「車いすだろうがなんだろうが、自分のやりたいことに挑戦したほうがいい」。18歳の春、不慮の事故で脊椎を損傷した坂内淳(46)。東京・亀有に、彼が切り盛りするラーメン店がある。おそらく日本で唯一の「車いすのラーメン店」、その誕生までの軌跡を追った。(取材・文:神田憲行/撮影:菊地健志/Yahoo!ニュース 特集編集部)
(文中敬称略、本記事の撮影は2月に行いました)
車椅子のラーメン店主
6月の頭、暖簾をくぐって引き戸を開けると、コの字形の厨房の中に約2カ月ぶりに見る坂内淳(46)の姿があった。
「いらっしゃい」
マスク越しの顔が微笑む。券売機で購入した「淳陛屋特製塩SOBA(全部のせ)」の券を渡すと、さっそく車いすの上半身をせわしなく動かしながら支度に取りかかった。
「どうですか」「いやあ2カ月なのに、体がラーメンの作り方をちょっと忘れてて戸惑いました」と、坂内が笑う。
そんな話をしているうちに、次々と暖簾をくぐって客たちが入りだした。坂内に「お久しぶり!」と声を掛ける客もいる。坂内もどの客にも「いらっしゃいませ」と声を出す。新型コロナウイルスに支配された生活から一歩抜けようとする、新しい掛け声のようだ。
坂内がここ東京・亀有にラーメン店「麺屋 淳陛屋(じゅんぺいや)」を開いたのは2018年11月のこと。恐らく全国唯一、史上初の車いすのラーメン店主として注目を集めた。そこに至るまでの苦労は並大抵のものではなかった。
勤務初日の事故で脊椎を損傷
前が見えないくらいひどい雨が降った夜だった、と坂内は覚えている。高校卒業後に就職した地元デパートでの勤務初日。その夜、坂内の歓迎会が予定されていたが、出発の時間を少し過ぎていた。
激しい雨の中、先輩が運転する車に乗り込むと、車は急発進した。ワイパーで拭っても拭ってもフロントガラスを覆う雨粒、濡れた路面、遅れを取り戻すために出したスピード。S字カーブで車はスリップして回転し、ガードレールに衝突した。坂内の下半身は車のシートと電信柱に挟まれた。脊椎を損傷する大怪我を負った。
自分の脚では一生立てないと医師から宣告されたのは、手術後にリハビリ病院へ転院する直前だった。両親はもっと前から知っていたがずっと黙っていた。
「車いすの生活と言われて、その日から毎日、自殺を考えていました。でも首をつろうとしても立てないんです」
1年の入院生活の後、引きこもり生活が3年続いたという。
「事故の前の自分を知っている人に、もうこの人はダメなんだって思われたくなかった」
外に出るきっかけを作ってくれたのが、坂内が当時付き合っていた女性だった。女性は無理やり坂内をドライブに連れ出した。行き先は東京・新宿にある伊勢丹メンズ館。二人がよくデートした場所だった。到着してもそこの駐車場で、車から降りる降りないで3時間も彼女と揉めた。ようやく乗ったエレベーターでも坂内はうつむいたまま。だがドアが開いた瞬間、好きなブランドの「Paul Smith」の看板が「ほんとうに輝いて見えたんです」。
ラーメンの道を志す
それから坂内は積極的に外に出るようになり、普通に会社で働くこともできるようになった。
しかしそうなってくると、だんだん、生来の社交的な性格が頭をもたげてきて、オフィスワークでは物足りなくなってきた。もともと接客業と食べ歩きが好きで、将来は漠然と飲食店をやってみたいという希望があった。高校を出てすぐデパートに勤めたのもそういう理由からだった。人気のラーメン店に車いすで3時間並んだこともある。
「ラーメン屋をやれないだろうか」
漠然とそう考えだしたとき、縁あって地元・栃木の焼き鳥チェーン店で働く機会を得た。初めての飲食店勤めで、鶏を扱うのが良かった。そのころには鶏ガラのラーメンスープの店を考えていて、鶏の扱いの勉強になると考えたからだ。
