障がい者雇用が進むなか、学校の先生にも障がいのある人が増えている。この10年ほどは毎年60人ほど採用されている。エレベーターやだれでもトイレの設置など校舎のバリアフリー化は進んだが、通勤や介助で悩む人は多い。車いすと全盲の先生を取材し、課題を探った。(取材・文:長瀬千雅/撮影:後藤勝/Yahoo!ニュース 特集編集部)
「どうやって通勤するんですか?」
生徒たちのあいだを電動車いすが滑るように移動していく。1年生の教室の前まで来ると、近くにいた生徒が気づいて引き戸を開けた。車いすに乗っているのは三戸学さん。秋田県の町立五城目第一中学校の教諭だ。
生徒に「ありがとう」と声をかけて中へ入ると車いすを止めて、歩いて教壇へ向かった。足を踏み出すごとに大きく体が揺れる。三戸さんは生まれつき脳性まひで、四肢に不自由がある。
「起立。これから1時間目の勉強を始めます。お願いします」
「はい、お願いします。今日は最初に計算テストをやります」
三戸さんがプリントを取り出すと、一人の生徒がすっと立ち、代わりに配った。「ありがとね」。三戸さんが礼を言う。テストは5分間。三戸さんは体を揺らしながら生徒たちの様子を見てまわる。隣同士で交換してその場で採点。三戸さんが大きな声で答えを読み上げる。話すときに力が入るので多少不明瞭なところがあるが、生徒たちは問題なく聞き取っていく。
三戸さんが同中学校に赴任して半年間、校長と教頭に自家用車で送り迎えしてもらって通勤していた。自宅のある八郎潟町から中学校まで約6キロ。障がいがあるため車は運転していない。タクシーを利用すると毎月約8万円かかる。
「2019年2月に内々示が出たときに、どうやって通勤するんですかと県の教育庁の方に聞いたんですが、保留にされたんです。3月半ばになっても話し合いが進まないまま人事異動が決まりました。そのあとで県教委は、同僚の送迎ボランティアで通勤してほしいと言ってきたんです。でも、同僚といってもみんな忙しいし、手当が出るわけでもない」
結局、管理職である校長と教頭が交代で送迎することになった。三戸さんは「感謝はしていますが」とした上で、こう話す。
「毎朝、会社の社長が迎えに来るようなものですよ!? もう、緊張して。校長や教頭に申し訳ないし、精神的にしんどかったです。同僚の送迎ボランティアを前提にした異動はやっぱりおかしいと思いました」
校長や教頭からすれば、他の教員にボランティアを強制するわけにはいかない。鷲谷真一校長はこう話す。
「私も教頭も、三戸教諭と同時に赴任したんです。その時点では、通勤に関する合理的配慮が十分でなかった。しょうがないという気持ちも正直ありましたが、管理職とすれば先生たちが働きやすい職場環境を整えることが大きな仕事だろうと考えているので、送り迎えをしました。彼を送っていくと往復30分かかるんですが、教頭は『いい気分転換をすることにもなる』なんて言ってくれていました」
鷲谷校長は「他の教職員に対しても、事情のある人は定時に帰れるように仕事を分担するなど、配慮しています」と言う。しかし、毎日のこととなると負担が大きい。
三戸さんは2019年6月に、異動の取り消しまたはタクシー通勤手当の支給を求めて、県人事委員会に審査請求を行った。その理由を「これから障がい者雇用が増えていく中で、『ボランティア=支援』ではないんだということを社会的に確認したかった」と話した。
この請求が実を結び、同年10月に人事委員会から通勤手当の運用改正の通知が出された。教員を含めた秋田県職員で、障がいのために歩行することが著しく困難な人には、通勤時のタクシーまたはハイヤーの利用が認められることになった。上限は月額5万5千円、超過分は自己負担でまかなう。「それでも」と三戸さんは言う。
「一歩も二歩も前進だと思います。通勤手段は、交通網の整わない地方で働く障がい者にとって共通の課題なんです。特に教師は定期的に職場が変わっていきます。そういった中で障がい者が働く環境をどう整えていくかは、大きな課題だと思います」
生徒から見た「障がいのある先生」
三戸さんは2000年に23歳で秋田県の教員採用試験に合格した。全国の採用者約1万2600人のうち、障がい者は3人だった。
2001年4月、秋田市立土崎中学校に数学科教諭として正式採用された。受け持ちは1年生と2年生のクラスで、週18時間。コンパスや三角定規を使うのが苦手な三戸さんは、生徒に板書をしてもらうなど、自分なりの教え方を模索していった。
教え子の佐々木美香さん(31)は、中学1年で出会った障がいのある先生に、「はじめは戸惑った」と言う。
