「てんぷら 近藤」店主 近藤文夫
「粉をつけて揚げる」。ただそれだけのことに半生を捧げた料理人がいる。なぜ、私たち日本人はそんな「職人」に憧れと敬意を抱くのだろうか。世の中に単に「おいしい」店は星の数ほどある。けれども、もう一度食べてみたいと思わせる店はわずか一握りに過ぎない。私たちは料理そのものの完成度はもちろん、店を切り盛りする主人の人柄や生き様に心を動かされるのだ。とくに客と主人が白木のカウンターを隔てて対峙する日本料理の世界はなおさらだ。この物語は数多の一流料理人が凌ぎを削る東京・銀座で、押しも押されもせぬ天ぷらの「名人」と呼ばれる職人の物語である。生涯で200万尾以上もの海老をひたすら揚げ続けた男の境地とは。彼の人生を決定づけたのは、ある客人から送られた一枚の色紙だった。そこに書かれていた言葉とは?(ライター・中原一歩/Yahoo!ニュース編集部)
火と向き合う平常心
正午。銀座の目抜き通り「並木通り」沿いに建つ瀟洒なビルの9階に「てんぷら近藤」と染め抜かれた暖簾がかかる。待ちかねた客が、続々と天ぷら職人・近藤文夫(69)を囲むように設えられた白木のカウンター席に着席する。
日本料理の親方は、いずれも独特の「気」をまとっているものだ。しかし、カウンターの中央に立つ近藤は、圧倒的な存在感を放ちながらも、客が身構えてしまうような気負いは感じさせない。印象的なのはその立ち姿だ。その背中は、肩甲骨のあたりから上半身がくの字に折れ曲がっていた。それは半世紀もの間「鍋を覗き込み、天ぷらを揚げてきた」姿に他ならない。
「おーい、マキ(車海老)ちょうだい」
その声を合図に、近藤の代名詞でもある二つの天ぷら鍋に火が入る。ひとつですら操るのが大変だと言われる天ぷら界において、二刀流は近藤一人。天ぷらは料理のなかでも最も高い技術を必要とされる。その極意は、食材の旨さを最大限に引き出すための「操鍋術」だ。油とは厄介なもので、温度が少しでも高ければ焦げ、低ければあのサクッとした歯触りは生まれない。
「一般的に野菜は160度。魚介は180度が基本と言われますが、それは安定した温度の油で一人前を揚げた場合のこと。私は一度に16人を相手にするので、ひとつの鍋ではとても追いつかない。食事が始まってしまえば、油の温度をいちいち測ることなんてできませんから」
店では季節を通じて70種類もの食材が登場する。いずれも近藤が日本全国をめぐって発掘した野菜や、毎朝、東京中央卸売市場(築地市場)で吟味した魚介である。食事の最初に出される活きた車海老は、客の顔を見てから初めて殻をむく。天ぷらの花である車海老は、一人前で2尾、供される。一日120尾。これを一人で揚げる。修業時代も含めると、少なくとも生涯で200万尾を揚げた計算になる。
「最初に油に入れた海老と最後に入れた海老。その揚げ上がりをどれだけ均一にできるのか。このわずかな『時差』を克服するのが、職人の腕であり集中力です」
車海老の適温は180度。しかし、それはすべての車海老を鍋に投入した時点の温度だ。つまり、投入前は180度よりも高い温度を保つ必要がある。一度、鍋に食材を投入すれば、油の温度はぐんと下がる。そうなると、どんなに火力を揚げても温度が上昇しないことだってある。低気圧が近づいている時は油が言うことをきかないそうだ。
その上、厄介なのは、魚介にしても野菜にしても、天然の食材は季節や産地によって個体差があるということだ。つまり、油の温度は正確でも、日によって微妙に揚げ上がりが異なる。その個体差を克服するために緻密な計算をすることこそ職人の技術なのだ。
例えば、初夏の訪れを告げる極太アスパラガス。北海道の契約農家で露地栽培されたものだ。近藤は揚げる寸前に、その根元に近い軸の部分を数センチ、わざと「ポキッ」と折ってから揚げていた。
「これはアスパラガスの水分含有量を、その都度『音』で判断しているんです。見た目は同じ太さでも、食材に含まれる水分は耳でしか、そのわずかな違いは分からない。太さと水分を考慮して、揚げる順番を即座に決めるのです」