受け入れてくれた調理師専門学校
焼き鳥チェーン店の社長は車いす利用者に理解があり、坂内を歓迎してくれた。居心地が良くてそこで6年間、36歳まで働いた。だが、自分がやりたいのはやはりラーメン店だ。
焼き鳥チェーン店を辞めて、今度は調理の基本を学ぼうと地元の調理師専門学校の扉を叩いた。だが県内に3校あるうちの2校で断られた。ここがダメならもう諦めるしかない、と電話をした三つ目の学校で「うちは入学希望者のための無料の講習会が年に30回あるから、まずそれに出てください。その様子で入学を認めるか考えます」と条件を出された。3回目の講習を終えたとき、校長から「学校でやっていけるのがわかった。入学を許可します」と言ってもらえた。坂内はもちろん喜んだが、乗りかかった船という気持ちもあり、予定通り30回の講習会に全て出た。それがのちの学校生活で大いに役立つことになる。
その調理師学校、TBC学院小山校(栃木県小山市)の西洋料理専門調理師の岡本実(68)は最初の講習会で坂内に志望動機を尋ねた。坂内は岡本の目を真っすぐ見て「料理で人を喜ばせたいんです」と答えた。
「もし曖昧な動機なら『やめなさい』と言うつもりでした。やはり車椅子での調理は危険が伴いますから。講習会に参加する人は『人から勧められて』とか『なんとなく面白そうだから』という人が意外と多いんです。だから彼の真っすぐな視線はとても印象に残りました」
3回目の講習会後に入学の許可が下りたのは、岡本の校長への強い勧めがあったからでもある。
「彼は頑張っているし、これからは障がいを持つ人にもそういう道を開くべきだ」
岡本はそう主張したという。
学校の建物が以前は病院で、玄関先の階段に車いす用の小さなリフトを備えてあったのも幸いした。だがそのリフトを動かすには、事務室にある鍵が必要だ。岡本は自分がその都度鍵を持って迎えに行くつもりだったが、坂内から断られた。
「そうは言っても、リフトはどうするんだろう」。岡本は不思議がった。坂内は実際に毎日通学してくる。ある日、窓から玄関を見ていてその「謎」が解けた。坂内が玄関先の階段まで来ると、付近にいた生徒が事務室まで鍵を取りに行っていた。それも1人や2人ではなかった。
種明かしを坂内が笑いながらしてくれた。
「僕は30回講習会に参加したじゃないですか。そこで友だちがけっこうできて、入学した時点ですでに友人がたくさんいたんです。彼らがみんな手伝ってくれました」
「ひとつずつ上達していったタイプ」
どの授業でも坂内は熱心に取り組んでいた、と岡本は嬉しそうな顔で話す。この学校で教えて22年、数多くの生徒を料理業界に送り込んできた。社会に出て伸びる料理人の特徴を尋ねると、「難しいですね」と少し考えてから、「やはりなんでも熱心な人でしょうか」と語った。当たり前の答えのようだが、ちゃんと理屈があった。
「学校に入ったときは、包丁使いが下手でも構わないんです。試験を追試でやっと合格という生徒が、就職して活躍する例はいくらでもあります。彼らは下手でも練習を繰り返して上達した経験を持つ、これが大事なんです。社会に出てもずっと勉強が続きます。繰り返し練習して技術を会得した経験はそこで生きる。坂内君も一個一個の人。ひとつずつ上達していったタイプですよ」
岡本は坂内が店をオープンしたあと、栃木から亀有まで車を走らせて食べに行ったことがある。その日はたまたまアルバイトがおらず、坂内がひとりで店を回していた。
「その姿を見て、これはすごいなと思いましたね。やっぱり坂内君のラーメンに懸ける情熱は嘘じゃなかったと思いました」
