戦後の経済復興。その一端として1949年に開幕しながら、突然、ひっそりと幕を閉じた女子競輪。それから半世紀の空白を経て復活した「ガールズケイリン」が、今年で5年目を迎える。高校生、教師、主婦、アパレル店員、テレフォンオペレーター、美容師。その他に元五輪選手から転身し、競輪界に飛びこんだ女たちなど、その数はのべ102人になった。もう後がない、という思いで自分の二本の脚を信じて飛びこんだ女たち。「記憶のギャンブル」と言われる競輪。この夏、デビューする新人のひとり、亀川史華はどのような思いを胸にスタートラインに立ち、どのような記憶を観客に刻むのか。(作家 伊勢華子/Yahoo!ニュース編集部)
On the Bicycle
ジャッ、ジャッ、ジャッ。背中をぐっと丸めて頭を低く屈(かが)めていると、耳元でチェーンの回転音と、タイヤが路面にぶつかる音が滝のように鳴り響く。ドクゥ、ドクゥ、心臓の鼓動がハンドルを握る指先にまで伝わってくる。ハァ、ハァ、熱い呼吸。音の洪水の中にいるのに、その音が耳に入ってくることはない。前を走る自転車に乗った、大きな背中だけに集中した。自分の中に閉じこもっていた10年間が、ペダルを踏む毎(ごと)に溶けてゆく。この背中から離れちゃいけない……。22歳の彼女は夢中でそれを追いかけた。
間に合わなかった夢
朝8時15分。
この時間のJR山陽本線明石駅の高架線は上りと下りの電車が交差して、なかなか途切れることがない。駅に向かう人はまばら。それとは逆に絶えることなく人が改札から溢れてくる。夏を予感させる明石公園の緑が目の前に大きく広がる。人たちが免許試験所や、がんセンター行きバス乗り場に列を作りだす。
その人混みの中から亀川史華の姿が見える。目を引く長身に短い髪。こちらに気づくと微笑して頭を下げた。大きなバッグと一緒に、ストローのささったアイスカフェラテを手にしている。
「毎日電車で通って来てます。座れないけど時間に確実なので」
朝の騒然さに合わせることもなく、ゆっくりと話し始める。
この春、史華は競輪選手になるための国家資格、選手資格検定に合格して、無事に日本競輪学校を卒業した。全寮制の学校に在学中は、恋愛、化粧、長髪、ケイタイ、外出すべて禁止。毎日、朝陽の上らないうちに起きて自主練をしてから夜10時の消灯まで、5分刻みに厳しく管理されたカリュキュラムを11カ月に渡ってこなした。
白衿が眩(まぶ)しい小学生たちが、切り替わったばかりの夏服姿で史華の横を通り過ぎていく。
「私は公立でしたけど、小学生の時は朝まで勉強してました。医学部のある大学に絶対行けるように、少しでもいい中学に行きたくて」
小学5年生の頃、史華の母は悪性リンパ腫との闘病のさなかにいた。
「お母さんと同じ病気の人をみんな治したい。そしてお母さんも治したいって。血液内科医になりたかったんです。塾にも通ってました。学校が終わるとすぐ勉強にでかけて夜10時くらいまで」
ようやく迎えた入試に時を合わせるように、母が危篤状態になった。
「塾の先生が、今すぐ家に帰る準備をしなさいって。嫌な予感がしましたね。何かあったんだって。ドキドキしながら病院に行ったら、お母さんは救急治療室で意識がなくて。お医者さんになって何でも治してやるって決めたのに、このままじゃ間に合わない。志望校は合格ラインだったけど結局受験にも行かなかったんです」
カフェラテの水滴で濡れた手をぐっと握りしめた。
「その後、お母さんは少し持ち直したんです。自分がいなくなってからの事を、私に伝えたそうだったけど。私が子どもで聞く耳を持たなかったんです。お母さんがいない世界なんて考えたくなくて」
史華が公立中学に通い始めた年の晩秋に、母は息を引きとった。
信号が青に変わる。史華は人混みを抜けだすと、歩道橋を渡った。城壁を越えた櫓の向こうに、デビューを控えた史華が連日トレーニングを積んでいる明石自転車競技場はある。
右手に持った氷の溶けだしたカフェラテが朧(おぼろ)にグラデーションを描いていた。
鏡のなかの母
史華の父は日本各地のレース場を転戦、その間に練習や合宿もこなす現役の競輪選手だった。少なくとも1カ月の3分の2は、家を留守にするのが選手の日常である。
