登山ガイド 山田淳
「山ガール」が流行語大賞の候補に選ばれたのは2010年。その数年前から増え始めたカラフルなウエアに身を包んだ登山客たちは、従来のストイックな登山のイメージを変えた。しかし本当の問題は、ブームとは別のところにあったーー。その問題を解決するために構造から変えていこうと取り組んでいるのが、世界最年少(当時)でセブンサミッター(七大陸最高峰登頂者)になった山田淳だ。コンサルティング会社に就職するが、ある山岳事故をきっかけに再び登山の世界に戻る。次なる目標は七大陸最高峰よりもさらに高く、険しい山だ。(取材・文 ライター井上英樹/Yahoo!ニュース編集部)
「山岳部以来だな、この重さは」
先頭を歩く登山ガイド山田淳の歩みは遅い。一歩ずつ、ゆっくりと山を登る。2016年夏、東京都の最高峰・雲取山山頂(2017メートル)に至る登山道を、山田はツアー客21人を引き連れて歩いていた。この日は梅雨の合間の夏日。登山道の水はけはよく、昨日の雨はすでに乾いていたが、蒸し暑い日だった。日程は1泊2日、参加者の年齢は30~70代と幅広く、男女比はほぼ同じ割合。ツアー参加者の半数以上はリピーターだという。
時折すれ違う登山者たちが、山田のザックを見て驚いた顔をする。
「すごいな、あの量」
「今日の一番だな」
山田が背負う明るいブルーのザックのサイズは110リットル。国内で生産されている最大級のもの。小柄な山田が荷を担ぐと、後ろからはザックが歩いているように見える。
「山岳部以来だな、この重さは」と、額に汗をかきながら言う。重さを尋ねると、「あれこれ詰めてきたんで、30キロくらいかな」と笑う。山田個人の装備のほか、私たち取材陣と、スタッフを含めた23人分の食料2食分、調味料、調理器具、食器、ワイン(赤白各3リットル)、救急キットなどが入っているそうだ。山田はよく笑い、声がよく通る。
山田は2015年に装備のレンタル料込みのツアー「山から日本を見てみよう(Yamakara)」をはじめた。パンフレットには富士山、燕岳(つばくろだけ)、槍ヶ岳、甲斐駒ヶ岳、屋久島縦走など1~2泊のコースや日帰りツアーが掲載されている。装備は自宅への配送か集合場所で受け取り、解散場所で返却ができるという、実に「お手軽登山」なのだ。この気楽さが受けて、北アルプス縦走などはキャンセル待ちがでるほどの人気ツアーとなっている。
「山に畏敬の念を抱くことは大切。だけど、もっと気軽に山に登ってもらいたい。不安に思う山や場所があれば、僕のツアーで安全に山を楽しんで欲しい」。山田はガイドやツアーを「下駄」だと表現する。
「僕たちは皆さんに下駄を履かせます。僕たちをうまく使って、どんどん登ってもらいたいんです」
「ついに、やってしまったか……」
山田はインタビュー中、何度も「1回でも多く山に登ってもらいたい」と繰り返した。その思いには根拠がある。鹿屋体育大学で運動生理学を専門とする山本正嘉教授が、科学的数値に基づいて「年間登山日数」という登山の安全指標を発表している。「年間登山日数が多い人ほど、山で事故に遭う確率が下がる」とした数値だ。山田はこの考えを支持する。
「登る回数を増し、経験を積めば、結果として事故率は下がる。だから、僕はレンタル付きの比較的安価なツアーを作った。気軽に山に来られる環境を作り続けたい。それが山の安全につながる」
七大陸最高峰登頂した山田がなぜ、このような初心者を引率するツアー会社を立ち上げたのか。その理由は7年前の夏に遡る。
東京大学在学中に七大陸最高峰登頂した山田は、卒業後アウトドアウェアを脱ぎ、世界中に支社を持つコンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニーでコンサルタントとして働いていた。
スーツを着るようになって3年が過ぎていた。
2009年7月16日。
山田はクライアント先の部屋でニュースサイトを見ていると、「大雪山系で大量遭難。10人以上か」という見出しが目に飛び込んできた。
