フラワーアーティスト 花千代
1996年、すべてを捨てて渡ったパリで、花の世界に飛び込んだ。帰国後、フラワーアーティストとして独立。たったひとつのブーケから、2008年には洞爺湖サミット公式晩餐会、2013年にはAPEC総理公邸晩餐会という、最高級のフォーマルな場の装花を手がけるまでに。花の道一筋かと思いきや、前職は芸者。10代で新橋花柳界に入り、3本の指に入る売れっ子に。しかし11年間勤めたキャリアを捨て、32歳で単身渡仏。エレガントかつ型破りな人生に、多くの人が惹きつけられる。(ライター岡田カーヤ/Yahoo!ニュース編集部)
花は暮らしとともにある
6月に富山の発信拠点として日本橋にオープンした「日本橋とやま館」。プレオープンのパーティー当日、会場装花を担当した花千代は、赤いヘッドドレスをつけて現れた。まるで本人も装花の一部であるような装いで。
「フラワーアーティストの中には花が主役だからと黒を着る方が多い。でも、ご来場いただくみなさまと花の前でお話しすることを考えると、こうした色合いのほうが会場の雰囲気を壊さないでいいと思うんですよね」
イギリス式のフラワーアレンジメントが主流だった日本で、パリで学んだ「空間全体を花で演出する」スタイルを取り入れた。野菜や果物、ときには革といった異素材との組み合わせは、それまでのフラワーデザインの可憐なイメージと一線を画した。その新しさを買われ、フラワーアーティストとして独立して2年で、開業したばかりの「ザ・ウィンザーホテル洞爺」のフラワーディレクターに就任。以来、11年間勤めあげた。
フラワーアーティストには自分の色や個性を前面に押し出して、会場を染め上げるタイプもいる。ところが目の前の花千代の作品からは、強い自己主張は感じられない。壁紙として使われている富山県名産の「絓絹(しけきぬ)」が放つ淡く深い輝きを引き立てるようにそこにある。
花千代がこの仕事を頼まれたきっかけは、5年前に東京で開かれた富山県のイベントに遡る。「富山県はチューリップの球根の生産が日本一だから、球根を強調したい」というクライアントの要望に応えた展示をした。
「カラフルなゼリーで球根の周りを覆い、それを透明なフィルムでラッピングしたチューリップが飾られていたんです。それ自体がアート作品のようでした」
「日本橋とやま館」プレオープンのイベントディレクションを担当した玉田泉はそう語る。
「『日本橋とやま館』は単なるアンテナショップではなく、富山の上質なライフスタイルを発信する場。その空間を飾るのは花千代さんしかいないと思ったんです」
花はそれ単体では成り立たない。パーティー会場、レストラン、住宅のリビングなど、人の作り上げた空間に取り入れられる。そこにはインテリア、テーブルスタイリングはもちろん、食事やワイン、会話といったさまざまな要素があり、花もそれらとともにある。
フランスでは、こうした暮らしの要素全般をアートとしてとらえ、それぞれが創意工夫をしながら生活を楽しむことを「アール・ド・ヴィーヴル(暮らしの芸術)」と呼ぶ。花千代もこのアール・ド・ヴィーヴルの実践者なのだ。
孤独な少女が見つけた居場所
花千代こと斉藤由美子は、1963年、神奈川県横浜市で生まれた。両親が離婚したため11歳から祖母と暮らすが、祖母の病により高校生から一人暮らしを余儀なくされた。
親から見放された少女は誰に頼ることもできず、精神的に自立せざるを得なかった。家に引きこもり、自分を捨てた親を見返そうとがむしゃらに勉強をした。級友たちとは話が合わなかったが、国内外の純文学を読みふけり、登場人物たちと対話を重ねた。三島由紀夫や谷崎潤一郎、永井荷風の耽美な世界が好きだった。そこには自分と同じ言葉で話しかけてくれるおとなの世界があった。
高校卒業後、会社勤めもしたが、自分の世界はここじゃないと思い飛び込んだのが芸者の世界。料亭「金田中」女将のインタビューを雑誌で見かけ、この世界なら生きていけると直感した。過去のものだと思っていた谷崎や永井の粋筋の世界がここにある。世界が開けたような気がした。
他人と関わりをもたずに生活してきた少女が、上下関係や規律の厳しい置屋で始めた共同生活。ストレスも多かったが、女将さんやお姐さんたちから作法を学び、芸を磨く努力をするのは苦ではなかった。お座敷デビューは、半年後の秋だった。「千代田」という置屋の屋号と、秋の和花にちなんで「千代菊」という名前をもらった。
朝はお稽古、夜はお座敷と、忙しい日々を送るうちに、だんだんとわかってきたことは、幼い頃から踊りなどの芸事を身につけている人には、逆立ちしてもかなわないということ。見極めは早かった。踊りは見苦しくない程度にできればいい。それよりもやるべきは、お座持ちのいいお姐さんを見習うこと。入った席でしっかりお客様を楽しませる。仕事の話をしているときは控え目にしつつも、険悪な雰囲気になったら、さっと助け舟をだす。「◯◯ちゃんがいてくれてよかったよ」と信頼関係が生まれ、次も名指しがある。