母の死によって大学1年と中3の兄、そして末っ子の史華が家を守ることになった。若い頃にアメリカ暮らしをしていた母の作る料理。豪快で楽しい大皿料理が亀川家の食卓には並んだ。父が家に帰って来ると、家族はその料理をシェアしながら楽しい時を過ごした。その食卓はもうなかった。
「お母さんが亡くなってからごはんは自分で作る時もあるし、お弁当とかインスタントラーメンとか、そんなのですよね。たまにお父さんが注文したデリバリーの食事が届くこともあったけど」
中学ではブラスバンド部に所属。全国大会を目指して練習を頑張っていた。家に戻ると母がいない悲しい現実が襲ってきた。
「二度と、こんな思いはしたくないって思いましたね」
喜春城とも呼ばれる明石城のお堀は、その名にふさわしい新緑に囲まれていた。脇の小路を歩いていると、水辺で鴨の親子が毛繕いをしていた。
「なんとなく、お父さんやお兄ちゃんと、話さなくなったんです。人と深く関わるとその分だけお別れがつらくなるような気がして」
潰されそうな自分自身を13歳なりに必死に守ろうとした。
「こっそりお母さんの持ってた物をあさったりして。靴とか服を家で着たりしてたんです。化粧ポーチにディオールのファンデーションが入ってて。こういうの使ってたんだなって思いだしながら化粧してみたんです」
鏡に映った顔が、どこか母に似ていた。
「鏡を見るのが安らぎというか。家にいる時は一日鏡の前にへばりついて、化粧してました。だから私、中学の時からバッチリメイクなんですよ」
化粧をすると、なぜか気持ちが高揚した。
そう言いながら史華は公園を囲む眩(まばゆ)い緑をそっと見上げた。
シングルファーザーの決断
「自転車を運ばなきゃいけないんで、僕が車を出したんですよ」
史華の父、亀川修一は手際良く娘の自転車を車から下ろした。
1978年に競輪選手デビューした修一は、2年後の全日本新人王戦で優勝。その後も、トラックレース世界戦スプリント種目に3年連続で出場。惜しくもメダルには届かなかったが、国内スプリント競技のレベルの高さを支えた。
2007年、49歳で引退するまでずっと、その両脚で家族を養った。
「引退はやっぱり、子どもたちのことが心配なのもあったんですよ」
三人の子どもを残してレースに行かなくてはならなかった日々。それを振り返りながら修一はかつて自分が汗を流した明石競技場をフェンス越しに見つめた。
「家にほとんどいられないから、子どものごはんは宅配を頼んだりして」
子どもたちに引退を伝えたのは、史華が中学3年生の時だった。黙ったまま史華はふうんと愛想のない返事をした。
引退後の生活のために、修一は整体師の資格をとることを決めていた。自分の経験から体調管理の重要性が身に染みてわかっていた。子どもの側にいながら働くことが夢でもあった。ある日、自宅で開業できる物件が駅前に見つかると、すぐに家族で引っ越しをし、整体院を開業した。2009年春のことだった。
大人になるための早道
鏡に映る自分の顔に母の面影を重ねていくうちに、史華はヘアスタイルにも興味を持ち始めた。年頃の女の子にとって自然なことだった。中学卒業後、今度は美容師になるために専門学校に進むことにした。家族とあまり口をきかないことが、いつのまにか日常になっていたので、誰にも相談しなかった。
「一日でも早く美容師になれるとこを調べてたら、あったんです。普通は高卒の資格がないと専門って行けなくて、早くても20歳からしか美容師になれないけど、そこなら18で美容師になれるって」
大阪美容専門学校の高校併学コース。通信制高校としての側面もあるその学校では、3年で美容師と高校卒業の両方の資格がとれる。
「どこかで家族を支えたいって気持ちもあったんです。お父さんがやってる競輪も選手生命が長くないとか。感じてたんですよ、落車でケガしてずっと家にいる時のお父さん見てたから」
ネイル、パーソナルカラー。美容師免許の他にも、学校にいる間にとれる資格は何でもとった。その甲斐もあって、神戸で人気のサロンに就職した。
「仕事場では一番年下なんで誰よりも早く出て店の鍵を開けて準備しないといけない。大変でした。7時半からはシャンプーの練習。先輩の頭を洗わせてもらうんです。9時に店がオープンしてからは電話とったり、受付したり。あとは掃除。休憩は新人を優先させてくれるけど、それでも夕方に10分とれるかどうかだから急いでパンとか詰めこんで、また仕事。閉店したらすぐシャンプー練習。とにかく新人はシャンプー。それがきちんとできないと始まらないんです」
