Yahoo!ニュース

佐藤博之

「弟を切った」非情の決断 「ダジャレ監督」手倉森誠の覚悟と矜持

2016/08/05(金) 14:40 配信

オリジナル

チームがリオに発つ直前、7月19日に千葉県習志野市の秋津サッカー場を訪れた。手倉森誠監督率いる男子サッカー代表チームがトレーニングを行うという。1月のアジア最終予選でも活躍したMF原川力(川崎フロンターレ)にある話を振ってみた。

「つい最近、雑誌で読むまで知らなかったんですよ。監督がそうなんだって」

ありうることだ。昔からのサッカーファンには有名な話でも、あまり知られていないことがある。手倉森誠監督が双子だ、という話だ。リオ五輪を通じてお伝えしたい兄弟のストーリー。(取材・文 ライター吉崎エイジーニョ/Yahoo!ニュース編集部)

「お前には迷惑をかけたね」

「誠が太陽なら浩は月。そうよく言われてきたんですよ」

7月中旬、都内でインタビューに応じた手倉森誠は一卵性双生児の弟・浩(現日本サッカー協会ナショナルトレセン東北地域チーフコーチ)との関係をこう語った。

手倉森が率いるオリンピック代表は、「谷間の世代」と言われてきた。23歳以下の選手が中心となるチームは、大物選手がおらず国際大会での実績に乏しかった。初タイトルは1月のリオ五輪アジア最終予選(AFC U-23選手権)の優勝だった。決勝の韓国戦では2点ビハインドから逆転し、一気に知名度を上げた。手倉森はそれまではダジャレ監督として有名だった。必勝を期したゲームで「今日は、勝つしか(葛飾)北斎」。

そんな手倉森は、今、自分がサッカー界に関わっていられるのは弟のおかげだとも言い切る。

「18歳までの状況があったからですよ。弟の浩が中高時代に年代別の日本代表チームに選ばれていたことに対して、負けたくないと思ってやってきたから」

2016年1月、AFC U-23選手権を兼ねたリオ五輪アジア最終予選優勝後の誠。選手からは「話を聞かせるのが上手い監督」との評価(長田洋平/アフロスポーツ)

そうやって話す取材時の録音データを聞き直すと、時折、そのイントネーションで感じるところがある。手倉森はけっして日本サッカー界で多くの人材を輩出してきたわけではない東北地方で、キャリアのほとんどの時間を過ごしてきたのだ。

一方、弟の浩は日本サッカー協会のトレセンコーチとしてユース年代の有望株を指導する毎日だ。

「今、俺が拗ねてると思われるのは嫌だなあ。かつての誠を思うと『なんだこの野郎』って思うけどね。サッカーが上手かった自分のほうが兄貴だったら、あんまり問題はなかっただろうけどね」

浩は2013年に母が亡くなる前に謝られたことが忘れられないという。

「お前には迷惑をかけたね。ごめんなさい」

現在指導者として活躍する、明るい性格の誠が「太陽」という点は分かりやすい。しかし幼少期からずっと年代別代表の選出歴で兄をリードした弟・浩が「月」というのは、いったいどういうことなのか。

兄の誠。7月中旬、都内御茶ノ水の日本サッカー協会内にて(撮影:佐藤博之)

「どっちがサッカー上手い?」

浩は今回、日本サッカー協会(JFA)のテクニカルスタッフとしてブラジルの地を訪れる。そこは奇しくも兄・誠との関係性を巡って浩の人生に影響を与えた場所でもある。

1967年11月14日、青森県三戸郡五戸町で生まれた二人。一家にはすでに兄二人がおり(長男は故人)、誠と浩は3男と4男として育った。浩が幼少期を回顧する。

「幼少期は着るものも一緒でした。小学校1年生で初めて好きな色が赤と青に分かれて。すると学芸会の『一寸法師』で赤鬼・青鬼の役が回ってきてね。おんなじ顔がやってる、ってバカウケでしたよ。双子、重宝されてたんじゃないかな」