一方で、緊迫した場面なのに、朝読んだ経済新聞のネタを自慢気に話して、場をぶち壊してしまうお姐さんもいた。どうしてこうなってしまうのだろう。注意深く見ていくうちに、大切なのは「余白を読む力」だと気がついた。「今、A社はB社と提携できるか探りをいれているな」というようなことが、何気ないやりとりでわかるときがある。目の前の人はどういう状態にあるか、この場でどういう駆け引きをしたいのか。それを理解したら、たいていはうまくいった。
余興を求められたら堂々と舞踊を披露するが、座敷の主役はお客様。全体の中で自分が果たす役割を意識して行動するようにすると、自然とお客様からの信頼を得て、次の席にもお呼びがかかった。「千代菊」は、150人いる芸者衆の中でもナンバー3に入るほどの売れっ子になった。
「千代菊」の名を捨てて
新橋にいた11年間は最高に楽しく、勉強になった。お座敷では世界のトップクラスといわれる人と出会って、たくさんの刺激を受けた。でも、伝統と格式のある世界では「千代菊」の役割を飛び越えることはできない。
次第に、花柳界以外の世界を見てみたいという思いが募っていった。「千代菊」という仮面を被ってではなく、「斉藤由美子」として個性を磨き、なにかに挑戦してみたい。そうした思いにかられ、花柳界での成功をあっさりと手放した。
花と出合ったのは、フランスに渡って1年が過ぎたころだった。スイスとの国境近いアヌシーという街で語学学校に通っていたとき、とある企業の社長夫人のパーティーに招かれた。
会場は花であふれていた。入口にはバラのアーチ、天上にも壁にも、階段にもテーブルにも色とりどりのバラ。パリで活躍するフラワーアーティスト、モニク・ゴーチェによるものだった。
「まるでバラの中で食事をしているかのようでした。花といえば床の間というフレームの中のものだったのに、ここまで増殖して、空間を装飾することで、主役となって人を感動させることができるものなのかとびっくりしたんです」
なにか新しいことを始めたいと思っていたタイミングだった。パリへと移り住み、モニク・ゴーチェに師事。フランス園芸協会(DAFA)1級資格を取得後、パリの有名フローリスト「ピエール・デュクレール」で研修をした。ワンルームでも豪邸でも空間に花を欠かさないパリの人々の、美意識が行き届いた生活を身近に感じながら、刺激に満ちた毎日を送った。
花で表現する「究極のおもてなし」
4年間のフランス生活を終えて帰国後、間もなく「HANACHIYO FLOWER DESIGN STUDIO」を立ち上げた。フラワーアーティスト「花千代」が誕生した。36歳だった。
実績もお金もない。ここでがんばらないとあともない。自作のブーケを手みやげに、芸者時代からの知人やお得意様のもとへ挨拶にまわると、大口の注文をくれた人がいた。財界人や芸能人も多く通う銀座の高級クラブ「グレ」のママ、光安久美子さん。上顧客へ定期的に贈る花のすべてを花千代に任せてくれた。多い月は40個近い注文が入った。
「芸者時代からよく知っていましたからね。着物の趣味も個性的でセンスが良かったし、なにより素晴らしいのは彼女の人柄。すべての人にやさしさを持っている。そんな彼女に絶対の信頼を置いていました」
光安は、自身が店を引退するまでの6年間、贈答花を花千代にまかせ続けた。
「日本人にはあまり見られない色彩感覚で華やか。なにより花にパワーがありました」
アイデアの引き出しはたくさんあった。大好きな文学もそう。映画や美術展にもよく行った。フランスでの経験も大きいし、夜遊びだってアイデアの宝庫だ。そもそも、美しいものを見る目は芸者時代に養われていた。
お座敷に呼ばれて行った料亭の床の間には横山大観の軸がかかり、鮎は魯山人の器で供される。茶席に呼ばれると、室町の井戸茶碗。フレンチレストランに行けば、ロマネ・コンティやラトゥールのような高級ワインがポンポンと抜かれる。来る日も来る日も美しいもの、美味しいものが身近にあった。
人生で出合ったすべてのものが、花千代の創作の源になった。あるときはエレガントに大胆に。あるときはポップにクラシックに。花千代によって「余白」に花があしらわれると、その空間はたちどころに生命を与えられた。
洞爺湖サミットの公式晩餐会の場がめぐってきたのは、「花千代」として独立してから8年目のことだった。当時の福田康夫総理からの「最大限の和のもてなし」というオーダーに応えるべく、山本寛斎が総合プロデューサーとなって饗宴の準備が行われた。花千代は公式晩餐会の会場となった「あらし山 吉兆」のエントランスに、天井からたくさんの試験管をぶら下げて草花を活けた。晩餐会当日は七夕。頭上で揺れる笹をイメージした。試験管が音をたてて揺れると中の水が光にきらめいた。その場にいた夫人たちから、ため息がもれたと伝え聞く。
「どんな相手でもビビらないわね」
