ミュージシャン 竹原ピストル
年間ライブ本数200回以上。毎日のようにステージに立ち、ギター1本で歌う。ライブハウス、バー、居酒屋など数十人規模の小さな場所が多い。自らを「ドサ回りの歌うたい」と呼ぶ、知る人ぞ知る玄人好みのミュージシャン。ところが、今年は少し様子が違う。9月に山梨県で開催された音楽フェス「Augusta Camp」に秦基博、山崎まさよしら実力派ミュージシャンと共に出演した時は、「初めて聴いた!最高!!!」「私的MVPは竹原ピストルさん!」という感想がツイッターに並んだ。俳優としても、10月公開の映画『永い言い訳』(監督西川美和)で本木雅弘と共演する。インディーズとメジャーの間を行き来する竹原ピストル。彼がドサ回りの先に見つけたものは何か。
(ライター井上英樹/Yahoo!ニュース編集部)
16年以上続くライブツアー人生
ギターを持った男が譜面台の前に立つ。頭にはタオル、ヒゲ、Tシャツ、足元はアディダスのスニーカー。これが歌うたいである竹原ピストルの姿だ。
7月下旬、東京のJR西荻窪駅近くにあるライブスペースARTRIONは満席だった。それでも、観客は30人に満たない。客が肩を寄せ、竹原の登場を待つ。ドアのガラス窓から店の外を見ると、通路にひとり立つ竹原が見えた。孤独や緊張を振り払うかのように、一心不乱にギターを空弾きしている。
拍手で迎えられた竹原はステージに上がると「竹原ピストルといいます」と頭を下げた。強めに張ったギターの弦が「オールドルーキー」という曲を奏でる。猫背気味にギターを抱え、右足に重心を置き、体重をスニーカーが支える。隆々とした筋肉、どっしりとした体躯、強面の顔。その姿は運慶の彫り出した金剛力士像を思い起こさせた。
散々好き勝手に
叫び散らして生きてきたから
すっかりうってつけの声になってしまったよ
(「オールドルーキー」)
かすれた野太い声が会場の隅々に響き渡る。声から重い質量を感じる。住友生命のテレビCMで流れる「よー、そこの若いの」を歌っていると言えば、ピンとくる人もいるかもしれない。同曲が収録されている昨秋発売されたアルバム「youth」からは、タイトル曲の「youth」がテレビ東京のヒューマンドキュメンタリー番組「Crossroad」のエンディングテーマとしてオンエアされている。
3曲目の「キャリーカートブルース」を終えると、竹原の額に汗が噴き出していた。2リットルのペットボトルでのどを潤す。タオルでギターを拭く度に汗で濡れた弦がキュッと鳴る。一連の動きには無駄がない。竹原の後ろでは持参した小さな扇風機が回っている。
西荻窪・ARTRIONに集まった客は8割方が男性だった。歌詞も男臭い。たとえば「俺のアディダス~人としての志~」には「くれてやるよ」「ぶっ倒す」「何か文句あるか?」という荒々しい言葉が並ぶ。しかし、曲を通して聞けば、人心をあおり立てる歌ではなく、気持ちを鼓舞するため、発火材のような役割で言葉を使っていることがわかる。
MCでは、高まった会場の空気をリセットするように、最近のおかしな出来事を語る。緊張と緩和を巧みに組み合わせ、ライブを作り上げていった。この夜、演奏したのは全26曲。竹原が歌い、観客は拍手を返す。このシンプルなやり取りを竹原はもう16年以上続けている。
常連客が「チケットが取れない」と嘆くように
大小にかかわらずライブをして全国を回るスタイルは、パンクロックバンド「ザ・スターリン」の遠藤ミチロウの影響が大きいと竹原は言う。65歳になる遠藤は今でも年間100本近いライブをこなしている。