小4でサッカーを始めた際も、「二人で同じことをやりなさい」という両親の方針の下、誠が望んだサッカーをやることになった。

しかし、外の世界では「二人は一緒」という考えは通じなかった。サッカーが盛んな町五戸町でボールを蹴り始めると、こんなことを聞かれるようになった。

「どっちが頭いいの?」

「どっちがサッカー上手い?」

さらに浩を困惑させたのはこの質問だった。

「どっちがお兄ちゃんなの?」

二人の間ではどちらでもいいことだった。ただ、浩は「幼少の頃、自分のほうが誠に対しての競争意識があった」と感じており、誠は「二人が正しくない感情・競争にならないように意識していた」。

ところが、小学校6年生の時に二人に決定的な差が出る。1979年に青森県代表五戸SSSとして出場した第3回全日本少年サッカー大会で、FWだった浩だけが「大会優秀選手」に選ばれたのだ。

選ばれなかったMFの誠は「慰められたけど、これがこの先、どうつながっていくのかは当時理解できなかった」と言う。

二人のプレーヤーとしての評価が確実に分かれていった。

兄・誠とともに戦ったベガルタ仙台練習場にて(撮影:佐藤博之)

中1の時、ブラジルの名門クラブ・サントスのサッカースクールが青森で開催された際には、象徴的な出来事があった。

ブラジル人コーチが寡黙ながらガツガツと点を取りに行くスタイルの浩に惚れ込み、こんな申し出をしてきた。

「浩をブラジルに連れて帰りたい」

両親は悩んだ。考えに考えた結果、出した答えはこうだった。

「誠と一緒じゃなきゃだめです」

ブラジル側の回答はノーだった。サントスは翌年もまたスクールを開催、浩のことを望んだが、両親の答えは変わらなかった。

浩のほうがプレーの実力は一枚上手。この状態は青森の強豪・五戸高校を卒業し、住友金属サッカー部に入部した後も続いた。しかし、このことでより苦しんでいたのは、浩のほうだった。

浩は「高校時代から、『誠と違う道に行く』と意識し始めた」という。明るい誠、クールな浩と性格が分かれていった(五戸高校時代、左からMFだった誠、FWだった浩、岡沢克郎/アフロ)

「代表に行きたくない」

浩は中・高と学校のチームでの活動を離れ、年代別代表チームの活動に呼ばれ続けた。そのたびに父親か母親のいずれかは兄の誠を家に置いて、弟に付き添い、全国各地、時に香港など海外を回った。ここで青森以外の都会を見ると驚くようなピュアな少年に、ショッキングな出来事が起きる。

「青森弁で挨拶すると、からかわれてね。そこからいじられ続けるような状況が続いて。『手倉森、何言ってるかわかんねぇ』って」

浩は内向的になっていった。別に喋らずともサッカーやってりゃそれでいいと。

高2、高3と進んでいくと、浩の精神状態はどんどん悪くなっていった。自分は高校選手権11回出場を誇る名門サッカー部の仲間と楽しくサッカーをしていたい。しかし、「代表に行きたくない」と先生に相談しても「なぜ名誉なことを断ろうとする」と返された。誰も気持ちを理解してくれない。

高校選手権での兄弟の活躍を報じる当時の新聞(共同通信/デーリー東北新聞社提供)

両親からは常に「誠を立てなさい」ということも言われていた。一方で、誠は両親から「浩を助けてあげなさい」と言われていた。

親の手がどうしても弟の浩にかかりがちになっていた。二人に差がつかないように。この点を東北人の両親は「兄を立てる」という日本従来の上下関係で説明しようとした。浩は、家で代表のユニフォームやスパイクを「しまえ」と言われることもあった。決してストレスではなかったが、代表選出を無邪気にはしゃぐことも難しくなっていた。

しかし、周囲の「手倉森兄弟」への期待値は高まるばかり。地元の新聞には「手倉森浩」「手倉森兄」と書かれることもあった。チームの主軸が双子という話題性に加え、浩の期待値がはるかに高いという意味だった。高3の冬の高校サッカー選手権が近づくにつれ、浩は試合前に発熱するほどになっていた。

「手倉森兄弟から抜け出したい。サッカーでこんな思いをするのなら、サッカーも辞めたい」

チームの練習すら休みがちになり、キャプテンで生徒会長だった誠に「出て来いよ」と誘われるような状態になった。エースが不調に陥った最後の高校選手権はベスト8で敗退した。