「日本橋とやま館」レセプション前日の朝8時。大田市場に現れた花千代は、あらかじめ注文しておいた大きな枝ものの枝ぶりをチェックしたあと、市場内の花屋を見て回っていた。
当初は富山産のシャクヤク250本が中心となる予定だったが、開花のタイミングを予想して4日前に産地から届けてもらった花は、3分の1も咲いていなかった。茎の根元を割って水を吸わせたが、翌日の本番までに咲きそうもない。
「ま、花ではよくあることですね」
動じず、涼しい顔で、必要な草花を物色している。もともとシャクヤクを中心に「和」の世界を展開する予定だったが、ランを取り入れた「和モダン」の方向へと舵を切った。
「日本橋とやま館」に到着すると、準備の最終追い込みのため、大勢のスタッフが出入りしていた。花千代が担当するのは、窓際の幅15メートルほどのスペース。花器や枝、花などの素材を、3人のアシスタントとともに次々に運び入れる。大きさ、デザイン、それぞれに違うガラスの花器、約20個をランダムに並べ、床に敷いたシートの上に、すべての枝、草、花を並べてからはあっという間のできごとだった。
とにかく早い。そして迷いがない。足を使って長い枝を豪快に折っては、天井に枝の先がつかえるのもお構いなしに、どんどん花器へと挿していく。続いて、葉もみじ、あじさい、大小さまざまな種類の色鮮やかなラン。いくつもの花器へとテンポよく活けたら、しばらく手をとめて全体を眺める。そして今度は違う花にとりかかり、全体を眺める。その繰り返し。
まるで舞を見ているようだった。その動きはあらかじめ決められているかのようにリズミカルでしなやか。体のどこにも力が入っていない。花と向き合う集中力、肝が据わり堂に入った構えからは、多くの場数をこなしてきたことが感じられた。
後日、花千代にそのことを伝えると、
「そうね、どんな場所、どんなクライアントが相手であろうとも、ビビらないわね。リスペクトはしているけれど、仕事をする上では対等だという思いはあるわね」
と笑った。
女性らしさを生かして
花千代は「個」として勝負することを、まだまだやめない。今もっとも力を入れているのは、本物の和食を世界に向けてプレゼンテーションしていくこと。そのために、花の仕事は3割にまでセーブしている。
初めて店づくりのディレクションを行った香港の寿司店「すし志魂」は、オープンから2年後の2014年、海外の日本食レストランで二つ目となるミシュラン三つ星を獲得した。マカオのホテル「ウィン・マカオ」内にある和食レストラン「泓(みずみ)」にコンサルティングとして入った結果、2016年に「泓(みずみ)」は初の一つ星を獲得。この実績が評判となって、今春オープンしたシンガポールの寿司店「小康和」でもプロデュースを行った。
「クリエイターとして豊かな発想をもっているとともに、女性という性別を生かして働いている。日本は欧米に比べて女性が不利な社会。女らしさを捨てて働かないといけないケースが多いなか、彼女は女性らしさを生かしている。だから成功もしているし、カリスマ性もあるのでしょう」
花千代が多分野で活躍できる理由を、夫で会社経営者のアーネスト・シンガーはそう考える。
花千代自身、女性であることを常に意識している。
「花の仕事も、レストランプロデュースも、女性だからこそ気づけることがたくさんあります。つまりはみなさんに気持ちよくなって、楽しんでもらうということ。究極のおもてなし文化は11年間、“新橋夜間学校”でみっちり学びました。私のすべての原点はここにあるんです」
それぞれの「道」を極めながらも、ひとつのところにとどまらず、和と洋、日本と世界、花と食など、さまざまな分野を横断しながら、既存の枠組みを超えて変わり続ける花千代。楽しみながら自分らしいスタイルを追求するその生き方自体が、アール・ド・ヴィーヴルそのものといえるだろう。自分の可能性を限定せず、もっと自由に、もっと楽しく生きていい。花千代の生き方からは、そんなメッセージが伝わってくる。
花千代(はなちよ)
フラワーアーティスト。1984年から11年間新橋で芸者として勤めた後、1996年単身渡仏。パリでフラワーデザインを学び、2000年「HANACHIYO FLOWER DESIGN STUDIO」開業。CMや映画のスタイリング、イベント装花を手がけるほか、舞台美術も担当。著書に『花千代流テーブル&フラワースタイリング』(誠文堂新光社)など。
岡田カーヤ(おかだかーや)
フリーランスライター・ミュージシャン。エスペラント楽団「Double Famous」ではサックス、アコーディオンなどを担当。旅と日常の間で、人々の営み、土地の音楽や食文化、食べて走ることの記事を『翼の王国』『ソトコト』などに執筆。リスボン在住経験を活かし、ポルトガルの文化を日本に紹介する活動も行う。
[写真]
撮影:幸田大地
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