「不登校の過去は取り戻せない。人がしなくてもいい苦労をすることはある」。かつて不登校を経験し、フリースクールに通った男性は言う。不登校児童の貴重な受け皿となっている「フリースクール」に高校卒業まで通う子も少なくない。出身者はどのような進路を選ぶのだろうか。過去の経験に向き合い、力強く人生を歩む4人の軌跡を取材した。(ライター:西所正道、撮影:鈴木愛子/Yahoo!ニュース 特集編集部)
フリースクールでの出会いが仕事に
ギター修理職人の嘉山俊樹さん(26)は、かつて入り浸った音楽室に入ると、懐かしそうに周囲を見渡した。
「この部屋での濃い時間がなければいまの仕事はしていなかったですね」
埼玉県越谷市にある「りんごの木」というフリースクール。嘉山さんは、中学から通信制高校卒業までの計5年間、ここに通っていた。とくに音楽室は毎日のように時間を過ごした場所だ。
小学5年のころ、不登校になった。理由は覚えていないが、集団生活にはなじめなかった。親は「自分の人生は自分で決める」という基本姿勢で、学校に行けとは言わなかった。ただ、行く場所もなく、それから3年間、家にいた。
中学2年になって間もなく、りんごの木に行ってみないかと、親に誘われた。通い始めると、自分と同じ鉄道オタクがいて、すぐになじめた。列車が走る風景を模型でリアルに再現したジオラマを、彼と一緒につくった。
りんごの木に通い始めて2年ほど経ち、音楽に目覚める。バンドを組み、最初はドラムをたたき、その後エレキギターに挑戦した。毎日のように朝から音楽室の予約を入れ、夕方まで入り浸った。曲はビートルズからアニメソングまで幅広く演奏した。
通信制高校の卒業を目前にして進路を考えたとき、嘉山さんにはある答えが浮かんだ。
「ジオラマをつくったりする細かい手仕事、それとギターをずっと触っていられる仕事、大好きな両方を掛け合わせた仕事を考えたとき、ギター修理がいいと思いました」
2年課程の専修学校で、ギター製作と修理の勉強を始めた。ギターに触れる毎日は楽しく、1日があっという間に過ぎていった。21歳のとき、楽器店の修理部門に就職する。最初は仕事のスピードに追いつくのがやっと。
「ボロカス言われました」
ただ、辞めたいとは一度も思わなかった。悪い状態で持ち込まれた楽器を直して、顧客の手元に届けられたときの達成感はかけがえのないものだった。
「学校に行っていたら面白かったかもしれないと思うことはあります。でもフリースクールは、学校ではあまり出会わない人との出会いがあります。それが自分一人では気づかない能力を引き出してくれる。そこが面白いところですね」
嘉山さんは、今も気が向くとりんごの木に立ち寄る。
子どもが安心して過ごせる居場所
日本では、学校教育法1条で定められた「学校」以外で義務教育を受けられないことになっている。フリースクールをはじめとする「学校以外の場」は、義務教育の枠の外にある存在だ。
文部科学省の「小・中学校に通っていない義務教育段階の子供が通う民間の団体・施設」の調査報告書(2015年)は全国474の団体・施設を対象にしている。報告書によると、フリースクールは「不登校の子供を受け入れることを主な目的とする団体・施設」。位置づけは学習塾に近い。前記の調査(319団体・施設からの回答)によれば、フリースクールなどの活動内容は、個別学習が87%、音楽や美術などの芸術活動が77%、スポーツ体験が76%。授業形式の学習を採り入れている施設は43%だった。
この調査を担当した、元文部科学省フリースクール担当官の亀田徹さん(現・LITALICO研究所主席研究員)は言う。
「高校以上には通信制などさまざまな選択肢があるが、小中学校で不登校になった子どもたちを支える選択肢が不足している。フリースクールも都市部に集中していて、地方ではアクセスしづらい。子どもたちの居場所や学ぶ機会を確保していく必要性は高いと思う」
東京都北区にあるフリースクールの草分け的存在「東京シューレ」を訪ねた。ここにはクラスもカリキュラムもない。壁には曜日ごとの時間割があり、勉強の時間やダンスの時間などが設定されているが、その時間割は子どもたちが話し合って決めている。参加は自由。ゲーム、読書など何をしていてもいい。東京や千葉に四つのスクールがある。
東京シューレ事務局長の中村国生さんは言う。