「小学校のとき同級生に障がいを持っている子がいたので、そのこと自体に戸惑いはなかったんですけど、先生となると大人なので、どう接したらいいんだろうというのがピンとこなくて。生徒の身で心配してもいいのかなとか、その度合いが最初はわかりませんでした」
当時、土崎中学校にはエレベーターがなかった。三戸さんは助けがないと階段を上り下りできない。佐々木さんはこう振り返る。
「三戸先生の『肩貸してけれ』という声をよく覚えています。階段とか段差のあるところの近くにいたら、『あ、先生だ』みたいな感じで、誰かが肩を貸していました。必ず『ありがとう』と言ってくれました。三戸先生に肩を貸した思い出をみんな持っています。だから、担任ではないのに、三戸先生のことは覚えているんです」
そのうちに障がいのことは気にならなくなった。
「授業中にざわついたときとか、怒ればみんなぴりっとする。数学を教わるにあたっても、全然問題はありませんでした。言葉が聞き取りにくいときは、生徒のほうから『もう一度言ってください』って。教えることと障がいがあることは関係ないんだなって思うようになりました」
三戸さんは、教える喜びをこう語る。
「本当に子どもたちに感心するのは、僕の話を聞いて数学を理解するんですよ。方程式が解けるようになっていくんです。その姿を見るのが本当にうれしい」
「通勤」「介助」に対する不安
「障がいのある先生」が全国にどれぐらいいるか、正確な数はわからない。2018年に実施された教員採用試験の採用者3万4952人のうち、障がい者は51人だった。
データがある2001年度以降に限れば、17年間で917人の「障がいのある先生」が採用されている。これに加えて、2000年度以前に採用された人や、教員になってから障がいを持つようになった人がいる。
文部科学省は2019年4月に公表した「障害者活躍推進プラン」に、「障害者の教員採用促進」を盛り込んだ。人数を増やすだけでなく、障がいのある教員が働きやすい職場環境を実現することがうたわれている。
また、それまでは全国の教育委員会のうち半数が、教員採用試験の受験資格に「自力通勤が可能であること」「介助者が不要であること」という条件をつけていたが、「そのような要件を課すことは不適切」と明示した。
今後、「障がいのある先生」は増えていくと予想される。しかし、通勤や介助をどのようにサポートするのかは明確になっていない。
三戸さんの場合は、通勤に関する合理的配慮の提供が欠けたまま、異動を命じられてしまった。
全盲の教員が教壇に立ち続けられた理由
介助も同様だ。今でこそ改善指示が出ているが、これまでは「介助者なしで仕事ができること」が教員の条件だった。では、障がいのある教員たちは、どのようにして長年業務をこなしてきたのだろうか。
新潟県の高校教諭、栗川治さん(60)は、教師になって5年目の27歳のとき、網膜色素変性症で急速に視力が低下し、失明した。しかし、今年3月に定年を迎えるまで倫理社会の教員として教壇に立ち続けた。それが可能だった大きな理由は、常勤の「アシスタント教員」のサポートを受けられたことだった。
「アシスタント教員」とは、栗川さんのサポートをすることを主な業務として特例で配置されている教員のことである。しかし正式には、2人以上の教員がチームを組んで生徒を指導する「ティーム・ティーチング」の名目で加配されている。
公立学校の教員定数は法律で定められている。基礎定数とは別に、ティーム・ティーチングや生活指導などの目的で、追加で配置されることを「加配」という。加配の目的に障がいのある教員のサポートは入っていない。栗川さんは「いわば既存の制度を流用している」と指摘する。
栗川さんは1982年から新潟の高校で非常勤講師として教え始め、1984年に教諭になった。1987年に27歳で見えなくなり始めたときは、自分に障がいがあることを認めたくなくて苦しんだ。
「困ったのはテストでした。生徒に薄い鉛筆だと見えないから濃い鉛筆で書いてとか、サインペンで書いてとお願いしたり。採点は拡大読書器を使ったりしてやっていたんですが、どんどん見えなくなっていって。同僚に採点を手伝ってもらったこともありました」
1988年から県立新潟盲学校に勤務した。社会科を教えながら、点字や音声パソコンを習得し、白杖を使った歩き方を身につけた。盲学校は働きやすかったが、その快適さにかえって違和感を抱くようになった。
栗川さんは「障がい者を隔離するのではなく、障がい者がいるのが当たり前の社会にしたい」と考えて、教育委員会に普通高校への転勤希望を出した。希望はすんなりとは通らなかった。
