国境なき医師団 看護師 白川優子
国境なき医師団の看護師として、海外での医療援助活動に従事する。これまでの派遣回数は11回。シリア、イエメン、南スーダン、パレスチナ・ガザ地区などの紛争地や、大地震に見舞われたネパールなど8カ国を経験した。活動の現場は、内戦や自然災害で本来の医療が行えない「医療の空白地」だ。手術室看護師である白川は激戦地への派遣が多い。かつてシリアでは、支援する病院が空爆されたこともあった。それでもなお、現場へ足を運び続けるのはなぜなのか。
(ノンフィクションライター古川雅子/Yahoo!ニュース編集部)
空爆音の中でいのちと向き合う
ズドーン。腹に響く空爆音は、手術室にも届いていた。
2016年5月、中東のアラビア半島南部に位置するイエメン共和国では、政府軍とイスラム教シーア派系武装組織「フーシ」派との激しい戦闘が続いていた。
国境なき医師団で手術室ナースを務める白川優子(42)が任務に当たったのは、南西部の都市タイズの前線から20キロ地点、イッブ州の小さな町にある病院だった。その病院に外科医はいなくなっていた。戦闘で傷を負った人を収容しており、国境なき医師団の外科チームがその病院に常駐して支援することになったのだった。
そこにお腹の大きな妊婦が運び込まれてきた。妊娠高血圧症候群、いわゆる妊娠中毒症の症状で全身がけいれんしており、母子ともに命の危険を伴う状況。赤ちゃん用の心音計もなく、成人用の心電計で代用した。野戦病院と化し産婦人科の医師も助産師もいない中、外傷外科の専門として入っていた国境なき医師団の医師が母親のお腹を開け、白川が赤ちゃんを受け取った。
赤ちゃんの体重は2000グラム程度。蘇生しても呼吸が始まらなかった。
お願いだから、泣いて!
赤ちゃんはか弱く泣いたが、すぐに呼吸が止まった。泣いてはまた呼吸が止まるという繰り返しだった。白川は風船のようなバッグをシュポシュポさせて赤ちゃんの肺に空気を送りこみ、足底や背中を刺激した。必死で蘇生を続けるうち、一瞬、「これは正しいことなのだろうか?」という考えがよぎった。なぜなら、救っても、救っても、小さな命まで脅かされる現実は変わらないからだ。未熟児の赤ちゃんを引き継げる新生児専門の医師もおらず、新生児用の集中治療室もない。別の場所で展開している母子保健センターへの移動は空爆の危険を伴う−−。
今私がまさに蘇生しているこの子って、助かったらどうなるの?
もちろん、蘇生の手は止めなかった。
ガザから帰国の翌月、イエメンへ
国境なき医師団は、医療・人道援助を行う民間の国際NPOだ。2015年の活動拠点は約70の国と地域にまたがり、海外派遣スタッフと現地のスタッフを合わせて3万人以上が活動に従事した。日本からは、99 人が各地に派遣された。
派遣先は、紛争地や自然災害の被災地、感染症の発生地域、難民キャンプなど、本来行われるべき医療が行われていない「医療の空白地」だ。空爆で吹き飛ばされて病院が消えた所もある。地元の医者や看護師が、命を落としたり避難を余儀なくされたりしている所もある。
国境なき医師団は、仕組みとしては登録制の人材バンクで、一回の派遣ごとに事務局と派遣されるスタッフが契約を交わす。断ることもできる。
白川の役割は、外科チームの手術室ナース。紛争を抱えている国での活動が多い。
手術室ナースは、頻繁に入れ替わる外科医、麻酔科医、看護師ら各職種を連携させ、全ての医療職の勤務表を作り、いつも一定水準の医療が提供できるチームとしてまわしていく。執刀医に手術器具を手際よく渡すといった術中の業務や傷の手当など日常の看護に携わることもある。欧米人からアジア人まで国際色豊かな外国人チームと組んで仕事をすると同時に、現地のスタッフを教育する役割を担う。
白川が5月にイエメンへ派遣されたのは、パレスチナのガザで5カ月間の任務を終えてすぐだった。
「クタクタでしばらくは休もうと決めていたのに、(国境なき医師団からの)電話が鳴って、『今は、絶対に出ちゃいけない』と思いながらも、通話ボタンをポチッと押して、『はい、行きます』と言っている自分がいた。私、やっぱりこの仕事が好きなんだと思いました」
帰国翌月、イエメンへ飛んだ。
身長155センチの小柄な体躯。戦地へ赴く白川のイメージと実際に会う白川とは、ギャップがある。
