Yahoo!ニュース

稲垣謙一

震災から未来をつかめ――もう被災地とは言わせない、宮城県女川町がアイドルと挑む「明るい復興」

2020/03/11(水) 08:27 配信

オリジナル

「被災地」という言葉を乗り越えようとする、人口6400人ほどの町がある。2019年からアイドルイベント「ONAGAWACK」を開催する宮城県女川町だ。ステージライブに加え、町ぐるみでファンと交流し、ときにはアイドル自ら商店で売り子もする。そんなイベントが始まった背景には、若手を中心に復興を進めてきた町の姿があった。(取材・文:宗像明将/撮影:稲垣謙一/Yahoo!ニュース 特集編集部)

60歳以上は口を出さない

「若い人来て、うれしいと思うベよ。町が潤って。素晴らしいことだよ」

宮城県女川町で水産加工品の製造・販売をするマルキチ阿部商店を営む阿部すが子さん(73)は、そう言って目を細める。その周囲を、阿部さんの孫ぐらいの世代の若者たちが楽しそうに通り過ぎていく。時折みぞれが降る寒さのなかでも、その足取りは軽い。

「まず寂しいんだよ、海見えねえと」と語る阿部すが子さん。女川町の海とともに生きてきた

2020年2月9日。前日から、町は人口の倍以上の来訪者に沸いていた。2日間にわたるアイドルフェス「ONAGAWACK FUCKiN' PARTY 2020」の開催によるものだ。BiSH、豆柴の大群などのアイドルが所属する芸能事務所・WACK主催で、初日の2月8日はWACKの全アイドルが出演するライブを、2日目の2月9日は町ぐるみで行うアイドルとの交流イベントを実施。両日あわせて、1万5000人以上が女川町に集まった。

女川町は東京から約350キロ、仙台市から約50キロの距離に位置する(図版製作:EJIMA DESIGN)

阿部さんは20歳で結婚してから53年、女川町で暮らしてきた。その「日常」が一度途切れたのが、2011年3月11日。町は、東日本大震災による津波で大きな被害を受けた。マルキチ阿部商店の社屋、工場設備なども、津波がすべて押し流した。

町の建物の被災率は80%を超え、住民の10人に1人が亡くなった。沿岸部にあった女川駅も、駅舎や列車ごと流された。

あれから9年。新駅舎は約200メートル内陸に移動し、駅から港までの一帯には4~9メートルほどのかさ上げが施された。その地に、女川駅前商業エリアも新設された。だが、通常なら沿岸を覆うはずの堤防の姿はない。

女川駅前商業エリアの中央のプロムナードからは女川湾の海が見える

実は、女川駅前商業エリアに新築された建物の多くは平屋の木造で、津波が来たら流される前提となっている。「60歳以上は口を出さない」ポリシーで若手を中心に復興を進めてきたがゆえの、「割り切った」対応がスピーディーな復興を可能にした。「ONAGAWACK」開催も、その成果の一環といえるだろう。

「ONAGAWACK FUCKiN' PARTY 2020」初日ライブのフィナーレは全出演者がステージに

「ONAGAWACK」の発端は、2012年にさかのぼる。

震災後に設立された臨時災害放送局「おながわさいがいエフエム」に、高校生の女の子から手紙が届いた。局で流したアイドルグループ・BiSの楽曲「太陽のじゅもん」を聴いたところ、津波の犠牲になった友達の言葉を思い出したという内容だった。

じゅもんじゅもん太陽のじゅもんで
いたいいたいの飛んでこい
きみの痛みがしりたいの
いたいいたいの飛んでゆけ

――BiS「太陽のじゅもん」

これをきっかけに、町へBiSを招くべく動いた人物がいた。かまぼこ屋・蒲鉾本舗高政を経営する高橋正樹さんだ。町のイベントのステージ責任者も務めていた高橋さんは、2012年の「おながわ秋刀魚収獲祭」にBiSを招く。そのマネージャーが、現在WACKの代表を務める渡辺淳之介さんだった。

以来、女川町のイベントにはBiSと関連したアイドルが出演するようになり、そのうねりはやがて1回目の「ONAGAWACK」へとつながっていく。

人口は全盛期の3分の1に

女川町は、人口が約6400人の町だ。全国でも有数のサンマの水揚げ量を誇る港町として栄えてきた。最盛期の1960年代には人口が2万人近くに達したが、徐々に減少。80年代に女川原子力発電所が建設された後も人口減に歯止めはかからず、震災の日を迎える。

「ONAGAWACK FUCKiN' PARTY 2020」初日のライブでは、冒頭で渡辺さんと須田善明・女川町長が登場。須田さんは、WACKのアイドルたちが女川町から全国ツアーを開始することに触れて、「東京は人口8桁、ほか7桁、ここは4桁ですからね」と観客を笑わせた。

挨拶に立ったWACK代表の渡辺淳之介さん

須田町長は「ONAGAWACK FUCKiN' PARTY 2020」のTシャツを着て登場

女川町は、2018年に日本創成会議が発表した消滅可能性都市で2位に挙げられている。当時、完成したばかりの町役場の町長室で、須田さんは「さもありなんですよね」と笑い飛ばした。

「昭和40年代初頭に1万9000人ぐらいいて、震災の当日には1万14人に減っていて。そもそも半世紀で半分近くに減っている。『すいません、この50年、先輩方は何やってきたんですか?』って。ずっと放置してきた結果なんです。女川町は突出して見えてるだけで、実は人口減少は日本全体の課題なわけですよ。だからこそ、減るっていうことを冷静に捉えながら、どうやって地域を維持していくかのほうがよほど大切なんです」