立ちっぱなしの一日を終えて帰ると夜10時を過ぎた。整体の仕事も終わって父はゆっくりしている時間だった。父の思惑とはすれ違うかのように子どもたちは忙しくなって家にほとんどいなかった。
「帰ってごはん食べてお風呂入ったら寝るって感じ。初任給は13万円。シャンプーがちゃんとできるようになると17万円になったかな」
明石競技場に向かうための道の途中にある歩道橋の階段。それを上りきったところでカメラマンがシャッターを切った。
「んー。ダメですね。タイミングが合わない」
史華はすこし不満そうにした。競輪学校に入る前にはできたはずの自然なポーズが上手にできなかったようだ。
個性というモデルたちの武器
美容師を目指していたはずの史華がモデルになったのは20歳の時だった。
「梅田でスカウトされたんです。ちょっと怪しい気がして止めたんです。でもお母さんが若い頃ファッションモデルをやってたことをふと思い出して、私にもできるのかもって思ったり。美容の道もいいけど何か突き抜けたことにチャレンジしたくなって。ウォーキングスクールっていうモデルの卵が通うようなところに、美容院が休みの日に行ってみたんです。通っているうちにクラスの先生にCMのスタンドインの仕事があるけど興味ないって声をかけられて」
スタンドインとは撮影前に行うカメラテストのために出演タレントの代役を務める仕事。史華はふたつ返事でその仕事を受けた。
「行ったら出演するマギーちゃんも来てて、ものすごくかわいくて憧れました」
カナダ人の父と日本人の母を持つマギーは、同世代の人気モデル。
「その日からは、もう毎日がカロリー。コンビニでゼロカロリーって書いてあるものばかり食べてました」
条件の合いそうな雑誌やショーのオーディションがあると事務所から連絡が入った。
「順番待ちしながら他の子がオーディションを受けてるのを見てると、脚がきれいとか、かわいいのは当たり前。劣等感が大きくなって」
モデルたちは自信に溢れて、個性がキラキラ輝いて見えた。
「170センチという身長は写真にするには大きすぎて、ショーに出るには低すぎるんです。やっぱ写真は168センチまで。ショーは175センチ以上ないとって感じで」
まずはオーディションに受からないと仕事がない。
「メインはウエディングモデルでした。ホテルのブライダルフェアでドレスを着たりして。月に一、二度なんで美容院は続けてました。カロリーのないものしか食べてないから店ではふらふら。美容師としてシャンプーはできるようになったけど、結局カットまではいけませんでした」
「私を競輪選手にさせて」と娘が言う日
モデルになって2年が過ぎた。納得のいく仕事につくには厳しい世界だった。
「やっぱりモデルをするからには神戸コレクションとか、東京ガールズコレクションにも出てみたかったです」
まだ誰もいない明石競技場を史華はじっと見つめた。
「それまでと違っていろんな人に会えるようにはなったんですけど、人間関係が複雑なったりしてまた気持ちが落ちちゃったんです。パートで雇ってもらった新しい美容院にも行かないで部屋にずっといるもんだから、お父さんが心配して大丈夫かって」
これまで父には用件がある時はメールで伝えることにしていた。何でもひとりで決めてやって来たのに、今更、何から話せばいいのか史華もわからなかった。
「元気がなくなった理由はお父さんにも話しませんでした。でもあの時声をかけてくれてからは、お母さんが亡くなってからずっとつらかったって気持ちを打ち明けられて」
数日後、父は物置から埃をかぶった自転車を出してくると、乗ってみないかと勧めた。
「すこし体を動かしたらどうだって。白いロードバイクを私のサイズに合うように調整していてくれたんです。二番目のお兄ちゃんが自転車競技をやってた時に乗ってたお古が物置の奥にあるのは知ってたけど、私は運動したことないし、自転車と言えば中学の通学で乗ってたママチャリだけなんで」
家から30キロメートルほどの六甲アイランドまで、ふたりでサイクリングに出かけた。
「この時、お父さんが自転車に乗る姿、初めて見たんです。競輪場にも行ったことないし、世界で活躍したっていう話も昔のことで知らないです」
空気は冷たかったが、澄んでいた。神戸港を見渡せる道を初めて広々と感じることができた。