「当時は『障がいがあったら教師は無理だ』というのが社会通念でした。事故で障がいを持ったためにやめさせられたり、病気で定期的な通院が必要だから勤務を減らしてくれと言っても聞き入れられなかったり、いろんな問題が起きていました。当事者団体ができつつありましたが、なにせ数が少ない。無理をして過労で亡くなった方もいます。そういう先輩たちのあとにぼくらがいます」
校長や教職員組合から働きかけてもらったりして、ようやく1993年に普通高校への転勤が決まった。同時に常勤のアシスタント教員が配置された。
「現実にはいろんなサポートが必要なわけです。まわりはみんないい人たちだから、短期的には助けてあげようという気持ちはある。だけど、その人の負担を軽くした分、たとえば年間通して週3時間授業が増えましたとなったら、『ただでさえ忙しいのにあの人のせいで余計な仕事が増えた』となるでしょう? 『現場で助け合ってなんとかしてね』ではダメなんです」
音声パソコンに点字プリンター…ハード面での工夫と配慮
1月下旬に県立新潟西高校を訪れた。
栗川さんは、昼休みの時間を利用して、顧問をしているボランティア部の活動報告を作成していた。パソコンを使うときはイヤホンをする。音声読み上げで入力するからだ。試しに聞かせてもらうと、読み上げのスピードがものすごく速い。「もっとゆっくりもできるんですけど、まどろっこしいので」
授業開始5分前。栗川さんは教室に移動した。白杖は使わず、床に貼った古いLANケーブルを点字ブロックがわりにして歩いていく。
板書の代わりに、その日の要点をスクリーンに映しながら授業を進めていった。テーマはカントからヘーゲルへとつながるドイツ哲学である。話の途中で、生徒に教科書を開くように指示した。
「157ページぐらいかな。『弁証法』の図があると思うんですが」
そう言いながら、手元のファイルを触る。教科書を点字化したものだ。すぐに見つからず、行きつ戻りつする。生徒の一人が「153ページです」と発言する。栗川さんの指が図を探し当てる。
「153ページの上のほう。正-反-合と書いた図があるかな。その図を見ながらこのあとの話を聞いてください」
教科書の点字化は点訳ボランティアに頼んでいる。新潟西高校に赴任して2年目に点字プリンターを導入してもらった。点訳ソフトと合わせて約200万円。ボランティアからデータが送られてくると、点字プリンターで出力する。教科書は毎年なにかしら更新があるから、前年度のデータと突き合わせながら、基本的に全ページを点訳し直す。資料集や問題集もすべて点字化するので、作業量は膨大だ。
「毎年、年度のはじめは本当に大変でした。でも生徒が持っているのと同じものを点字で持っていることが大事ですから」
毎朝車いすを押してくれる生徒
授業は、ごくふつうの高校の授業と変わりなかった。終礼のチャイムが鳴ると社会科係の生徒がやってきて、プロジェクターの電源を切り、スクリーンを巻き上げる。
栗川さんは、自分と生徒との関係をこんなふうに語る。「生徒からすると、自分に必要な指導と支援さえちゃんとしてくれれば、ぼくに障がいがあってもなくてもあんまり関係ないと思うんです」
この言葉は、三戸さんの教え子だった佐々木さんの言葉と一致する。教えることと障がいは関係ない。栗川さんはこう続ける。
「一般的に、健常者と障がい者は、お世話する側とされる側として出会うわけですが、先生と名がつくと、その関係が逆転するわけです。医師や弁護士もそうだと思いますが、障がいのある先生は、ケアされる一方で、ケアを提供することが求められる。だからおもしろい」
生徒にとって、障がいのある先生は大人なのに、ある面で自分より弱い。先生の世話をすることに役割を見いだす生徒も出てくる。栗川さんはこんな思い出を語る。
「朝、バスを降りると、『私が誘導します』みたいな感じで、待っている生徒がいましたね。卒業するまで続きました。本当は点字ブロックがあるから歩けるんですけど、『ありがとう』って。大雪の日は助かった〜と思いましたよ」
三戸さんのいる五城目一中でも、早朝、三戸さんが乗ったタクシーが学校に着くと、一人の生徒が待っていた。
「彼は支援学級の生徒で、毎朝待っていて、車いすを押してくれるんです」
栗川さんは、障がい者が教員をする意味をこう語った。
「障がい者福祉の観点では、どうケアを厚くするかということが語られてきました。でも、障がいを持っている人が働くということには、いろんな意味があるわけですから。いまだに多くの人が『障がいがあったら教師は無理だ』と思っているけど、やりたい、やれるという人が増えて、適切なサポートを受けられるようになってほしいと思っています」
長瀬千雅(ながせ・ちか)
1972年、名古屋市生まれ。編集者、ライター。