日本プロ野球史において初めて、外国人枠適用選手として「名球会」入りを果たした最強の助っ人選手の一人、アレックス・ラミレス。日本でプレーしたのは13シーズン。その間、ホームラン王2回、打点王4回、最多安打3回、首位打者1回など華々しい結果を残した。また、「アイーン」や「ゲッツ!」などホームランを放った後で披露するお笑い芸人のギャグを取り入れたパフォーマンスはチームの枠を超えて野球ファンの心をつかみ、「ラミちゃん」と呼ばれて愛され続けた。その「ラミちゃん」が、今年から「横浜DeNAベイスターズ(以下、ベイスターズ)」の監督としてベイスターズのユニフォームに袖を通している。なぜ彼は就任1年目でチームをクライマックスシリーズへ導くことができたのか。ラミレス監督の人物像を追った。(取材・文 今村亮/Yahoo!ニュース編集部)
最後の一球まで気が抜けないチーム事情
若き守護神・山﨑康晃の登場曲「Kernkraft400」が鳴り響いた途端、横浜スタジアムが大きく縦に揺れ始めた。およそ3万人のファンが、そのリズムに合わせて一斉にジャンプする「ヤスアキ・ジャンプ」は、ファンの熱気が最高潮に達する瞬間だ。抑えの切り札であるピッチャー・山﨑康晃が9回表に登場するということは、今日は「勝てる試合」だ。けれども、1塁側のベンチ席で采配をふるうラミレスは、右手を腰にあてたまま微動だにしない。現役時代の陽気な「ラミちゃん」は影を潜め、勝負にこだわる「監督ラミレス」の姿がそこにあった。
監督初年度となるラミレスが率いるチームは、9月19日に横浜スタジアムで行われた広島東洋カープ戦に勝利し、3位以内が確定した。球団史上初のクライマックスシリーズ進出を決めた日も、やはりラミレスの表情は最後の1球がアウトになるまで硬かった。シーズン開幕から中盤に差し掛かるまで、何度も試合の終盤で逆転され、勝ち切ることの難しさを知っているからこそ、最後の1球がアウトになるまで、ラミレスの気が緩むことはない。
「パーフェクト」に近かった監督になるまでの道のり
ラミレスが自らの野球選手人生に終止符を打ったのは2014年。所属していたベイスターズを戦力外とされ退団。NPB(日本プロ野球機構)チームへの復帰を目指して独立リーグの群馬ダイヤモンドペガサスでプレーを続けていたが、他球団からのオファーが届くことはなかった。
しかし、この群馬での1年は「監督になるための準備」だったとラミレスは振り返る。群馬との契約には打撃コーチを兼任することが含まれており、ラミレスは選手としてプレーする傍ら、チームの若手選手に積極的な指導をしていたのだ。いつか、プロ野球の監督になりたい。その目標は、ジャイアンツに在籍していた8年前からあったと著書『ラミ流』の中で語っている。
若手選手の指導をしたのは、これが初めてではない。13年のシーズン前半戦を終え、オールスターゲームが開かれる頃、ラミレスは来日以来初めて2軍へ降格した。その際、2軍監督のところへ赴き、再び1軍へ上がるための練習をすることより、他の選手を指導する許可を願い出たのだ。
「監督になるという思いはジャイアンツにいる頃に始まるのですが、やはりベイスターズでプレーした現役最後の1年ですね。2000本安打達成が近くなり、もう少しだろうとなったときに、もうジャイアンツではプレーできないと気づきました。だから、僕はきちんとキャリアを終えることができ、2000本安打を達成することができ、さらに監督という目標に近づくことができる球団を探さなければいけないと思っていました」
つまり、ラミレスは2つの野望を持ってベイスターズに入団したのだ。外国人選手初となる2000本安打達成と、監督になるための経験だ。そして、それらは見事に叶えられた。
前者は入団1年目で、後者は先の2軍落ちで、だった。