遠藤が回った全国のライブハウスの情報が掲載された『音泉map150 全国インディーズ・ライブ・スポット情報』という本がある。1998年に出版されたこの本を参考にして、竹原は全国のライブハウスを巡った。そうしたライブハウスの店主たちはメジャー、インディーズ問わず、熱量のある良い音楽を見つけ、世に届けようと情熱を注ぐ。当然、常連客たちの耳も肥えている。しかし、ライブでしくじると、一生「竹原ピストルはたいしたことない」と思われてしまう。一度がすべてを決める真剣勝負の毎日だ。
今年もライブに明け暮れた。「全国弾き語りツアー“youth”」は1月から10月までの間に全112公演。このほかにインストアライブ、音楽フェスへの出演、他のミュージシャンのライブへのゲスト出演など、客前で歌った回数は数え切れない。
ところが、この「ドサ回り」に変化が現れている。
「全然、チケットが取れなくて」と、福島県南相馬市の会場で男性客が話していた。ライブハウスのスタッフが知人で、なんとか手に入れたという。数百人〜千人規模の会場での公演も増えてきた。今演奏して回っている会場のサイズはとっくに合わなくなってしまっている。
今年はもうひとつ大きな出来事があった。今月公開される映画『永い言い訳』(監督・西川美和)への出演だ。本作は本木雅弘の7年ぶりの映画主演作。本木が演じる人気作家の津村啓こと衣笠幸夫は、不倫相手との密会中、妻が事故死したと知らせを受ける。幸夫は遺族への説明会で、同じ事故で死んだ妻の親友の夫で、トラック運転手の大宮陽一と出会う。陽一と二人の子どもたちとの交流が幸夫を変えていく——。竹原は、大宮陽一を演じる。
物語は、直木賞候補になった西川の同名の小説『永い言い訳』が元になっている。竹原はオーディションに参加した。
「とてもおれなんて、出ることはできないと思ったけれど、こんな素晴らしい文章を書く人に会ってみたいなって」
竹原と出会った時のことを西川に訊ねた。西川は、「私、オーディションって好きじゃないんです。選ぶ者、選ばれる者に分かれた非常にアンフェアな場。だからこそ、俳優も卑屈にはならない。別に選んでもらわなくったていい、という虚勢もある」と言ったあと、何かを思い出したように少し表情を和らげて「だけど」と続けた。
「竹原さんは『全身全霊で取り組ませていただきます。演技のことはよくわかりませんので、一挙手一投足を思うように指示していただければ、おれは犬のように従います』と言ったんです。そんな(卑屈さや虚勢といった)ことをポンと飛び越えてきた」
西川は竹原に会って5分もしないうちに「大宮陽一役はこの人だな」と感じた。
映画の終盤、陽一が幸夫に目配せをして笑う印象的なシーンがある。西川はその笑顔を見て現場で泣いた。
「あまりに素晴らしい笑顔だった。あんな笑顔は、小説には書けない」
「ここに竹原ピストルがいる。誰か見つけてくれ、頼む」
竹原は1976年、千葉県に生まれた。子どもの頃から人前に出て何かをやることが好きだった。小学校6年生の時、父親がフリーマーケットで1本のギターを買ってきた。家にはほかのギターもあったが、そのスズキ製のギターとの相性が妙によかった。中学3年の修学旅行の余興で、人生で初めてのライブをし、長渕剛の「とんぼ」を歌う。高校に入ると、長渕剛のほかにザ・ブルーハーツを聞き、彼らの世界観にのめり込んだ。その時の親友が「将来世に出た時のために」と考えてくれた芸名が竹原ピストルだった。
高校の部活動で始めたボクシングで北海道の大学に推薦で入学する。主将を務め、全日本選手権に出場するほどだったが、格上選手とぶつかりあうと、自分のいるレベルがわかった。大学最後の大会で負けたあと、ボクシングをやめた。高校時代から通算で30戦。「ギリギリ勝ち越し」という戦績だった。
引退して無気力状態になった。
「人に会えば嫌な汗が流れ、めまいがする。楽になるのは酒を飲んでいる時だけで、バイトも休むように。一体、おれはどうなっちまったんだろうって」