シリアの内戦など紛争地域での取材経験が豊富な朝日新聞社ニューデリー支局長の貫洞欣寛(かんどう・よしひろ)(46)は、「紛争地に入る人々は、たいがいゴツイし、押し出しが強い。NGO系の人には、使命感を前面に出す人が多い」という。だが、白川は、「いつも笑っていて、気負うところがない。初対面の時は『本当に過酷な紛争地に入った人?』と拍子抜けしたぐらい。これまで会ったことのないタイプ」と話した。
そんな自然体の彼女が背負う現実は、重い。
4年前の2012年9月。白川にとって4カ国目となったシリアへの派遣の時は3カ月間の滞在だった。シリア政府は、中立な立場で医療支援を行う国境なき医師団の活動でさえも認めておらず、白川ら外科チームは、北部のイドリブ県にある民家の内部を改造して医療施設であることを隠したままひそやかに活動を続けた。政府が運営する病院は政府の支持者しか受け入れず、他の病院の多くは政府側が検問を張っていて、さらには負傷者の手当てをする医者も逮捕されており、負傷者が普通に医療を受けられる状況ではなかったからだ。
この時のシリア派遣は思わぬ形で終了となった。病院上空を旋回していた飛行機から、爆弾が放たれたからだ。病院の建物には命中しなかったものの、5~6発は近くに着弾し、轟音とともに地響きがした。手術中の患者につきっきりだった白川は、初めて死の恐怖を味わった。シリア人の看護師は、白川にこう語りかけた。
「ゆうこが死ぬときは自分たちも死ぬとき。だから大丈夫だよ」
手術を終え、チームリーダーから撤退の指示が出た。手荷物一つで帰国した。
日本へ戻って実家に帰る途中、ふと思った。都心の満員電車に揺られている現実は、もしかしたら夢なんじゃないの? と。
「昨日まで空爆で死ぬかもしれなかった自分の現実と、日本に帰ってきた自分の現実とを、しばらく重ねられなかったですね。不思議な感覚でした」
それでも白川は、戦地に向かう。両親と住む埼玉県東松山市の自室の押入れには、数週間の派遣用、1カ月単位の派遣用と用途別のリュックやスーツケースが整然と収められていた。最小限の荷物の中で、幅をきかせていたのが、美容のフェイスパック。一見戦地と結びつかないグッズだが、「過酷な任務だからこそ、気持ちを切り替えて次の任務に当たる大事な備品」と白川は言う。空爆で手足を失い、銃弾で肉がこそげ落ち、心に傷を負った人々と日常的に関わる中で身につけた自己マネジメント力だ。
7歳で芽生えた国境なき医師団への思い
白川が国境なき医師団の存在を知ったのは、小学1年生の時。テレビ番組の最後に国境なき医師団の文字が映し出された。
「瞬間、からだに電撃が走ったんです。医療に国境があってはならない。その通りだと。カチャカチャとつまみを回すテレビも、観ていた部屋の光景も、鮮やかに思い出せます」
人種、国籍、政治的思想、宗教、肌の色。違いはあっても、医療は平等に行き渡らせる。そんな理念を、少女の魂が団体名一つから感受したのだ。
母・文子(70)によれば、白川は「いっつも本を読んでいる子どもだった」という。「『はだしのゲン』は学校の図書館で何十回も読んだ」と白川。実家の部屋には、文子が買い与えた『少年少女全集 伝記と美しいお話』全20巻が、ブックカバーのついた状態で保存されていた。太平洋戦争中の学童疎開船「対馬丸」沈没の悲劇を描いた「あら海にちった子ら」が収録された一冊を手にとった白川は、「八月二十一日、比嘉(ひか)ヨシ子と、比嘉トモ子は、両親にわかれて……」と、主人公が学童疎開に出かけていく一節をスラスラと諳んじた。
白川は埼玉県内の看護学校を卒業すると、3つの病院で勤務し、約7年間看護師として経験を積んだ。
25歳の時、国境なき医師団の募集説明会が開かれた。地図を片手に東京の会場に出かけた白川がぶち当たったのが、語学の壁。英語ができなければ登録もできないと知り、「ガツーンと目を覚まされました」。
白川は奮起した。語学学校帰りに夜勤に入り、海外経験の長い医師とは手術中に英語で会話した。それでもモノにできず焦った。そこで、思い切って海外へ出ようと決めた。
シャローム病院(東松山市)院長の鋤柄稔(すきがら・みのる)(69)は、当時勤めていた白川を「物覚えはいいし、テキパキして話しやすい人。でも、普通の看護師だと思っていました」と述懐した。白川が退職の挨拶にきた時、海外で活動するビジョンを聞いた。「英語を学んでいるのは知っていたが、そこまで行動する気持ちを持っていたとは知らなかった」(鋤柄)。
2003年に渡豪し、メルボルンのオーストラリアン・カソリック大学で看護学の修士課程を修了。論文も英語で書いた。その後も約4年間、現地の病院で外科や手術室を中心に勤務。2年後にはチームリーダーも任された。
