖像」はいったん終えるつもりだ。

「もう沖縄を撮らないということではないんです。今は沖縄と内地半々の生活なので、沖縄ポートレートを終わらせるのは俺にとっては自然なことなんです。今はいただいた仕事はすべてやっています。自分が本当に撮りたいものと、撮らしてもらうものは本来は別なのかもしれませんが、それに区別をつけていません。なぜなら、そうすることによって、自分の中から何か新しいものを引き出せる可能性があると思っているからなんです」


石川竜一(いしかわ・りゅういち)
1984年沖縄県生まれ。2006年沖縄国際大学科社会文化学科卒業。沖縄県在住。2015年、第40回木村伊兵衛写真賞、日本写真協会新人賞を受賞。近年の個展に「絶景のポリフォニー」(銀座ニコンサロン、東京、2014)、「zkop」(アツコバルー、東京、2014)、「okinawan portraits」(The Third Gallery Aya、大阪、2015)、「考えたときには、もう目の前にはない 石川竜一展」(横浜市民ギャラリーあざみ野、神奈川、2016)、「CAMP」(WAG gallery、東京、2016)、「CAMP & OKINAWA」(Have A nice GALLERY、台北、2016)、グループ展に「ドバイ・フォト」(ドバイ デザイン ディストリクト、ドバイ、2016)、「六本木クロッシング2016展 僕の身体、あなたの声」(森美術館、東京、2016)等。主な写真集として、『okinawan portraits 2010-2012』(赤々舎、2014)、『絶景のポリフォニー』(赤々舎、2014)、『adrenamix』(赤々舎、2015)、『CAMP』(SLANT、2016)、『okinawan portraits 2012-2016』(赤々舎、2016)がある。

藤井誠二(ふじい・せいじ)
1965年愛知県生まれ。高校時代からさまざまな社会運動に関わりながら、ノンフィクションライターとして、教育、マイノリティ、事件、犯罪被害者等について書き続けている。さまざまな論者との対談本も多く、著作は50冊を超える。沖縄と東京を行き来する生活を10年以上続け、『沖縄 オトナの社会見学R18』(仲村清司、普久原朝充との共著)を2016年に出した。沖縄の消え去った売買春街の戦後史と内実を記録したノンフィクション『沖縄アンダーグラウンド』を年内に刊行予定。

[写真]
撮影:亀山亮
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝

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