揚げたてを頬張ると、アスパラガスの熱々のジュースが口の中いっぱいに溢れ、なんともいえない爽やかな香りが鼻にぬける。露地栽培のものは、その穂先の部分がほろ苦く、山菜を彷彿とさせる。春から夏にかけては夏野菜が旬を迎える。ピーマン、賀茂茄子、とうもろこし……。
店にはBGMはないが、その時々に応じて異なる音色を放つ鍋音は聞いているだけで楽しい。高音の「カラン、カラン」。中音の「シャーッ」。低音の「シャワシャワ……」。時には食材同士がジャズの即興演奏のように異なる音色を奏でてスウィングする。
「天ぷらは職人の心の動揺が鍋の音ですぐに分かります。焦っているか、穏やかなのか、迷っているのか。天ぷらは正直なんです。だから、どんなに注文が混雑しても平常心で揚げなければならない。いったん食事が始まれば、鍋に意識を集中させ、途切れることのない油の変化を見極めなくてはなりませんから」
君の顔は和食向きだ−−
昭和41(1966)年、東京・足立区の高校を卒業した近藤は、明治大学の裏手にある「山の上ホテル」に就職した。東京都千代田区駿河台1丁目1番地。駿河台の森に佇むアールデコ調のクラシカルなホテルに足を踏み入れると、表通りの喧噪とは対照的に、清澄な静けさが支配する大人の空間が今も広がっている。
「君の顔は和食向きだな−−」
ホテルの社長の一言で、配属先はてんぷらを主とする和食処に決定した。営業時間は朝11時から夜10時。休憩は一切なし。その上、早番の日には早朝6時に出勤して調理場に入り、宿泊者の朝食の仕込みをしなければならなかった。野球で培った強靱な体力で近藤は日々の仕事に耐えた。現在のように新人社員を育成するマニュアルなどあるはずもなく、先輩の手仕事を見て真似るのが仕事のすべてだった。そして23歳の時に転機が訪れる。
「近藤、おまえが今日から料理長だ」
近藤の先輩が病弱で突然、会社を辞めてしまったのだった。当然、新しい料理長が来るものだと思っていた近藤もこれには驚いた。それまで、人前で天ぷらを揚げた経験はない。近藤が調理長に就任した頃、ホテル内ではこんな言葉がささやかれていた。
「てんぷら部はホテルのお荷物−−」
つまり、当時ホテルにあった他のバーやレストランと比べて売りあげがダントツに低かったのだ。近藤は社長に命じられるまま、駿河台周辺の大学や病院の関係者に挨拶回りに走った。そして、営業時間中は無心でひたすら天ぷらを揚げ続けた。多い日には昼だけで70名の客が押し寄せた。会社からは売りあげのノルマが課せられるなど働き通しだった。休日は数日しかなかったが、その時間を惜しんで「食べ歩き」に出かけた。海外に出かける余裕はなかったので、専ら京都や大阪の料亭や割烹に勉強のために足を運んだ。
当時、人々は大阪で開催された「日本万博博覧会(大阪万博)」に釘付けだった。世界各国の食文化が紹介される中、ロイヤル(現在、ファミリーレストラン大手のロイヤルホストを展開する飲食企業)が手がけた「アメリカ館」のレストランに大行列ができた。それまで一部の富裕層にしか馴染みがなかったフランス料理など西洋料理が、一般の人々に普及する契機となった。
日本人が驚いたのは、その味よりも斬新な運営手法だった。時間と技術を要する仕込みはレシピを元に完全にマニュアル化され、料理は冷凍技術の整った巨大厨房で一気に仕上げる。いわゆる「セントラルキッチン方式」と呼ばれる製造・流通の大革命によって、高品質の料理を大量に提供できる時代がやってきたのだ。
それまでの飲食業は「水商売」と呼ばれ、一部の特別な技術を持った料理人が、半ば徒弟制度的に技術を伝承するものだった。そのあまりにも閉鎖的な世界に集約されてきた飲食業界が、米国からもたらされた合理化・効率化のビジネスの前にあっけなく敗北したのである。
「世の中がこんなに変化しているのに、『江戸前』や『伝統』など古いことを守るだけでよいのか。いつまで経っても、古い仕事しか重視しない天ぷらは、やがて西洋料理などに負けて滅びると思いました」