大学卒業後、友人の濱埜宏哉(はまのひろちか)が連絡をしてきた。濱埜とは大学時代、バンド“ごっこ”をしていた仲だった。
「最近、なにやってる?」
音楽をやりたい気持ちはあるけど、やれてないんだと答えると、「じゃあ、やってみようか」と、2人でバンドを始めることになった。1999年のことだ。竹原がボーカルとギター、濱埜がキーボードとコーラスを担当することになった。バンド名の「野狐禅(やこぜん)」とは禅の修行者が、悟ったかのようにうぬぼれる様を言う。なんとも自嘲的な名前だ。
楽器店で「気ままなフォークコンサート」と書かれたチラシを見つけた。主催者に問い合わせると「飛び入りでやってよ」と言われた。札幌時計台の2階のホール、客数13名で2曲のみの演奏が彼らのデビューだった。
音楽活動に没頭し始めると、いつしかめまいもなくなり、嫌な汗もかかなくなっていた。その後も北海道を中心に精力的にライブ活動を行う。音楽製作プロダクションのオフィスオーガスタと契約し、2001年に活動拠点を東京に移す。2003年7月「自殺志願者が線路に飛び込むスピード」でメジャーデビューを果たしたが、2007年に事務所を離れる。2009年4月の野狐禅解散までに6枚のシングル、4枚のアルバムをリリースした。
ソロとなった竹原へのテレビ出演や取材はなくなり、自分を売り込むにはライブしか手段がなかった。以前のようなスポットライトは当たらなくなり、徐々に過去の人になっていく。「ここに竹原ピストルがいる。誰か見つけてくれ、頼む」。そんな先の見えない不安の中に竹原はいた。
「その頃に救い上げてくださったのが、松本監督なんです」
松本監督とはダウンタウンの松本人志だ。彼が司会する音楽番組「HEY! HEY! HEY! MUSIC CHAMP」(フジテレビ)に野狐禅で出演したことがあった。その後もラジオ番組「松本人志の放送室」(TOKYO FM)で「いいもんは、やっぱスポット当てなアカンと思う」と、野狐禅の魅力を語ってくれた。
松本が監督した映画「さや侍」(2011年)に竹原は托鉢僧役で出演し、主題歌「父から娘へ」を担当した。松本は完成後の記者会見で竹原の起用の理由を訊ねられ「僕がなにもしなくても、彼は日の目を見ると思いますけど、ちょっとでも手助けできたら」と答えた。
「監督のおかげで、全国どこでもお客さんが入るようになった。その流れもあって、野狐禅時代に所属していた今の事務所がもう一回、僕を拾ってくれたんです」(竹原)
「誰もが知ってる“ただそこあるような曲”を作りたい」
福島市を拠点に音楽活動をしているシンガーソングライターのave(エイウ゛)は、東日本大震災以降、竹原と共に福島県内をツアーして回る仲だ。
「僕には玉置浩二、ASKA、徳永英明という三大ミュージシャンがいる。そこに竹原ピストルが入って、四天王になった。特に歌詞が最高です」
「俺、精神病なんですよぉ〜。」
なんて平気で言ってくるお前は
うん やっぱり精神病なんだと思うよ
おまえみたいなクソめんどくせー奴がいなくなくなると
意外と あくまでちょっぴり寂しくなるからよ
(「LIVE IN 和歌山」)
竹原が和歌山でライブを行うたびに必ず聴きにくる若者がいた。「LIVE IN 和歌山」の実在のモデルだ。歌われているのは特定の人へのメッセージだが、竹原の手にかかると、多くの人に届く普遍性を帯びる。「LIVE IN 和歌山」はこう続く。
薬づけでも生きろ
どうせ人間 誰もがなんらかづけで生きてるんだ 大差ねぇよ
(同上)
「身の丈に合わないことは歌わないし、言わないつもり。ここ数年は自分にしか書けないものができている感覚がある」と竹原は言う。計算された言葉ではなく、経験からにじみ出た言葉だからこそ、人の心に染み込む。