「ついに、やってしまったか……」
北海道大雪山系・トムラウシ山(2141メートル)で18人のツアー登山者のうちガイドを含む9人が死亡するという、夏山登山史上最悪の事故の一報だった。この時点では、まだ詳細はわかっていなかったが、山田は大事故になると直感した。
「山で病気や滑落で1人が亡くなる事故は起こる。しかし、複数名が巻き込まれる事故は、登山旅行会社やガイドなど、山業界の構造上の問題が顕著化したということ。こんな事故が起こるのではないかと、ずっと心配していました」
「構造上の問題」とは何か。本来ならガイドが権限と責任を持って、参加者を導く必要がある。場合によっては撤退を参加者に指示する。ところが採算を優先する旅行会社の中には責任だけをガイドに求め、撤退などの権限を渡していない場合がある。下請けであるガイドは、無理な行程やスキルの低い参加者でも、連れて行かなければならない。いくら経験や体力のあるガイドでも、疲弊すると参加者の観察もケアも疎かになる。
「お互いの利益のためだけに動くのはやめよう」
中学1年で屋久島の宮之浦岳(1936メートル)を登って以来、山田の人生はずっと山と共にあった。大学入学直後に手にした『七つの最高峰』(ディック・バス著)に衝撃を受けた。自分も最高峰に立ち、どんな世界が見えるのかを知りたい。その後、夢中で七大陸最高峰に挑戦した。費用はスポンサーのほか、富士山のガイドで稼いだ。大学2、3年時は、山開きから8月末までほぼ毎日、富士山に登った。
七大陸最高峰を2年半で制覇し、2002年5月に当時の最年少登頂記録を作った後も、ガイドの仕事を続けた。富士山や屋久島で観光の側面の大きなガイド、日本の北アルプスや南アルプスのような難易度の高い山でのガイド、そして彼を慕う人たちを連れていく海外でのガイド。様々なスタイルのガイドを経験した。登攀(とうはん、険しい岩壁などをよじ登ること)などの高い技術をメインにしたガイドではなかったため、初心者や脚力の弱い女性や高齢者と登る機会が増えた。
山をガイドする仕事は楽しかった。しかし、高齢者と山で長時間過ごすと、自分の底の浅さが身にしみた。山の話ならできるが、それ以外の話になると会話が続かないのだ。山田は一度、業界を離れ、外から山を見てみようと思った。「自分を育ててくれた山に恩返しがしたい。3年経ったら山の仕事で起業しよう」。そう誓って、マッキンゼーに入社した。
3年が過ぎても山に戻ることはなかった。仕事は順調で、薬品業界などのコンサルティング業務を担当していた。「このまま、会社員を続けるのも悪くないな」と感じていた頃、トムラウシの事故が起きた。
トムラウシ山遭難事故は厳しい気象条件下にさらされ、低体温症を引き起こした10名が犠牲になった「気象遭難」だ。しかし、ツアー会社のリーダーやガイドによる天候判断のミス、引き返す決断をしなかった(もしくはその権限が実質的になかった)ミス、帰りの飛行機をキャンセルできないためにツアーを強行軍せざるを得なかったなど、様々な原因が重なって起きた惨劇だ。
ニュースに触れた山田は翌日、上司に退職の意思を伝えた。
「山の世界に戻り、何らかの方法で安全を守るのは僕の使命だと思った。背中を押してくれたんです、トムラウシの事故が」
数日後、出版社・山と渓谷社に勤務する木村和也の電話が鳴った。山田からの電話だった。
「木村さん、約束を覚えていますか」
電話口から聞こえてくる年下の友人の問いかけに、木村は答えられなかった。「俺、山田となにか約束していたっけ……」。
山と渓谷社は1930年に創業した山岳系書籍・雑誌を多く手がける出版社だ。木村は編集者として学生時代の山田と出会い、対談や原稿を頼んでいた。時折、酒を酌み交わす間柄だった。
「約束?」
「一緒に会社をやるっていったじゃないですか」
木村は以前、山田が「会社を一緒にやれたらいいですね」と言っていたことを思い出した。しかし、山田が大企業を辞めるとは夢にも思っていなかったため、記憶から抹消していたのだ。