特製醤油を食べた。他の客にはない、岡本の胸だけに去来するものがあった。
「ほんとに胸が詰まる想いがしました。いつも笑顔でやってましたけれど、つらいこともいっぱいあったんだろうなって。でもその笑顔を見て、同じような境遇の人が彼の後を追ってどんどんこの世界に来るんだろうなって……なんかもうね、そう思うとね、彼にもこんな話をしたことはないんだけれど……」
岡本はそこで黙り込み、「彼みたいな人に会えたのは私の財産ですね」と震える声で付け加えた。
「師匠」との出会い
1年で専門学校を卒業後、少しだけラーメンチェーン店の製麺部で働いたが、スープの部門で働きたいと言うと「車椅子の人は危ないから」と断られて辞めた。それから病院で事務の仕事をしながら次の修業先を探したが、受け入れてくれる店も人もいない。
「車いすでラーメン店をやるなんて前例がないとよく言われたんですけれど、だからこそ、自分が先陣を切ってやりたかった。車椅子だろうがなんだろうが自分がやりたいことに挑戦したほうがいいよっていう、道しるべになりたいと強く思うようになっていったんです」
「いっそ修業を諦めて独立しよう」と考えて辞表を出した。すると坂内の希望がラーメン屋と知った病院の上司が「いきなり開業って、不安だろう。俺が人を紹介してやるから」とある人物の連絡先をくれた。
それがラーメン店「13湯麺(かずさんとんみん)」店主、松井一之(66)だった。松井は「千葉ラーメン四天王」のひとりと謳われ、多くの弟子も育ててきた名人である。現在は千葉・松戸に5席の小さなラーメン店を営み、年に数回、趣味であるサンバの勉強のためブラジルに長期間渡る生活をしている。こちらが「お弟子さんの坂内さんの件で……」と切り出すと「弟子じゃねえよ!」と強い口調で切り返す。一方で写真を撮ろうとするとサンバを踊り出す。怖いのか面白いのかわからない人物だ。
坂内も当然、松井の名前は知っていた。初対面で「お前、ラーメン屋やんのか」とだけ聞かれた。「はい」と答えると、松井は坂内の顔をじっと見つめて「よし、明日からうちに来い」とだけ言った。
「車いすは気にならなかったですか」と当時のことを松井に尋ねると「いや、大丈夫だよ」「どのあたりで大丈夫とか」「話せばわかるよ」。「でも……」と言いつのろうとすると、松井は面倒臭そうに手を振った。
「そいつが一生懸命なのかどうか、ちょっと話せば伝わってくるんだよ。俺はいっぱい弟子を育てているから。いい加減な奴は伝わってこない。車椅子だろうがなんだろうが、問題ない」
松井が坂内のことを「弟子ではない」と否定してみせたのは、ある種の韜晦、照れ隠しのようなものかもしれない。松井は坂内に並々ならぬ情熱でラーメンを教えていたからだ。
たとえば坂内の参考にするために、全国の弟子たちに「車いすでラーメン屋やってる奴知らないか」と問い合わせていた。いないとわかると、坂内を台湾に連れていった。
「突然電話で『お前、パスポート取れ』と言われて驚きました。台湾で座ったままラーメンを作る店があって、そこの見学に行きました」(坂内)
またあるときは坂内が「スープの作り方を教えてほしい」と言うと、電話をかけだした。相手はある有名なラーメンコンサルタント。そこで教わってこい、ということだった。坂内の耳にも向こうとのやりとりが聞こえてきた。
「うちは入り口に階段があるから車いすの人は無理ですよ」「スロープ造ってやれよ」「そんな! 費用もけっこうかかるんですよ」「いいじゃねえか、俺の顔を立ててくれよ」
メチャメチャなやりとりだが、結局本当にスロープは造られて、坂内はスープ作りを教わることができた。