仙台市内で話を聞いた浩。「自分が先に結婚したことも、兄弟の距離感に変化を与えた。今は当然、お互いの家庭をまず考える、という感じ」(撮影:佐藤博之)

弟・浩の内向的な性格は、鹿島アントラーズの前身、住友金属に入団後も続いた。当時監督だった野見山篤(現ギラヴァンツ北九州強化本部長)は浩の獲得をまず望んだが、学校側の説明は「二人を離さない方がいい」。実際に入団面接時の説明から、入団後の先輩とのコミュニケーションまで、兄の誠が引き受けていた。

そして迎えた5年目、1991年に浩にとって「やっぱりあいつがいいところを持っていくんだ」と感じさせる出来事が起きた。

チームから発表された「ブラジル留学選手」のリストに、浩ではなく、誠が入ったのだ。ブラジル留学は、浩が住友金属入団の希望条件のひとつにしていたものだった。結局、幼き日のかの地の夢はするりと誠の手に入った。

「仕方がない部分もあったんですけどね。サッカーさえやってればいい、と先輩を先輩と思わない態度で練習に臨んだりしてましたから。外国人選手に激しいファールを仕掛けたりして。誠がそれを謝ってくれていたようで……」

誠は、「今は俺が勝負の世界で前に立っているけど、この先浩が前に出てくることだってありうる」ともいう(撮影:佐藤博之)

血の繋がった弟から仕事を奪った

二人は1992年、25歳でJリーグ開幕直前に鹿島アントラーズと名を変えた住金から放出された。1993年に揃って移籍したNEC山形(現モンテディオ山形/当時東北リーグ=3部相当)で、兄の誠が一年早く28歳(1995年)で引退。翌年に浩も引退した。その後、誠は大分トリニータのヘッドコーチに就き、浩は山形でユース監督を務めるなど、サッカー界にいながらも別々の道を歩んでいた。

サッカーの現場で再会するのが、2007年のことだ。誠が先にヘッドコーチに就任していたベガルタ仙台に、浩がコーチとして呼ばれた。2008年に誠が監督に昇格すると、浩はヘッドコーチを任された。

兄の誠が選手生命に一年早く見切りをつけた分、指導者の経験では弟に先んじる状態になっていた。

「浩はNEC山形を全国リーグ(JFL=2部相当)に昇格させる重要な活躍をして引退した。自分は選手では花開かないことが住金を辞める時に分かっていたんです。一方で指導者になれば監督になれる、という自信もありました。
ベガルタでは『チームを東北のシンボルにしよう』と浩を誘いました。本来の二人での目標は『監督として対戦する』ということだったけど、まずは彼がコーチを経験することはいいことだろうと思って」

子どもの頃の兄弟の比較について誠のほうは「気にしてなかった。自分もいつか代表に選ばれればいいと考えていた」という。こういった考えを自他ともに「超ポジティブ」と認める(撮影:佐藤博之)

選手としては弟が上だった。指導者としては兄が一歩先を進んだ。そんな二人が、監督―コーチの上下関係で同じチームで仕事をすることになったのだ。当時在籍したMF千葉直樹(現在、Fリーグ・ヴォスクオーレ仙台スーパーバイザー)は、「誠さんはモチベーションを上げるのが上手く、人心掌握に長けた人。浩さんはでんと構えていて、聞けば教えてくれるタイプ」と感じていた。

2010年シーズンの終盤、そんな二人に大きな亀裂が入る。シーズン途中に15戦連続未勝利を記録。最終節でようやくJ1残留を決めるほどのギリギリの戦いを強いられたのだ。

試合中のベンチで、戦術を巡っての言い合いが増えた。

浩は誠からヘッドコーチとして練習を取りまとめてほしい、という依頼を受けたが断ることもあった。浩はこう振り返る。

「俺は誠には意見を実直に伝えていた。ヘッドコーチだとわきまえているんだけど、どこかで『兄弟』というのはあって。兄弟だからなんでも聞き入れるだろう、という感覚はあった」

誠はこう感じていた。

「J1で一緒に難しいシーズンを戦っていくなかで、監督とコーチの立場の違いへの理解力が浩にはたぶん足りなかったと思う。確かに俺が兄貴であいつが弟だけど、俺が監督で彼はコーチとなったときに、甘えや妬みもあった。それを感じられるのは、俺が兄貴だからだろうなとも思うけど」