その経験をどこで積んだか。それは、ドサ回りの場だ。だから竹原はドサ回りを大切に思うし、お客さんやライブハウスの人たちを大切にする。「あいつを育てたのはおれだよ」。そう言ってもらえるよう、恩返しをしなくてはいけない。
「偉そうに聞こえたら困りますけど」と前置きをして竹原は目標を語ってくれた。
「曲作りもライブも、試行錯誤することも好きです。そこを、貫いていけば、いつかすげぇいい曲ができるんじゃないかと思うんです。好きとか嫌いを意識しないくらい、誰もが知ってる“ただそこあるような曲”が。でも、自分の引き出しの言葉はもう全部出しきった。だから、自分が変わらなければ、この先も同じような曲ばかり生み出してしまう。新しい色を持った曲を作らなければ、誰もが好いてくれる曲にはたどり着けない」
だからこそ、「ドサ回り」スタイルは今年でいったん区切りをつける。
「このツアー(「全国弾き語りツアー“youth”」)は、絶対に天下取ってきますから見ていてくださいねっていう、これまでお世話になったすべての人への挨拶回りなんです」
「どんな状態でも、おれ、歌えるんです」
福島市のライブハウスに現れた竹原がマスクをしていた。のどを痛めたという。のどの強い竹原も、連日のライブ続きで疲れが出ていた。
リハーサル後、竹原をサポートする福政良治(ふくまさりょうじ)がギターの弦を張っていた。
「汗かきだからさびるし、アタックがキツいから毎回張り替えるんです」(福政)
彼の本職はデザイナーで、竹原の写真を撮り続け、アルバムやポスターのデザイン、イラストなども手掛ける。野狐禅時代から竹原を支えるブレーンの一人だ。彼との日常を歌った「リョウジ」という曲もある。
竹原は盟友の近くに腰を下ろし、予備ギターの弦を張る。まるで漁師が網を繕うようだ。のどの調子を訊ねると「こういう時は高音が出にくいかな」と、苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「高い音のある曲は難しい。例えば『ドサ回り数え歌』とかは難しいかな。だけど、こんな時でも出せる声、歌える音程の曲もある。どんな状態でも、おれ、歌えるんです」
ライブが始まった。竹原は、観客の前で「のどの調子が悪い」と言って、保険をかけることはなかった。
「よー、そこの若いの」をゆっくりとしたテンポで歌い出す。ライブ前半はやや抑え気味に聞こえたが、尻上がりに調子が出てきた。満員の会場は竹原に、もっと歌をくれと拍手と歓声で要求する。竹原は応え続ける。最後に、歌いにくいと言っていた「ドサ回り数え歌」を見事に歌いきった。やはりこの人は、百戦錬磨の歌うたいだ。
いかつい顔をしたライブハウスの申し子は、今日もどこかで歌う。竹原ピストルは未だ奏でぬ名曲を日々、追い続けている。
竹原ピストル(たけはら・ぴすとる)
歌手、俳優。1976年、千葉県生まれ。1999年、野狐禅を結成、2003年にメジャーデビュー。その後、6枚のシングルと4枚のアルバムを発表。2009年に野狐禅を解散し、年間約200本以上のペースでライブ活動をする。役者としての評価も高く、これまでに熊切和嘉監督作品などに出演。西川美和監督『永い言い訳』がこの秋公開予定。
井上英樹(いのうえ・ひでき)
編集者、ライター。1972年兵庫県尼崎生まれ。『ソトコト』『翼の王国』『mark』『Kiite!』などで紀行文、インタビュー、人物ルポを中心に執筆。近著に取材・構成を担当した『生命の始まりを探して 僕は生物学者になった』(長沼毅著、河出書房新書)がある。
[写真]
撮影:岡本裕志
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