FC琉球監督 金鍾成
2015年、FC琉球のアカデミーダイレクター兼ジュニアユース監督として沖縄に移り住んだ金鍾成(キム・ジョンソン)。2016年からはトップチームの監督に就任した。東京生まれ、朝鮮籍の在日コリアン3世である。一方のFC琉球は、2003年に沖縄初のJリーグクラブを目指して創設され、2014年シーズンからJ3参加を果たしたクラブ。「ヤマトで生まれてヤマトから来たけど、日本人ではない」監督と、沖縄のサッカーチームとの出会いは、どんな化学変化を起こすのか。闘いは始まったばかりだ。(取材・文 藤井誠二/Yahoo!ニュース編集部)
人生無駄にしたと思うぐらい、反骨心で生きてきた
那覇空港を出発するモノレールは、ビルの5階か6階ぐらいの高さがあり、車窓から街を俯瞰することができる。那覇の中心部にさしかかり、安里駅や牧志駅を通過するとき、眼下の風景が変わってくることに気づく。広い道路に面したマンションやビルの裏側に点在する、入り組んだ路地や老朽化した家々が丸見えになるのだ。
FC琉球監督の金鍾成はその風景を眺めるたびに思う。
「ああ、自分の生まれ育った枝川の昔の風景に似ているな」
東京都江東区枝川一丁目は在日コリアンの歴史が凝縮された街だ。母校の東京朝鮮第二初級学校が今もあるし、鍾成の自宅もそこにある。妻の洪貞心(ホン・ジョンシム)が切り盛りする韓国料理店もある。
枝川の歴史は、1940年の「幻の東京オリンピック」前夜から始まる。1920年代、東京湾岸部の塩崎や浜園などの埋め立て地に在日コリアンがバラック小屋を建てて住み始めた。しかし、1936年に東京オリンピックの開催が決定されると、バラック小屋は枝川に強制移転させられた。日中戦争の影響でオリンピックは中止になったが、枝川は千人ほどの在日コリアンが集住する地域となった。鍾成には生まれ育った街と、那覇の「裏側」の風景が、どこか重なって見えるのだ。
彼が沖縄に「移住」して、サッカーを通じ「沖縄」と深く関わり始めてから、2年近くが経とうとしている。
「沖縄の歴史は我々在日コリアンと似ているところがあるのに、サッカーを指導していて、反骨心が薄い感じがするんです。こんなことを言ったら怒られますが、沖縄の人たちの感情として本土にいい感情を持っていなかったり、複雑な思いがあるのなら、県外のチームには絶対に勝つぞとか、そういう激しい闘争心のようなものです。でも、ぼくが接している若い世代だとそういう精神性がないのは当然なのかもしれません。ぼくは人生無駄にしたと思うぐらい、日本人に負けるかという反骨心ばっかりで生きてきたから」
そう笑いながら鍾成は言った。もともと浅黒いほうだが、沖縄で真っ黒に日焼けして、笑うと白い歯がニッと出る。たしかに鍾成が率いるFC琉球は平均年齢23歳と若い。今年から沖縄出身の高卒選手も加入した。
J3で闘えるチームに
FC琉球は元来、選手がスポンサー企業で働きながらボールを蹴ってきた。しかし、一部が倒産するなどしてスポンサー企業からの選手への賃金の未払いが発生する騒動も起き、チームは落ち着きを失って、2年連続でリーグ9位と低迷していた。
そこで2016年シーズンを前に、薄給ではあるが全員をプロ契約に切り換えた。鍾成が監督になった新生FC琉球は、レンタル移籍終了を含む14選手がチームを離れ、県内外やブラジルから若い選手を獲得し、大刷新をはかった。
欧州や南米では16、17歳でプロを目指していくのがスタンダードだが、日本ではまだ相対的にプロを目指す年齢が高い傾向がある。チームを思い切って若返らせたのは、10代の選手を育ててJ3で闘えるチームにするというフロント陣の戦略がある。金鍾成が呼ばれたのは、指導力も含め、彼の人柄がざわつき気味だったチームに落ち着きを与えると判断されたからだ。誠実にチームや選手と接していける指導者であると認められたのだ。
公式大会に出場できない「幻の強豪」
現役時代の鍾成は、在日コリアンのサッカー選手の中でもとりわけ、日本への闘争心を剥き出しにしてプレーした選手だった。それは、在日コリアンサッカーの歴史そのものが「差別」との闘いの歴史と重なり合い、マイノリティである在日同胞と一体化することで存在してきたからだ。