「2軍に落ちたタイミングは完璧だったと思っています。もちろん、1軍で活躍したかったんですが、横須賀(2軍練習場)で若い選手たちを指導しながら、彼らが、ゆくゆく自分が監督になる頃に主力になってくれたら、と思っていました」
たしかに、当時、ラミレスが指導した若手選手は、セ・リーグを代表する打者に成長した梶谷隆幸や成長著しい桑原将志など、現在、1軍の主力としてチームを支えている。
引退間際のラミレスの“選球眼”が間違っていなかったことを、ベイスターズの高田繁GMも裏付ける。
「監督に就任してもらう上で必要だったのは、横浜でプレーしていたこと、現役時代の実績、ファンを大切にすることでした。しかも、ラミちゃんは指導者になりたいとはっきり言っていましたので僕もそういう目で見ていました。例えば、彼が主力となって活躍できなくなった終盤の頃。選手は誰しも衰えて引退しますが、毎日出場していたのに控えに回され、2軍へ落とされる。その状況でどんな態度でいられるかが非常に大事なわけです。露骨に足を引っ張ったり、不満をぶちまけたりする選手もいる中で、まったく違う姿勢を見せていたというのは理由の一つです」
どん底の開幕スタートから一転、クライマックス進出へ
しかし、すべてが思い通りになるほどプロの世界は甘くない。今年の春季キャンプでチームの要と考えていた梶谷をはじめ、故障者が出たことでプランが狂うと開幕直後から黒星が重なり、5月初旬にはセ・リーグ全球団の借金すべてをベイスターズのみで背負いこむどん底に陥った。つまり、黒星が先行しているのは、全球団でベイスターズだけだったのだ。
就任発表当初こそ「ベイスターズにしかできない“らしい”監督人事」「中畑監督みたいに楽しませてくれそう」と、期待感を持って迎えられたが、結果がついてこないことで監督としての経験不足を不安視するメディアやファンの声が噴出した。就任以来、常に監督の隣に寄り添ってきた通訳の長谷川有朋は、この頃、明るい「ラミちゃん」以外の一面を垣間見ている。
「表に出れば絶対にネガティブな部分を出さないのが監督ですが、一歩裏に下がって監督室に戻れば当然愚痴をこぼしたり、考え込んだりしています。SNSもやっていますし、テレビや新聞もチェックされているので、そういう声に対するストレスは相当なものだったのではないかと思っています」
「パフォーマンス重視で失敗」、「コーチ経験もないのに監督にした時点で間違っていた」など、メディアやネット上では批判するコメントが飛び交った。メディアへの対応はすべて通訳を通して行うラミレスだが、日本での生活は長いので、会話やニュース、文字ですらかなりのレベルで理解できている。当然、厳しい評価にも触れていただろう。現役の頃からチーム担当としてラミレスと関わってきた仲の良いチームスタッフも、開幕前に球団事務所に立ち寄った監督には気軽に声をかけられていたのに、開幕後低迷した時期はとてもそんな雰囲気ではなかったと話す。
絶対にぶれなかったポジティブ思考
選手はどう見ていたのか。聞こえて来る声は一貫してラミレスは「変わらなかった」ということだ。チームの主砲でありキャプテンの筒香嘉智は、こう振り返る。
「おそらく人一倍、チームの誰よりも悩んで毎日を過ごしていたと思うんですけど、選手の前では明るく振舞って、前向きな言葉だけをかけ続けてくれていたので、僕らは下を向くことなくプレーできました」
キャッチャーの戸柱恭孝も口をそろえる。
「絶対に大丈夫だと言っていました。僕は1年目ですし、キャッチャーということもあって負けが重なるとしんどい部分もあったんですけど、試合が終わる度に、明日も試合があるのだから気持ちを切り替えていこうと声をかけてもらって。落ち込んでしまいそうな時期だからこそ、それがすごく助かりました」