「スポーツタイプの自転車だから、めっちゃ前傾姿勢。どう曲がるかハンドルの動かし方も知らなかったけど、スピードに乗ったら爽快。お父さんってこんなふうに走ってたのか、こんな風景を見ながら走ってたのかって。とにかくお父さんの背中を見失わないように走ってたら、それまでのものがバーっと晴れて」
幼稚園の時に自転車の乗り方を教えてくれたのは父だった。絶対に手を離さないでねとあれだけ言ったのに振り返ると父の姿はなくて、ずっと後ろの方から嬉しそうにビデオを回していた。
忘れていた感情が蘇った。
「家に帰って、お父さんがやってた競輪ってどんな競技なのかチェックしたら、YouTubeで女子が走ってる映像があったんです。そのまま美容師やモデルを続けることもできたけど、これだ! って」
競輪選手になるための資格を調べると、
〈十七歳以上〉〈日本在住〉
それをクリアしていれば概(おおむ)ね誰でも受験できることがわかった。
「私を競輪選手にさせてって、すぐお父さんにメールしました。でも返事がないんで帰ってきてどうして返事くれないのって文句言ったら、ふざけているのかと思ったって」
直接、気持ちを父に伝えてみても、父は首を縦に振らなかった。
「体を鍛えなきゃと思って3月にスポーツジムの会員になったんです。それこそひょろひょろのモデル体型の子が来たんでトレーナーの人にはエクササイズですかって聞かれて。だから私、競輪選手になりたいんで、そのためのトレーニングをお願いしますってストレートに言ったんです」
筋肉量を計ると、数値は70代女性の平均値。トレーナーからは、まず22歳の女性の平均値まで持っていくことを提案された。
娘がジム通いをしていることを薄々感じていた父は、かつて自分が練習していた明石競技場に娘を連れだした。競輪がいかに厳しい世界なのかを知らしめるのがその目的だった。
「初めてブレーキのない自転車に乗ったんですけど、一般道じゃないんで止まる必要もない。スーーーーッて、進んで。そのまま走ってみろって言われたから走ったら、1000メートル1分30秒だったんです。お父さんが学生時代、自転車で初めて1000メートルを計ったタイムが1分26秒だったらしく、それと4秒しか違わないから、アレって不思議な顔してて」
諦めさせる一日にするつもりが、逆に娘の背を押す一日になった。
母の面影とともに
2015年5月、日本競輪学校に史華は女子5期生として入学した。
化粧と長髪が禁止なことに合わせて、中学で化粧を覚えて以来、初めて化粧しない顔で人前に出た。腰まであった長い髪はばっさりとショートカットにした。運動量を考慮した4000キロカロリー近い食事もしっかりと食べた。
「ノーメイクは嫌でしたけど、ごはんも結構食べてましたよ。今まで太らないように我慢してたのから解放されただけって感じで」
みるみるうちに鍛えられて、翌年3月に卒業式を迎える時には太腿周りは60センチになった。
「モデルだった時のウエストと太腿が同じ太さになっちゃいました」
母の服はもう入らなくなった。
「最近、お母さんを知ってた人たちから言われるんです。お母さんにすごく似てるって」
化粧の上にかいた粒の汗をすっと指ですくうようにして拭う。
「本番もバッチリメイクして走りますよ」
汗と一見不似合いな化粧も史華にかかると、強い光に変わる。
今年もまた母の年齢にひとつ近づいた。
別れ際、ウエディングドレスを着たモデルの時の写真をお父さんが見たことあるかと尋ねた。そして、その姿を見て、お父さんは自分の結婚式を思いだしたんじゃないかとすこし意地悪な質問を続けると、「いやー! それはどうなんでしょうね?」愛らしい声で笑った。
この夏、亀川家から久ぶりに競輪選手が出かけて行く姿が見られる。
亀川史華(かめかわ・ふみか)
1991年、兵庫県神戸市生まれ。大阪美容専門学校卒業。5期生として2016年7月、名古屋競輪場にてデビュー。
伊勢華子(いせ・はなこ)
作家。東京都出身。学習院大学卒業、同大学院修士課程修了。著書に『健脚商売–競輪学校女子一期生24時』、『サンカクノニホン−6852の日本島物語』、『たからものって何ですか』など。
[写真]
撮影:長谷川美祈
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