オーストラリアで7年間経験を積み、2010年に帰国。外国人ながら、オーストラリアの学生や新人スタッフの教育も時々担当していた白川は、帰国の時点でネイティブとの会話に遜色のないレベルにまで語学力を高めていた。国境なき医師団日本の事務局で人材登録した。
ロゴ入りのTシャツが届き、袖を通した時には、「夢が叶った!」。その時すでに37歳。憧れを抱いた7歳の時から30年の月日が流れていた。
国際チームと現地スタッフをつなぐ「医療外交」
北海道の札幌徳洲会病院で救急医療に携わる外科医の田辺康(58)は、2012年にイエメン南部の中心都市アデンで、白川と任務に当たっていた。白川は同年6月から8月まで滞在していた。白川にとって田辺は、寝食をともにし、24時間体制で手術室に立った、「戦友」。田辺も彼女を、親しみを込めて「ゆうこりん」と呼ぶ。
田辺は言う。
「料理上手で、チームのみんなにごはんをつくって和を大事にするところは日本人らしい。臆せずきっぱり自分の意見を言う西洋人的な側面もある。それでいて、アラブ人スタッフに差別的、高圧的な態度を取ることはない。彼女は国際チームと現地スタッフをつなぐ『医療外交』をしていると思います」
白川は20代の時、結婚していた時期があるが、続かなかった。その後、オーストラリアに7年間滞在していた間に出会った男性とは婚約まで考え、大失恋した。
仕事も、いつも順調というわけではない。国境なき医師団で活躍し始めてから、一時期日本の病院に就職したことがあった。高度な機器を備える日本の臨床現場に戻り、最新の医療にも触れ、看護師としての腕を磨いておこうと思ったからだ。だが、そこでは職場の人間関係に悩み、布団から起き上がれなくなった。
「ここは私の居場所じゃない」。職を辞し、再び国境なき医師団の任務に就いた。
「ゆうこりん」から私的な相談を受けることも多い田辺は、こう見ている。
「彼女は時々、宇宙人みたいなところがある。世界を渡り歩き、普通の人が見ることがないような現実を山ほどみてきたから、日本人からはかけ離れたスケールで物が見えている。英語もペラペラで、自分の意見も言える。だから、日本独特のちまちました人間関係は、彼女には、ついていけないんじゃないかな」
「あえて向かう」覚悟を新たにしたシリア行き
2012年9月からのシリア派遣に話を戻す。これは、イエメン・アデンから帰国した翌月からの任務だった。出発前、白川は自分の持ち物の一切合切を手放す「断捨離」を敢行した。出発前に、思い出の写真アルバム、賞状・トロフィー、洋服……と、どっさり捨てた。
「きれいさっぱり『ゼロ』に。私自身が覚悟を決めるためというより、万が一のことがあった時、親が遺品整理をするのはかわいそうだから。あの時は、親のための断捨離でした」
同年8月にジャーナリストの山本美香(当時45歳)がシリアの取材中に凶弾に倒れたことは、当時大きなニュースとなったが、その直後のシリア入りだった。
その頃シリアでは、政権側の軍部隊と反体制派の「自由シリア軍」との戦闘が本格化。反体制派の攻勢が、北部の都市アレッポ市内の一部を掌握していた。政府軍は連日、反体制派の拠点に砲撃や空爆で反撃。山本は、アレッポで市民が道路にバリケードを築いている様子を取材していたところ、銃撃戦に巻き込まれたのだった。
白川の属する国境なき医師団には、スタッフの安全確保を任務とするセキュリティのチームがあり、安全対策における情報分析力にも長けている。また、独立・中立・公平の医療の理念そのものが、派遣されるスタッフのセキュリティにもなっていると言われる。とはいえ、同じ日本人女性が、しかも中立的な立場であるジャーナリストが犠牲になったという事実は無視できない。どのプロジェクトにも国境なき医師団のセキュリティチームによるレベルがつき、当時のシリアは警戒レベルが最も高い段階だった。派遣されるスタッフは、セキュリティのブリーフィングを重ねた。
白川には、「私がこれから入るところは、それほどの警戒レベルなんだ」という認識はあった。「それでもあえて向かう」という覚悟が必要だった。
自室のモノが遺品になるかもしれない「万が一」を想定して淡々と「断捨離」する様は、傍目には現世を捨離する尼僧のように映るかもしれない。けれども、過酷な現場の経験でさえポジティブに振り返る白川を見ていると、「捨て身」「仏教的無常観」といった言葉とは全く結びつかない。