周知の通り、ラミレスの根本的な性格は常にポジティブで、人前で後ろ向きなことは一切言わない。高田GMも「ラミちゃんは、どっしりと構えている。中畑(清)監督もほとんど怒ることはなかったけど、それに以上にないな。本当に一度もない。僕から見れば、監督は、それだけじゃダメなんじゃないかと思うこともあるんだけど」と口元を緩める。
恩師が育ててくれた野球、人生観
ラミレスが「尊敬している」と公言している監督は、スワローズ時代に右打ちのバッティングの重要性を教えてくれた若松勉、チームメイトとして、監督と選手として7年間、同じチームで過ごした戦友・古田敦也、そして、自らのプレースタイルを認めてくれたジャイアンツの原辰徳だ。しかし、もう一人、今の監督生活だけでなく人生哲学をも支える恩師が祖国ベネズエラにいた。トマス・ガルシア監督。ラミレスを野球の道に導いた張本人である。
ベネズエラの首都カラカスにある小さな町で生まれたラミレス。家は貧しく、電気代が払えないために夜はろうそくを灯し、週に3度は川に水を汲みに出かけた。しかし、それは約40年前のベネズエラで見られる日常の景色だった。野球が人気のベネズエラにおいて、プロ野球選手になるということは、貧困からの脱出であり、希望の光。そんな中、路上で野球をするラミレスを見てリトルリーグのチームに招き入れたのがガルシア監督だった。チームで定められた会費が払えない家庭の事情を知り、立て替えてくれるほどラミレスの才能に惚れ込み、親同然に優しくも厳しくもされたという。
「ポジティブに生きるということのすべてを彼(ガルシア監督)から教わりました。よく言われたことは、人に自分の状態をどうこう言われるのではなく、自分が自身の状態をわかっていること。そして、もう一つ大切なことが“リスペクト”。相手をリスペクトする、チームメイトをリスペクトする、試合をリスペクトする。なによりも大事なことはそれだと常に意識しています」
ラミレスの米大リーグ入りを信じて疑わなかったガルシア監督だったが、18歳でクリーブランド・インディアンズとの契約締結の報告をしに故郷へ帰ると、その2日前に病気で亡くなっていた。プロとしての歩みを見届けることなく他界した恩師だったが、ラミレスが遥か彼方の日本という国で、選手として、監督として歩を進める礎をつくったのは紛れもなくガルシア監督だった。「今でも頭の中の多くに彼の言葉が刻まれています」。とてもどれか一つは選びきれないといった様子でラミレスは、かぶりを振った。
シンプルに“打ち返す”その思考とスタイル
ラミレスは、メンタルの部分で選手のモチベーションを引き出すことに長けているのは確かだが、5月以降にチームが巻き返すことができたのは、ラミレスの意外な面、「データ野球」がある。現役時代には、セ・リーグの全ピッチャーとキャッチャーの配球パターンを頭に叩き込み、出場したすべての試合を録画して分析していたほどだ。
監督としての一日は、スカウティング部門から集められたデータ分析からはじまる。ナイターの試合日でも、午後1時にはスタジアムにある監督室に入り、スタッツと呼ばれ、個人の打率や癖などを事細かに記したデータに目を通す。そこから、選手の仕上がりの状態と成績を詳細に把握していく。
「例えば、9盗塁記録している選手がいれば、10に伸ばしたいというモチベーションは自然に生まれていますから、できるだけ早いタイミングで盗塁のサインを出します。打点が足りなければ、前の打者にバントをさせて打点がつくように導きます。それに、攻略の要となる相手キャッチャーのデータはほぼ頭に入っていいます」
これらの例はごく一部に過ぎないが、データ野球の徹底は、厳しいシーズン序盤の戦いを通して、ラミレスが煩悶しながら体得したことである。長谷川通訳は、シーズンが進むにつれて少しずつ微調整するように変わっていく監督の様子をこう話す。