鍾成も所属していた在日朝鮮蹴球団(現在のFCコリア)は、戦後、在日同胞を励ますために結成され、各地で日本人チームと闘って勝ちを重ねてきた。しかし、日本サッカー協会主催の公式大会には出場できなかった。外国籍の選手は1チームに3名までしか登録できないという壁があるからだ。ゆえに「幻の強豪」と呼ばれ、Jリーグが発足する以前は、日本サッカーリーグのチームは在日蹴球団の胸を借りて練習を積んできた。
1993年にJリーグが発足したが、「一条校」(日本の法律で定められた学校。民族学校は各種学校扱い)を出れば外国籍扱いしない選手として1名まで登録できる特別枠が用意されただけだった。朝鮮籍・韓国籍の在日コリアン選手はこの「在日枠」を使ってJリーグでプレーしてきた。鍾成もこの資格を得るために、朝鮮大学校を出たあとに、都立上野高校の通信制を卒業した。
全国高等学校体育連盟主催の大会にも、民族学校は「一条校」ではないという理由で長らく出場が認められなかった。サッカー少年たちがもっとも憧れる全国高等学校サッカー選手権大会に出場できるようになったのは1996年のことである。在日コリアンのサッカー指導者らは朝鮮学校が高体連に加盟できないのは人権侵害だとして、日弁連に人権救済申し立てなどを行なってきた経緯もある。
「自分は、死んではいけないんだ」
鍾成は、朝鮮大学校から在日朝鮮蹴球団に入り、1995年にジュビロ磐田、翌96年にコンサドーレ札幌でプレーした。97年に蹴球団にコーチ兼任として戻り、1998年に現役を引退したあとは母校の 東京朝鮮中高級学校高級部サッカー部や朝鮮大学校でコーチや監督を務めた。沖縄に渡って来たのは2015年のことである。現役の間には北朝鮮代表選手としても活躍し、1990年には南北統一大会のために在日コリアン選手として初めて北朝鮮から韓国に入った。南北分断後、在日コリアンが板門店を越えたのは彼で2人目だった。生まれ育った日本での差別と、祖国の政治状況を背負ってボールを蹴ってきた希有な存在であると言っていい。
私が1993年から『コリアンサッカーブルース』というノンフィクションを書くためにJリーグ発足時から活躍していた在日コリアン選手らに取材を始めたころ、彼に幾度もインタビューをする機会があった。
ジュビロ磐田に在籍していたとき、鍾成は31歳。鍾成をジュビロに招聘したのは、元日本代表監督で、そのあとにジュビロで指揮をとっていたハンス・オフトである。同胞社会から抜け出して「日本人社会」でプレーする選択は、鍾成にとってひとつの大きな決断だった。ジュビロを離れる前に聞いた言葉を私は今でも覚えている。
「北朝鮮代表とか在日のチームでやったときは、この試合で自分が死んでもいいという気持ちになりましたが、ここJリーグでは死んではいけないという気持ちがありました。プロだから、僕はジュビロのものなんだから、ここで死ななきゃいけない人間なのに、死のうとしなかったのがいけなかったのかな、と」
在日同胞のためにプレーしたいという、幼少期から醸成された使命感がサッカー選手として鍾成を成長させたのはまぎれもないことだが、それが両刃の剣だったということか。こうも語っていた。
「一プレーヤーとしての可能性を試したいという気持ちもありましたが、僕の目標はあくまで祖国(北朝鮮)の代表入りであり、同胞の子どもたちのためにJリーグでやるんだという気持ちでやってきた。でも、磐田を応援する日本の人たちが『キム! キム!』と声援を送ってくれる。それには心打たれるものがありました。蹴球団では日本人チームに在日のチームが勝たなきゃいけないという気持ちを優先してきた。相手がどこであろうと、そういう気持ちでやってきた。それが、今、できないんです」
その後、コンサドーレ札幌に移籍したとき、年長者組であり人望も厚かった彼はチームのまとめ役になった。サッカーチームは在日コリアンも日本人も関係なくひとつの「社会」なのだと考え、最善をつくすことが重要だと思うようになった。それが若い世代の同胞への刺激にもなるし、メッセージにもなる。その考えは沖縄に来た今も「進化」を遂げているという。
アジア全体を強くしないと、日本も強くならない