己の腕で新たな時代を拓く
そもそも天ぷらは、流通や保存の技術が確立されていない江戸時代に誕生した。東京湾で獲れた魚を保存するために、濃い胡麻油で揚げる手法が考案されたと言われている。当時の胡麻油は精製技術も悪く、かえって、その濃い油が時間の経過した魚の生臭さを打ち消したのだ。そんな伝統があるからこそ天ぷらは魚介が主流。それに、胃もたれするほどの濃い胡麻油で揚げるのが当然だった。そこで近藤が目をつけたのが「野菜」だった。江戸前の伝統の世界では、野菜は「精進揚げ」と一緒くたにされ格下の扱いを受けていた。ある時、近藤はホテルの洋食厨房で不思議な姿をした野菜を発見する。当時としては珍しい生のアスパラガスだった。
「この見事な色と香りをそのまま揚げる方法はないだろうか。そうすれば、これまでにない天ぷらができる」
こうして誕生したのが近藤の「水のように薄い衣」だ。当時の天ぷらは分厚い衣が主流だった。厚い衣は、その分だけ油を吸い込み肥大化し、食材の色を奪い、香りと歯触りの邪魔をする。しかし、衣が薄ければ薄いほど、すぐに焦げてしまう。
近藤は十年あまりの研究の末に、この食材が透けて見えるほどの薄い衣を使った天ぷらを完成させる。
アスパラガスと同じ時期に考案したのが「空豆のかきあげ」だ。瑞々しい空豆を20粒ほどの塊にして揚げる。近藤が理想としたのは、空豆の粒同士が、面と面ではなく、点と点でつながっているかいないか。箸で持てばすぐに形を失ってしまうほどの、衣を感じさせない「空気のように軽い」かき揚げだった。
やがて、この野菜の天ぷらはホテルの代名詞となり、近藤のカウンターには若い女性が足繁く訪れるようになった。それまでの「天ぷらは親父の食べ物」という先入観を、近藤は高い技術と斬新な発想で克服することに成功したのだ。
人生を決定づけた一枚の色紙
30代後半になって、近藤は気力、体力ともに充実した日々を送っていた。店の売り上げもうなぎ登り。かつて「ホテルのお荷物」と言われてきた店は、この時点でホテル全体の13%、およそ3億7千万円を稼ぎ出すまでになっていた。メディアの取材も殺到。ホテル内でも近藤のやり方に文句をつけるものは誰一人いなかった。
しかし、ひそかに近藤は「壁」を感じていた。その要因は、自分の天ぷらを食べた客が、帰りがけに口にする「おいしかったよ」の一言だった。料理人である以上、お客様からいただくその言葉は、何よりの勲章であるはずだ。
「旨かった、おいしかったはプロなので当然のこと。その先にいったい何があるのか。自分が何のために天ぷらを揚げているのか、分からなくなったのです」
こうした悶々とした日々を過ごしていた近藤の心に風穴を開けたのは、ある日、ふらりとやってきた一人の客だった。写真家・土門拳。木村伊兵衛と共に戦後日本を代表する写真家である。土門といえば「鬼の土門」の異名で知られ、仕事においては完全主義者として恐れられていた。撮影中は飲まず食わずで被写体と対峙し、鬼気迫る形相でシャッターを押し続ける。そんなリアリズムの鬼がカウンターにやってきたことなど、近藤本人は知る由もなかった。何しろ土門の顔を知る者が厨房には誰もいなかったのだ。この時、すでに土門は車椅子での生活を強いられていた。
「ハゼの天ぷらを召し上がられたのですが、よっぽど気にいって頂いたのか、翌日も、その翌日も、まったく同じ時間に来られて、ハゼの天ぷらを注文されました」
土門拳の書生を名乗る人物が、近藤に渡したいものがあるとホテルに現れたのは、それからしばらく経ってからだ。風呂敷を広げると、それは額に納められた一枚の色紙だった。そこには味わい深い無骨な筆跡で、ある一文字が書かれていた。
「味」
色紙の左側には「文夫様」。脇には「土門」の落款が押してある。なぜ、土門がこの色紙を近藤に送ったのか、その真意は定かではない。ある日、何気なくこの「味」という字を眺めていた近藤は、胸の奥から込みあげてくる衝動を抑えきれなくなり、その場に突っ伏してしまった。