「最初の頃は、自分が正しい、この考え方でやっていくんだ、という印象でした。ポジショニング、リリーフの使い方、すべてにおいて明確なイメージがあったかと思います。普通は監督が出席しないようなミーティングもすべて出ていましたね。でも、やっていくうちに、とても細部までは掌握しきれないと気がついたのかもしれません。徐々にヘッドコーチをはじめコーチ陣の意見をかなり取り入れてゲームプランを立てるようになりました。開幕直後と今では、かなり変わりましたね」
では、ラミレス本人はどう捉えているのだろうか。どれだけ準備をしていても、実際にやってみると理想と現実のギャップはつきものだ。
「毎日が学びの連続です。わかったと思っていても、個々の能力や特性についてどう活かせばいいのかを理解するまでに時間がかかりました。一番難しかったことは、若い選手が多いので、成長させるために起用すべきか、勝つために起用すべきか、これをどう考えるかです。ファンや自分たちのために今日の結果は必要ですが、クライマックスが懸かった終盤の頃にはシーズン中に育った選手が必要になる。そのバランスを考えながらやっていました」
シーズンの序盤では、崖っぷちの苦境に陥ったラミレスには、現役時代から高く評価されている類稀な順応力があった。来日してから13シーズンも安定して高い成績を収めることができたのもそのおかげだろう。
僕が日本で成功した理由のひとつに、自分の置かれた状況をいつも進んで受け入れている、ということがあると思う。これは、そこで暮らす人々や、その国の文化を知るために大切なことだ。プロ野球選手としては、僕は自分が所属する組織に対する義務や責任を、常に忘れないようにしている(『ラミ流』、中央公論新社)
その姿勢は監督になった今も貫かれ、日々の学びから細かなアップデートを続けている。開幕からおよそ1ヶ月(5月4日時点)で背負った借金11は、その後を16勝5敗1分で切り抜け5月中に返済するなど結果として表れ、選手やコーチ、球団からの信頼にもつながっていった。
眼差し鋭いベンチでの姿は、一見多くの人が頭に浮かべるかつての陽気な「ラミちゃん」とは重ならないかもしれない。しかし、あらゆる状況を受け入れ、熟慮したうえでシンプルに“打ち返す”その思考とスタイルは現役時代となにも変わっていない。
横浜DeNAベイスターズとして初めてとなるクライマックスシリーズの舞台。日本に順応したことで日本人のように愛された「ラミちゃん」が、また日本のプロ野球に新しい魅力を吹き込もうとしている。間もなく、日本シリーズ進出をかけたクライマックスシリーズが始まる。横浜に吹き付ける浜風は、奇跡の下克上への上昇気流となるだろうか。
アレックス・ラミレス(あれっくす・らみれす)
1974年ベネズエラ出身。1998年、米メジャーリーグのクリーブランド・インディアンズ、ピッツバーグ・パイレーツを経て、2001年よりヤクルト・スワローズに入団。来日1年目から打率280.、29本塁打、88打点の活躍を見せ、03年には打点王、本塁打王、最多安打、ベストナインなどのタイトルを獲得。08年に読売ジャイアンツへ移籍し、チームの主軸を務め日本一にも貢献。12年、横浜DeNAベイスターズで外国人選手初となる日米通算2000本安打を達成。16年より横浜DeNAベイスターズの監督に就任。
今村亮(いまむら・りょう)
1978年生まれ。エディター、ライター。映画雑誌編集人を経て、カルチャー誌、ジャーナル誌、ビジュアル誌などの編集・執筆に携わる。書籍は『earth code』(ダイヤモンド社)、『次の野球』(ポプラ社)、『BALL PARK』(ダイヤモンド社)など多数。コミュニケーション・デザインを専門とする株式会社アソボットに所属。
[写真]
撮影:任田辰平
写真監修:リマインダーズプロジェクト
後藤勝
写真提供:
横浜DeNAベイスターズ