当時から鍾成が言っていたのは、日本のサッカー全体を強くするためには、在日枠の撤廃だけでなく、「アジアフリー」にするべきだということだ。アジア圏の国々の選手なら、日本人と同じように何人でもチームに入れることを認めるべきではないか。現在でこそ各チーム1人の「アジア枠」(アジアサッカー連盟加盟国の国籍の選手)が認められ、「Jリーグ提携国枠」(アジア枠とは別に、タイ、ベトナム、ミャンマー、カンボジア、シンガポール、インドネシアの国籍の選手)も新設されたのが現状である。ちなみにEU域内のリーグの大半では、EU加盟国の国籍を持つ選手の保有に制限を設けていない。
「脱亜論の逆です。外国籍に規制を設けているのは日本人選手を強くするためだと初代の川淵チェアマンは言っていたけれど、逆だと思うんです。アジアは日本のクラブチームではフリーにしないと、日本が強くならないし、アジア全体も強くならない。日本だけ強くなるのはありえない。アジアを強くするために日本がリーダーシップをとる。今FC琉球でアジア枠を使っているのはGKの朴一圭(パク・イルギュ)、在日枠はミッドフィルダー朴利基(パク・リキ)。ブラジル人3人が外国人枠。提携国枠は使ってない。アジアがフリーになったら、日本は指導者や育成についての評価が高いから、うまい選手が集まってくる。ちょっと足が痛いぐらいで休んでいるとあいつが来てポジションを奪われるぞ、という意識がないとほんとうのハングリーとは言えない。ライバルが何十倍にも増える。さまざまな国や民族、出自を持つ選手らがフラットな状態でボールを蹴る。それがサッカーのすばらしさだし、チームの強さにつながると信じています。人間としても成長していけると思っています。FC琉球は少しでもそうしたチームを目指しています」
現在、新生FC琉球のフロント陣も在日コリアンと沖縄出身者らで構成されている。沖縄出身の選手は6名だが、中には米兵と沖縄女性との間に生まれた10代の選手も含まれている。
沖縄在住で大阪生まれの作家、仲村清司は私といっしょに試合を観戦しながら、チームのあり方と自分のルーツを重ね合わせ、「金鍾成という稀人(まれびと)を沖縄が迎えたことによって、古来、稀人を大切にしてきた風土がFC琉球によみがえった感がある」と言った。
「沖縄は移民した人たちでも〝県系人″と呼び合うように、同胞意識が強い土地。それゆえ他府県人や他民族が入りにくい土地柄となっているが、人種がるつぼ化しているFC琉球はそういう固定観念を根底から覆したチーム。離島差別もあって県人同士でもまとまりにくいのに、目から鱗というか、意表を突かれた感じがします。在日コリアンというマイノリティがマイノリティを指導するという構図も新鮮で、沖縄のスポーツ界では史上初めてのこと。政治でやれないことがサッカーであっさり実現しているのは革命的な『事態』と言っていい。金鍾成氏の人柄もあるのだろうが、超えることができないと信じ込んでいた国境をやすやすと超えたのは、内地で『在日沖縄人二世』時代を生きた僕には痛快事ですね」
ダイバーシティフットボールへの試行
FC琉球は、2016年4月のグルージャ盛岡戦(第5節)に3対2で勝ち、その時点で4勝1敗・勝ち点12と、J3で首位に立っていた。
沖縄は、地理的にも文化的にも東南アジアや中国などへ目を向けることができる地域である。仲村も触れたように、沖縄は、アジア化や国際化というカラーを出したFC琉球を、元来のチャンプルー(ごちゃ混ぜ)精神で内包してゆくだろう。
沖縄だからこそできる、ダイバーシティフットボールの試行は、沖縄の「誇り」につながっているのだ。
ノンフィクションライターの木村元彦が書いた『オシムの言葉』に、戦争があったから多民族・多文化とともに生きるサッカー哲学が生まれたのかという主旨の木村の質問に対して、オシムが肯定しない場面がある。肯定すると戦争にも一面の理があると認めてしまうことになるからだ。
鍾成は、このオシムの態度をよく引き合いに出す。たとえば「在日コリアンに対する差別があったから、今のようなサッカー哲学や選手としての力量を持つようになったのか」と問われたときに、「イエス」と答えれば差別をどこかで肯定することになってしまわないか。そんな自問自答を今も繰り返す。