「『明日のことも考えられない』っていう皆さんが大勢いらっしゃるなかで進まないといけない。何年後か、その人たちが顔をふと上げたときに、『こんなに変わっちまったよ』っていう声だってあるだろうし、『こんなふうに変えてくれたんだ』っていう声もあるかもしれません。ただ、皆さんが『一歩、踏み出してみようか』って感じてもらえるように、と思ってやってきました」

「楽しい」と「嬉しい」がすべて

ライブの熱狂は続く。そんななか、WACKのアイドルのひとり、GANG PARADEのヤママチミキさんが女川町の思い出を語り出した。2015年に初めて来たときのことだ。

「女川に初めて行こうって思ったときは、ちょっと心構えをして行ったんです」

GANG PARADEのヤママチミキさんが初めて女川町に来たのは、アイドルになる前のことだった

彼女の祖母の家は、女川町から30分ほどの場所にある。震災当時の悲惨な状況を何度も見ていたのだ。

「でも、実際女川に行ってみたら、そういう情報全部、吹っ飛ばしたような気持ちになるくらい、めっちゃ元気で、笑顔でいっぱいだったんです。そのときに『この町はなんて強いんだろう、めちゃくちゃ格好いいじゃん』って思って」

GANG PARADEの「UNIT」という楽曲の終盤では、メンバーもファンも肩を組んで揺れる。車いすで見ていたファンの肩を、隣のファンが抱き、一緒に揺れていた。

「UNIT」を歌うGANG PARADE

蒲鉾本舗高政の高橋さんは、超満員の会場の一角で目に涙をためていた。この日、WACKの選抜メンバーが披露した新曲「ON A GOT WORK」の歌詞に感動したのだ。

楽しいと嬉しいがすべて

――ONAGAWACKSTARS「ON A GOT WORK」

「ON A GOT WORK」を歌うWACKの選抜メンバー・ONAGAWACKSTARS

「なんでこんなにわかってくれてるんだろうって。僕らは、これだけひどい目に遭ったから、これから起こる出来事って、もう全部楽しいこととか、嬉しいことばっかりが欲しい。『楽しいと嬉しいがすべて』なんですよ。被災地って、腫れ物に触る気持ちもあると思うけど、『女川ってこういう場所だよね』っていうのをストレートに伝えてもらった歌詞で、最高のプレゼントです」

涙をぬぐう高橋さん(左)と渡辺さん(右)

渡辺さんは、得意げに「僕の歌詞なんですけどね」と言って観客を笑わせてから、女川町を「被災地」とみなしていないと付け加えた。

「なんか震災の町に来てる感覚っていうよりは、普通に俺も遊びに来てる。うまい飯を食いに来てるのと、あと酒飲みに来てるんで」

震災をきっかけに生まれた「ONAGAWACK」だが、8年にわたる関係性は、従来の「被災地と慰問」の関係性とはまったく異なるイベントを生みだしていた。

「被災地」ではなく「女川」であることに意味を持たせたい

2日目の交流イベントは、朝10時の「かくれんぼ」で幕を開けた。女川駅前商業エリアの建物に隠れたアイドルを見つけると、ファンは一緒に写真を撮れるというものだ。実質的には無料の撮影会で、このためだけに女川町を訪れた人も多かった。

また、アイドルとファンが一緒にさまざまなアクティビティーを体験するイベントも用意された。女川湾周遊クルーズや海鮮丼作りなど、港町という場所を生かした内容も盛り込まれている。

船に乗り込む前のBiSHのアユニ・Dさん(左)とアイナ・ジ・エンドさん(右)。港には寒風が吹きつける

BiSHとファンを乗せた船は女川湾へ

ファンの石鹸づくりを見守る、豆柴の大群のミユキエンジェルさん

やがて、町民バンド・NEMPiREの演奏が野外で始まった。町長自らギターを弾いてWACKの楽曲を演奏する。盛り上がりを見せる来場者たち。その様子を、アイドルたちも見守っていた。

ギターを弾く須田町長

さらに、さまざまな店舗で、アイドルたちが販売を手伝う姿も。東京や大阪のライブでは優に1万人以上を動員するBiSHのメンバーから、直接商品を手渡してもらえる思わぬ特典に、ファンが列をなしていた。

BiSHのセントチヒロ・チッチさん

BiSHのハシヤスメ・アツコさん

「被災地」という言葉からの脱却を目指してきたと、高橋さんは語る。

「やっぱり『被災地』が文脈の一番最初に来ちゃう部分は否めないです。でも、それは前提じゃなくて背景。僕らがやりたいのは、被災から立ち上がることではない。どういう町になりたいかとか、どういう未来が欲しいかっていうモチベーションで前に進んでいるんです」

路上で高橋さんと話していると、さまざまな音楽や、人々の歓声が聞こえてくる。その光景は、高橋さんたち女川町の人々が目指してきたものだ

震災以来、「親を亡くした子供はいないか」といった、「お涙ちょうだい」を求めるメディアからの打診が多くきたという。高橋さんたちは、メディアから押しつけられる「被災地」のイメージに抗ってきた。

「女川って、本来はどこにでもある漁村なんですよ。でも、ちゃんと自分たちの良さを伝えて、セルフプロデュースすれば、ちゃんと伝わるなって。高齢化ってどこでも進んでるじゃないですか。でも、ここに人が集まる理由があるっていうことになれば、『女川』の意味があるんです」

女川駅前商業エリアのプロムナードでは、「ONAGAWACK FUCKiN' PARTY 2020」のフラッグがはためいていた。


3.11 震災と復興 記事一覧(19)