木村も常々「山に恩返しを」と、強く思い続けていた1人だった。
その思いが1つの形になったのが、2008年に木村が企画して、山と溪谷社が主催した「涸沢フェスティバル」だった。涸沢は、穂高連峰の稜線に抱かれたカール(氷河の侵食により椀状にえぐられた谷)で、会場まで上高地から徒歩6時間という山中でのイベントながら、3日間で約900人が足を運んだ。参加者には女性も多く、業界を驚かせた。まだ「山ガール」という言葉が生まれる前だ。
しかし、「初心者」がたくさん山に来ることを疎ましく思う人たちも少なからずいた。業界が生き残るには若年初心者しか活路がないとわかっていても、それに対し努力もせず、足をひっぱるような村意識が強い山業界に木村は閉塞感を覚えていた。
2人は上野の高架下にある居酒屋で、連日のように会い、会社の理念を考え続けた。結論は「登山人口の増加」と「安全登山の推進」というシンプルなものだった。このミッションに加え、1つだけ約束をしようと木村は言った。
「お互いの利益のためだけに、お互いが動くことはやめよう」
起業したとしても、山田のガイドのスキル、木村の編集技術だけに頼るつもりはなかった。
「いつか、体力が落ちれば山田は登れなくなる。編集技術だって陳腐化する。好きなことだけやっていたら、自慢話のような記事が並ぶ。僕が好きに雑誌を作り続けたら、山田も自分の好きな場所ばかり行くだろう。その程度のことを事業にするなら、それぞれ別にやればいい」
初心者にこそ、普遍的な情報を
山田は年末に会社を辞め、2010年2月株式会社フィールド&マウンテンを創業した。4月にはフリーペーパー『山歩みち』を創刊、富士山の開山に合わせて「やまどうぐレンタル屋」のサービスを開始した。
追い風だった。2008年頃までは600万人あたりを推移していた登山人口が、2009年には倍増していたのだ。富士登山の例で言うと、環境省の調べでは、夏期富士山登山者数は2007年度頃までは20万人前半だったが、会社創業時の2010年には32万975人に増えている。「山ガール」に加え、海外からの旅行者たちも富士山を目指すようになっていた。ブームは業界の環境を激変させた。
山ではすぐに乾くウェアや保温性の高いフリース1枚が時に命を守る。機能性の高いウェアの必要性を感じていながら、高価ゆえに手を出せない人がいた。1回だけの記念登山に数万円もする雨具を買える人は少ない。山田が仕掛けたレンタル業は、その潜在的需要に届いた。初年度の貸し出し人数は2000人を超えた。その後も、学校遠足需要や世界文化遺産登録での富士山ブームに乗り、現在では年間4万人以上の人たちがレンタルを利用するまでになった。
フィールド&マウンテンの事業はレンタル、雑誌の制作、登山ツアーの企画と徐々に広がった。これら事業の根底にあるのはあくまでも「登山人口の増加」と「安全登山の推進」だった。
装備レンタルの際、『山歩みち』も一緒に配られる。コラムや登山ルート、インタビューなど山の情報が載っており、10万部発行している。ルートやコラムは初心者が楽しめる内容だが、インタビューは運動生理学者、山の格付けをした県職員、山岳遭難救助隊員など専門誌でも取り上げないような人物が登場する。
編集長の木村のモットーは「その初心者の一歩も、エベレストにつながるかもしれない」だ。山田も最初は低山を登り、その一歩がエベレストにつながった。初心者が読む本だからこそ、普遍的な情報を届ける意味がある。
木村は山と渓谷社を退社後、新潟県にある実家の農業を継いだ。米作りをしながら編集プロダクションを経営し『山歩みち』を制作している。
「登山文化」と「市場原理」をいかに融合させるか