そのことを木村元彦に伝えると、こんな答えが返ってきた。
「スポーツの監督は出自に関係なくフラットに選手を見ますが、サッカーはもっともグローバルなチーム競技なので特にそういう面が強い。オシムと鍾成はバックグラウンドは真逆だと思う。オシムはユーゴスラビアという多民族国家で生まれ育ち、戦争状態になる中で特定の民族に肩入れすることを拒否。『自分は何人でもない。サラエボっ子だ』と主張して属性が民族主義者に政治利用されるのを拒んで命がけで非戦を貫いてきた。一方で、鍾成は在日コリアンコミュニティで生まれて、その中で非対称のマイノリティとしてアイデンティティを堅持。朝鮮人であり続けることで抑圧や差別を跳ね返してきた。しかし、2人に通底しているのは、民族というものを否応なく意識せざるを得ない環境と時代に、サッカーに関わってきたことです」
今年5月、恩納村で元海兵隊員による女性死体遺棄事件が起きた。チームにいる元米兵と沖縄女性のダブルの選手が、報道や沖縄世論に複雑な思いを抱いていることに鍾成は気づき、1対1で話した。
「そういうことに向き合えるのは、彼が在日コリアンだから。マイノリティが背負わされた問題を相対化できる視点を持っている。彼が琉球にいることはチームにとっても選手にとっても幸福なことだと思う」(木村)
勝負の世界で、人を育てる
沖縄ではヤマト憎しの空気が年々強まっている。だが、金鍾成はヤマトで生まれてヤマトから来たけど、日本人ではない。そういう外国人の存在は沖縄では驚くほど認知されていない。
「沖縄で久々に、『いつ(日本に)きたんですか』って子どもからも大人からも聞かれてます。在日コリアンのことを知らないんです」。そう言って彼は笑った。
「自分の存在は、どこにも属さないで浮遊しているところがあるので、逆に客観的に本土と沖縄が見られる。そんなことを沖縄で考えています。当たり前のことですが、監督の役割は、日々の勝ち負けに追われながらも、チームをどこに導くか、選手たちをサッカープレーヤーとしてどう育てていくか。どんな意識を持ってほしいか、人としてどうなってほしいか。常に先を見て、思考し、行動すべきと考えています」
低いトーンで淡々と話すのだが、その口調には独特の押しの強さがある。
炎天下での練習後、監督自ら、チームのワゴン車に、テーピンググッズなどを詰め込んだ鞄や、ウォータークーラー、練習に使うポール、サッカーボール十数個、ゴミなどを積み込んでいた。チームの予算は限られている。片づけるスタッフがいないときは、監督がやるしかない。それを苦にせず黙々とこなす。「積み込み方がうまくなりましたよ。たまに選手も手伝ってくれます」と苦笑いして、鍾成は運転席に乗り込んだ。
練習グラウンドに潮のにおいがする海風が吹いた。目の前はビーチだ。たまに選手たちは練習が終わると、真っ青な海に飛び込んでいく。
金鍾成(キム・ジョンソン)
1964年東京都生まれ。東京朝鮮第二初級学校、東京朝鮮中高級学校、朝鮮大学校を卒業後、在日朝鮮蹴球団でプレイし、その間に北朝鮮代表として1990年FIFAワールドカップ・アジア予選など国際Aマッチ20試合に出場、2得点をあげた。ジュビロ磐田・コンサドーレ札幌等のJリーグでもプレイした。1998年に現役引退し、指導者に転身。セレッソ大阪や母校でコーチや監督をつとめた。日本代表の李忠成は従甥にあたる。
藤井誠二(ふじい・せいじ)
1965年愛知県生まれ。高校時代からさまざまな社会運動に関わりながら、ノンフィクションライターとして、教育、マイノリティ、事件、犯罪被害者等について書き続けている。さまざまな論者との対談本も多く、著作は50冊を越える。沖縄と東京を行き来する生活を10年以上続け、『沖縄 オトナの社会見学R18』(仲村清司・普久原朝充との共著)を2016年に出した。沖縄の消え去った売買春街の戦後史と内実を記録したノンフィクション『沖縄アンダーグラウンド』を年内に刊行予定。
[写真]
撮影:川畑公平
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