実家で母・文子とのこんなやりとりがあった。
白川「私、『もう、今この瞬間に死んでもいい』っていうぐらい、今が充実している。お母さんもそうだよね」
文子「そうね。でも、あなたはまだそう語るには早いんじゃない?」
白川は屈託のない表情で、母にシリア派遣時の断捨離のエピソードを話して聞かせた。彼女の本意は「死んでもいい」ではなく、「したいことをして人生を能動的に充実させよう」なのだ。
看護学校時代から20年来の親友、森越恵美(42)は、白川に何度となく「危険だから、行くのはやめなよ」と心配を直に伝えてきた。
「最近、『やめなよ』とは言わなくなりました。いつも現地から優子が送ってくる写真をみると、ああ、生きがいなんだなって伝わるから。向こうにいる優子は、日本にいる時とまるで違う。あれほどいきいきしている顔はないと思う」
白川が看護師としてのやりがいを感じるのは、「赴任した地で展開されていた医療の質も職場の雰囲気も、私が入ることでパッと変わった」と言われるとき。4年前、イエメン・アデンへは手術室ナースのスーパーバイザー(責任者・指導者)として派遣された。2カ月間でチームの質が劇的に向上。現地の看護師たちのモチベーションは上がり、技術力は日に日に高くなり、スーパーバイザーなしでも手術室をまわせる程度にまで成長した。
「私という『個』が、日本から行くだけのニーズがあるということ。この仕事をやめられない理由は、そこですね」
看護師だから伝えられることがある
ジャーナリストを志したことがある。2012年、初めてのシリア派遣で病院が空爆に遭い、帰国した後のことだ。
血だらけで運びこまれる子どもたち。ベッドの上で見た若者たちの絶望の表情。自分だけが助かり家族は死んでしまったことを知った人々の絶叫。戦争がもたらす貧困。
医療でどんなに止血しても、戦争を止めなきゃ血は止まらない。そこまで思いつめた。
社会にインパクトを与えられる報道ならば、少なくとも新たに戦争をさせない抑止力の一助を担えるのではないかと考えた。けれども、相談したジャーナリストには、こう言われた。
「あなたは看護師。こうしている間に現場へ戻り、命を救い続けなさい」
翌年、再び医療援助の現場に戻った。
報道ではなく医療の道で――。それでも、白川は今、世界を知らんとする知の衝動を捨てきれずにいる。白川と親交のある朝日新聞社の貫洞は、こう証言する。
「彼女は、身の安全のための情報収集に留まらず、そもそもなぜこの戦争が起きているのか、どういう流れで今の情勢につながっているのか、構造ごと理解しようとする。今ではシリアやイエメンの政情がある程度語れるレベルに達していると感じます」
白川がフェイスブックに投稿し、視聴回数が3000回を超えている動画を見せてもらった。今年3月まで滞在していたパレスチナのガザで、現地の子どもたちとアラビア語で1、2、3……と10まで数える語学レッスンの光景。純朴で愛らしい子どもたち、それに、満面の笑みで触れ合う白川が映し出されていた。白川は動画にメッセージを添えた。
〈こんな可愛い子達にもう二度と戦争の恐怖を与えないで、というお願いは誰にすればよいのかな?〉
「ガザの子たちは、本当にきれいな目をしていました。シリアでは、『人のために僕ができることを』とシーツ交換をしたり、国境なき医師団を手伝う若者たちに出会いました。紛争地だからこそ、『ひたすら生きたい』『純粋に人を救いたい』という人の生き方の原点が見えるんです」
苦しむ人々の手に直に触れる看護師だからこそ伝えられることがある。白川は今、まっしぐらに自分の道を突き進んでいる。
白川優子(しらかわ・ゆうこ)
1973年、埼玉県生まれ。外科・オペ室・産婦人科を中心に、日本で約7年間看護師として勤務後、2003年にオーストラリアへ留学。現地の病院に勤務し、看護師の資格と永住権を取得した。2010年に国境なき医師団に参加。外科チームの手術室ナース。派遣は8カ国、通算11回にのぼる。
古川雅子(ふるかわ・まさこ)
ノンフィクションライター。栃木県出身。上智大学文学部卒業。「いのち」に向き合う人々をテーマとし、病や障害を抱える当事者、医療・介護の従事者、科学と社会の接点で活躍するイノベーターたちの姿を追う。著書に、『きょうだいリスク』(社会学者の平山亮との共著。朝日新聞出版)がある。
[写真]
撮影:長谷川美祈
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