「味という字は、『口』に未来の『未』と書く。そうか、料理人はただうまいものを作ればいいのではなく、一生、その人の口に残るような仕事をしないといけないのか。それが料理というものなのか……」
こうして近藤は、「美しさ、香り、そして『感動』」という今日に通じる自分の天ぷらのテーマを見出す。そして、いつか自分の目指す天ぷらを、誰にも邪魔されることなく伸び伸びと表現したいと願うようになる。近藤の脳裏に「独立」という二文字が過ぎったのは、この直後だった。
「この色紙をなぜ私に届けて下さったのか。それを確かめようと思ったことはありません。その真意がどうであれ、この『味』という文字から何を感じて、どう仕事に活かすのかが重要だと思いました。今思えば、それこそ客の心を読むという、カウンター商売の極意、そのものだったのです」
最後の職人となる覚悟
平成3(1991)年、銀座5丁目の裏路地に「てんぷら近藤」は誕生した。カウンター12席。坪数はわずか9坪。この店を開店するためにかかった費用は敷金1200万円、権利金6500万円。これに内装費用を含むと1億2千万円にもなった。近藤は兄を含む、近藤一家の所有するすべての土地、財産を担保とすることを条件に、銀行から借金をした。
「これで失敗したら離婚を覚悟して欲しい」
ホテル時代に一緒になった妻・春美は、独立に際して近藤にそう言われたことをはっきりと覚えている。それから四半世紀。「てんぷら近藤」は東京・銀座でも有数の予約の取れない店となった。
考えてみると近藤は、粉をつけて揚げる−−。ただそれだけのことに人生を捧げてきた。その覚悟があの立ち姿に現れている。眩しいほどに明るい檜舞台で艶やかに立ち回る歌舞伎役者のように、カウンターにおける近藤の立ち居振る舞いには無駄な所作はひとつもなく、不思議と引きこまれてしまう。この店を訪れる客は、ひとつの道を極めてきた職人の生き様に触れたくてまた暖簾をくぐるのであろう。近藤は今年、69歳になる。それでも自分の持ち場である鍋前を弟子に譲るつもりはない。気力は一段と充実し、まだ見ぬ「新作」の天ぷらの探求に余念がない。当分の間、天ぷらとの格闘は続く模様だ。
「私の好きな言葉に俳人の山本健吉先生の『夢中落花』という言葉があります。生涯をかけて自分の夢を咲かせ、そして、己の持てる技術を次の世代に伝えるまでが仕事だぞ。先生はそうおしゃっているように私には感じます。自分という器の大きさを意識しながら、自分にできる最大限の仕事を通じて相手に貢献する。職人にはその挑戦が必要なのです」
近藤文夫という職人を育てたのは誰だろうか。やはり、近藤をとりまく「人」であったのだろう。
日本には「職人」がいる。それは不器用でも己の手仕事ひとつで時代を切り開いてきた先駆者たちである。今はそんな近藤の傍らに、その生き様を受け継ぐ7人の弟子がいることがなんとも頼もしい。時代は確実にめぐっている。
近藤文夫(こんどうふみお)
18歳で「山の上ホテル」(東京・御茶ノ水)に入り、同ホテル内のてんぷら店「和食てんぷら山の上」で修業を始める。23歳で料理長に就任。以後、20年余り務め、同店の名声を築きあげる。平成3年に独立し、東京・銀座に「てんぷら近藤」を開店。昼は2回転。夜は常に満席という盛況ぶりで、世界各国から「近藤の天ぷら」目当てに訪れる客も多い。『天ぷらの全仕事 てんぷら近藤の技と味』など著作も多数。
中原一歩(なかはらいっぽ)
1977年生まれ。ノンフィクションライター。「食と政治」をテーマに、雑誌や週刊誌をはじめ、テレビやラジオの構成作家としても活動している。著書に『最後の職人 池波正太郎が愛した近藤文夫』『奇跡の災害ボランティア「石巻モデル」』など。
[写真]
撮影:塩田亮吾、鵜澤昭彦
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト 後藤勝