「業界全体がお客さんを向いていない。ひどい山小屋なんてたくさんある。理由は、市場原理が入らなくてもやっていけるから。それを変えるには2つあると思う。1つは登山人口が減り、食えないプレイヤーが出てくること。もう1つは反対に、溢れるほど人が山に来ること。僕のやりたいのは後者。登山者が爆発的に増えれば、インフラもサービスもよくなるはず。ユニクロがウェアを作るなど、新しいプレイヤーも増えるでしょう」(山田)
そうなれば、古い体質は淘汰されるか、大きく変化するはずだ。
待ったなしで変える必要のあるものがある。トムラウシの事故の際にも山田が、最大の原因の1つと考えたツアー登山の構造だ。
「今後、ツアー登山参加者はさらに高齢化し、体力のない人たちがさらに難しい場所に行きたいと言う。じゃあ、最後にだれがケツを拭くのか。それは現場のガイド。だからこそ、ガイドに権限を与えなくてはいけない。ガイド主導で企画から参加し、この行程は、無理だとか、このツアーの参加者は70歳以下とか、装備チェックをしようなど意見を言える関係を作らないと。だって、ガイドが一番お客さんと接している存在なんだから」
山を知り、ツアー参加者と多くの時間を過ごすガイドの責任と権限。それがあって安全が担保されると山田は考える。そして、この構造がいびつなままではいけないと警鐘を鳴らす。
達成感が次の登山へとつながる
雲取山の山頂を過ぎた。今夜泊まる山荘はまもなくだ。予定より遅れてはいるが、想定内の遅れのようで、山田はあまり気にしていない。参加者全員の歩き方、表情などを絶えず観察し、速度や休憩を調整していく。どの行程でも、よっぽどのことがない限り、全行程自力で歩いてもらう。
「お客さんの荷物を持ってでも登ってもらう。でも、それじゃ達成感はない。お客さんが力を出し切り、ガイドも全力で支える。それがうまくいったとき、最高に楽しいですね」
結局、夕方近くに雲取山荘に到着した。本来、山小屋には日没の2~3時間前に到着するのが「山のルール」だ。気温の高い中、長い登り道が続いたため、予定よりも少々遅く着いてしまった。
「ま、しゃーないですね」と山田は笑う。暗くなる前に料理を作らなくてはならない。山田は荷をほどくと23名分の夕食の準備に取りかかった。メインディッシュにはカルボナーラを作るという。卵と牛乳パック、予備の豆乳を取り出した。痛まないよう保冷剤も持ってきている。その用意周到さに驚く。
「1時間ほど前、あらかじめパスタに水を吸わせたんです。温めるだけで調理できるし、ゆで汁も出ない。アウトドアのスキルって、災害時にも役立つからいいんですよね」
ツアー客は山田の周りを取り囲み、笑い、調理や準備を自然と手伝う。
山田は参加者に向かって話し続け、笑い声が途切れることはない。しかし、調理の手は止まらない。料理が全員の行き渡った頃、「明日はね、ホットサンドを作りますからね!」という声が響いた。もう、辺りは暗くなり参加者たちの顔は見えないが、きっとその顔は皆、最高の笑顔のはずだ。
山田淳(やまだ・あつし)
山岳ガイド、株式会社フィールド&マウンテン代表取締役。1979年、兵庫県生まれ。東京大学経済学部卒業。中学在学中に登山を始め、大学在学中の2002年5月、エベレスト登頂に成功。当時の七大陸最高峰最年少登頂記録を更新。登山ガイドを経て2006年、マッキンゼー・アンド・カンパニーに入社、コンサルタント業を勤める。10年、株式会社フィールド&マウンテンを設立。著書に『夢へのルートを逆算せよ!』(マガジンハウス)がある。
井上英樹(いのうえ・ひでき)
編集者、ライター。1972年兵庫県尼崎生まれ。『ソトコト』『翼の王国』『mark』『Kiite!』などで紀行文、インタビュー、人物ルポを中心に執筆。近年は編集の視点を生かし、真鶴町(神奈川県)、東彼杵町(長崎県)の地域コーディネートも行っている。近著に取材・構成を担当した『生命の始まりを探して 僕は生物学者になった』(長沼毅著、河出書房新書)がある。
[写真]
撮影:塩田亮吾
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