シーズン終了後、二人は決定的に袂を分かつことになった。浩がクラブハウスに呼び出され、強化部長から一言告げられた。

「ごめんなさい」

ヘッドコーチ職の解雇通告だった。

「はい、今までありがとうございました」

浩はこう答え、クラブハウスを出た。

浩の解雇を望んだのは、誠だった。

「俺が切りました。解雇を考えた時、一緒にS級の資格(Jリーグチームの指導が可能なライセンス)を取りながら、『いつか対決しよう』と誓い合ったことを思い出して。だから俺と肩を並べたいんだったら、違うチームで監督をしてみせろと。俺は俺で、血の繋がった弟から仕事を奪うっていう、給料をゼロにする、っていう役割をやった。その時に腹をくくりましたよ。どんな人に対しても厳しい判断をしなくてはならない立場なんだと。選手に対しても、誰を選んで誰を切る、ということをやってきました。人の人生に関わることだけど、厳しくやらなきゃならない。そのための決断をさせられたんだろうなって」

幼き日に感じた「二人は一緒だと思っていた家族内での関係」が外の世界で通じない。そんなギャップが別の形で出たのだった。子どもの頃は二人の比較が始まった。大人になってからは、兄弟間の関係と、社会での立場のはざまで揺れた。パブリック(公)では、プライベート(私)での関係性は通用しない。そういうことだった。

浩がチームを去った翌年から、チームは4位(2011年)、2位(2012年)と躍進を遂げた。この実績を買われ、誠はオリンピック代表監督のオファーを受けることになった。

7月1日 リオ五輪最終エントリーメンバーの発表にて。「ここからは託される人(選ばれた選手)と託す人(選ばれなかった選手)とに分かれる」と独特の表現を使った(長田洋平/アフロスポーツ)

俺は俺の人生を生きてる

今、浩は「誠のいない世界」を生きている。2012年に45歳で山形のヘッドコーチに就くまでの1年間、サッカー界を離れ、フリーとして過ごした。何をすればいいか分からなかったが、ひとまず社会を知るためにビジネスセミナーに参加した。そこで「さあ、たった今から500円稼いでみてください」と言われ、ハッとした。俺、何にもできねぇなと。外からサッカーの世界を観ることもできた。「ベガルタをクビにしてくれた誠に感謝」と思った。

「そうやって時間を過ごしながら、周囲を見渡してみて気づいたんです。『世の中の人たちもすごく頑張っているんだ』と。逆に自分の姿にも気づいた。そこまでは『俺はJリーグというプロの世界で頑張ってる』という意識の強い、ガツガツした人間だったんだと」

浩は、2013年からは震災復興支援特任コーチを3年間務めた後、日本サッカー協会のトレセンコーチに就任、現在に至る。誠のいない世界は「とても楽しいもの」だ。なぜなら、この年になってようやく「自分の人生」を考えるようになったからだ。

「嬉しいですよ。誠がオリンピック代表監督として活躍するのは。手倉森という変わった苗字を世に広めてくれてるし。俺たち兄弟として誠が何かを勝ち取ってほしいなとも思う。今回の五輪は、手倉森兄弟にとっての一つの区切りですよね」

ブラジル出発直前の国内合宿にて。報道陣の「願掛けは?」との質問に「あら、盗み見されたかな? おみくじで大吉でした」と笑顔で答えた(長田洋平/アフロスポーツ)

一方で「個々人の生き方としては、どうでもいい」ともいう。誠はU-23日本代表チームを率いて五輪に挑む。その結果がどうであれ、当然受け入れる用意はできている。

「今は、俺は俺の人生を生きて、誠は誠の人生を生きてるから。これまで確かに親の言葉を真に受けすぎて、『誠を立てる』ということに逃げている部分があった。ブラジルのサントスの件も、親が俺を心配しての事だったと思う。『誠がいないと、浩はダメだ』というような。誠の方が明るい性格だったから。でも今は、サッカーの仕事をやるかやらないかにしても、自分で決めればいいんで。どちらを選択しても幸せだったらいい。俺もポジティブでいられるということが分かったから」