坂内の店のレイアウトを変えさせたのも松井だ。当初、坂内は客席から簡単に見えない厨房を想定していたという。だがオープン前に視察した松井が「お前が一生懸命ラーメンを作っているところをお客さんに見てもらうことも大事なんだ」と、客席から厨房が見えるように変えさせた。
「いまどきうまいラーメンなんか小学生でも作れるんだよ。プロが作ってお金をもらうには、ラーメンの丼のなかに自分の想いとか、人生が入っていないといけない。そこを隠してどうすんのか」
「キッチンが丸見えだから、いい加減な仕事はできない。時間はかかってもいいから、一杯一杯、丁寧に作りなさいと奴には言った。たとえば1日100杯のラーメンのうちひとつ失敗したとして、作る側からしたら100分の1、1%の失敗だけど、食べる側からしたらそれが店の100%なんだよ。大切なお客さんに食べてもらうものだから、どれもちゃんと作らないといけない」
師匠の教えを守る
その松井の教えは、たしかに守られていた。
客がいる営業時間中に店を訪れた。券売機で買った券をテーブルに置いて、待つこと10分、15分、まだラーメンが来ない。それどころか先客のところにも来ていない。クレームが出るのではとヒヤヒヤしていたが、客側は携帯を見つめるなど気にもしていないふうだった。その間坂内は麺を茹で、丼にスープを張り、トッピングを載せることまでひとりでやっていた。
「チャーシューを一枚ずつ巻いてトッピングしていくと、どうしても時間がかかるんです」
坂内が使っているのはローズ色の柔らかい「レアチャーシュー」と呼ばれるものだ。
「お客さんから、普通の硬いチャーシューを使えばアルバイトさんでもトッピングできるのではと言われたことがあります。でも私はレアチャーシューにこだわりたいんですよ」
それに、と坂内は言った。
「一杯ずつ丁寧に作りなさい、という師匠の教えが私の胸に刻まれています。時間がかかることは、お客さんも分かってくださっています」
オープン当初は客足が伸び悩んだが、徐々に味の良さが口コミで広がった。さっぱりした、鶏ガラ出汁をメインにした昔ながらの「中華そば」風のスープと、トレンドのレアチャーシューの組み合わせは、ラーメンファンから「ネオ・クラシック」とも評されるという。
常連客もできて土日に出ていく丼の数が2倍に増えて軌道に乗り出したタイミングでの、新型コロナウイルスだった。坂内は悩んだすえ、4月12日から休業を選んだ。
「経営的には痛かったです。でも休んでいる間に醤油だれをバーションアップする研究など、ラーメンと向き合うことができました。この休みは無駄ではない、と思わせるラーメンを作りたい」
坂内は取材中ことあるごとに「僕は本当に人に恵まれました」と感謝する。調理師学校の岡本、師匠の松井、坂内のために手を差し出した人は他にも大勢いる。だがそれは「恵まれる」という偶然なのか。坂内の情熱に打たれ、むしろ「車いすのラーメン店」へ向け一緒に夢中になったのではないか。坂内が知らず知らず巻き込んでいた気がしてならない。
初めて坂内の店を訪れたときのことだ。取材が延びて夜の営業の開始時間を20分ほど過ぎてしまった。店の扉を開けて表に出ると、ひとりの男性が路上にたたずんでいた。男性は坂内が「営業中」の札を掛けるのを見て、店内に吸い込まれていった。寒い中、他に店はいくらでもあるだろう。でも客はずっと路上で待っていた。そうしてでも食べたいラーメンが、ここにはある。
神田憲行(かんだ・のりゆき)
1963年、大阪市生まれ。関西大学法学部卒業。大学卒業後、ジャーナリストの故・黒田清氏の事務所に所属。独立後、ノンフィクションライターとして現在に至る。主な著書に『ハノイの純情、サイゴンの夢』『「謎」の進学校 麻布の教え』、最新刊は将棋の森信雄一門をテーマにした『一門』(朝日新聞出版)。