誠からは「勝負の世界に戻ってこい」と言われる。育成から、結果が問われるトップチームへ。でもそれは「あいつに言われてやるわけじゃなく、自分でタイミングを決めて動くこと」と思っている。

誠もまた、「浩のいない世界」について似た考えを持っている。

「双子として生まれてきて、青森のなかでサッカーをやってきた。手倉森っていうめんどうくさい名前が全国に知れて、比べられる宿命のなかで生かされてきた。選手としては、二人で試合に出ることが楽しみだったんだけど、それができなくなってきたときに、人生も離れ離れにならなきゃいけないなって。そういうことをずっと意識していたんですよ」

浩がベガルタ仙台クラブハウス内の神棚前で。「『兄・誠のために必勝祈願』と勝手にキャプションつけますよ」と切り出すと、笑って黙認した(撮影:佐藤博之)

運命には抗えない。どちらが兄で、どちらが弟として生まれるか。そして評価は人が決める。本人たちの意思に関係なく、兄弟というものは比べられる。

そんなことをいくら考えても仕方がない。

今、二人はこの点を消化しきって、そのうえで個々が存在しようとしているのではないか。濃厚すぎる関係では、そこまでじつに40年強の時間を要した。

生きていくのは結局一人。だからといって完全に離れるものではない。東京と仙台、別々の場所で話を聞いた誠と浩から、そんな兄弟像を感じさせる言葉が聞かれた。

「浩にバカにされたことはない。一切ない。俺も浩をバカにしたことはない。ケンカはするけど」(誠)

「よくサッカー指導者仲間からは『仲良くやれよ』と言われますよ。会っても挨拶がそっけなかったりするから。でも思うんですよ。兄弟だからケンカしてもいいんだって。遺恨が残んないし、愛があるんだって」(浩)

誠のオリンピック代表監督就任後、浩は電話でこんなことを言われた。

「おまえにも世界中を回って、いろんなサッカーシーンを見てもらいたいよ」

浩は思った。うるせーな。おめーが見てねぇ世界を俺も子どもの頃から見てきたんだよ、と。

人生のほとんどを東北地方で過ごしてきた二人。その思い出を胸に、それぞれの持ち場でブラジルの地に立つ。


手倉森誠(てぐらもり・まこと)
1967年生まれ、青森県五戸市出身。五戸高校サッカー部でMFとして活躍、全国高校サッカー選手権全国大会に出場。卒業後は日本リーグ (当時) の住友金属(現鹿島アントラーズ)に入団。1993年、NEC山形 (現モンテディオ山形)に移籍。1995年現役引退。NEC山形、大分トリニータでコーチを務めた後、2004年にベガルタ仙台のコーチに。2008年監督就任。東日本大震災のあった2011年、ベガルタ仙台は開幕から12戦不敗を記録した。2014年、リオ五輪を目指すU-21日本代表監督に就任。五輪最終予選を兼ねたAFC U-23選手権2016で優勝、リオ五輪出場を決めた。

手倉森浩(てぐらもり・ひろし)
1967年生まれ、青森県五戸市出身。五戸高校サッカー部でFWとして活躍、全国高校サッカー選手権全国大会に出場。卒業後は日本リーグ (当時) の住友金属(現鹿島アントラーズ)に入団。1993年、NEC山形 (現モンテディオ山形)に移籍。1996年までプレーし、現役を引退。山形のユース監督やコーチを歴任。2008年〜2010年までベガルタ仙台で、2012年にモンテディオ山形でヘッドコーチを務めた。2013年に日本サッカー協会の復興支援特任コーチに就任。2016年からナショナルトレセン東北地域チーフコーチ。


吉崎エイジーニョ(よしざき・えいじーにょ)
1974年生まれ、北九州市出身。日韓欧の比較で見える「日本とは何か?」を描く。大阪外大(現阪大外国語学部)朝鮮語科卒。1997年に韓国、2005年にドイツ在住歴あり。近著に日欧の根本的なサッカー観の違いを解いた文化論『メッシと滅私』(集英社新書/2014年5月16日発売)、翻訳書に『朴智星自伝 名もなき挑戦』(小学館集英社プロダクション)などがある。韓国ガールズグループ「RAINBOW」の熱烈ファン。本名は吉崎英治。

[写真]
撮影:佐藤博之
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝

挑戦者たちの背中 記事一覧(36)