「ここでは、気持ちが落ち着かないのならゲームをやってもいい。そうしたあり方が認めてもらえるという実感が大事。安心して過ごせる居場所があれば、とげとげしていた子も次第に穏やかになってきますからね。そうして初めて他の人がやっていることに関心を向けたり、新しいことをやってみようかという気持ちになったりする。そのなかで自分のやりたいことに気づいていく」
いい意味での開き直りができた
学校に行けなくなった直後というのは、精神的に混乱したり、傷ついたりしている。心のケアを含めて、その状態から回復しなければ、次の目標は見えてこない。そんなときの「居場所」としての機能がフリースクールにはある。
岩田野花さん(28)が、学校に行けなくなったのは小学4年のとき。
「勉強も人間関係も、学校生活をみんなと一緒にやっていくのが難しかった。学校には行かなければと思って通学していましたが、あるときプツンと切れて行けなくなった」
東京シューレ(新宿)は、親が見つけてきた。初見学で緊張しながらドアをあけたとき、小学生を肩車したスタッフが「こんにちは」と挨拶したのが新鮮だった。初対面の人ばかりなのに、話していて楽しかった。
「学校から離れられたのはよかったけど、『この先どうするの?』と親に言われ、不安でしたね。でもシューレに来たら『ここにいていいんだよ』といわれたような気がした。それぞれのペースで過ごしている子たちと出会えて同じ時間を楽しめたこと、私たちのことを長いスパンで考えてくれる大人がいたこと、私のスピードに合わせて待ってくれる大人の存在が大きかったかな。学業に励んで、成果を上げるという、世間一般の効率主義的な価値観から切り離されたなかで時間を過ごせた。そういう環境での7年があったから、“焦っても、どうにもならん”と、いい意味での開き直りができたのだと思います」
岩田さんは、高等学校卒業程度認定試験(高認)に合格したあと、写真専門学校に進む。しかし、就職したのは、専門学校時代からアルバイトをしていた八百屋さん「くにたち野菜 しゅんかしゅんか」。
接客業が自分に向いていると思ったからだ。
「私、“エピソード記憶”は割と得意で。うちは常連さんが多いので、それぞれのお客さまが以前何を買ったか、どんなお話をなさっていたかをお客さまの顔を見ると思い出せるんです。何を買えばいいのか迷っていたら、過去に買ったものから推測して、私が薦めちゃうこともある。相手も自分のことを覚えてくれていると嬉しいと思うからか、会話も弾むんです」
学校のレールから外れて
「不登校新聞」の編集長をしている石井志昂さん(37)は、自身も不登校経験者だ。最初に東京シューレに来たときは、混乱状態だった。
「進学塾に行っていたとき、“偏差値50未満の人たちに人生はないんだ”といわれて恐怖を覚えましたからね。受験に失敗して公立中学に通うんですが、どうでもいい校則や高圧的な教師に耐えきれずに中学2年で不登校になり、“もう自分の人生は終わった”と思いました。学校のレールから外れたわけで」
東京シューレでは最初、好きな琉球音楽を聴いたり演奏したりしていた。それに飽き足らず沖縄に行く企画を自分たちで立てるうちに、沖縄の歴史に興味を持ったり、戦争について勉強したりするようになる。20人ほどのグループを組み、いざ沖縄に行ってみると、到着した港が予約した宿からかなり離れていて、あわやキャンセルか、という騒ぎになり、旅館に迷惑をかけて平謝りしたこともあった。実体験の中で、いろいろなことを学んだ。
「学校に行かないと学べないと思っていた。でも本当の学びって、自分が面白いと思って取り組んでいる途中にあったり、失敗経験の中にあったりするんですよね。学ぶタイミングや内容は他人には決められないんだなと。学校というレールとは違う道がある。これがフリースクール6年間で学んだことです」
東京シューレの中に編集部があった「不登校新聞」で、石井さんは「子ども若者編集部」の記者として関わる。不登校の当事者・体験者などで構成される独自の編集部隊だ。いろいろな人にインタビューし、世界が広がるなかで、石井さんは新聞にのめり込む。子ども若者編集部を卒業し、そのまま発行元のNPO法人に就職し、2006年に編集長となった。
石井さんが、不登校関係のイベントで講演をすると、不登校になってからの進路に関する質問が多く寄せられる。石井さんによれば、さまざまな選択肢があるという。最近は通信制高校に進むケースが多く、不登校者の高校進学率は85%。進学せずに高認を受ける人もいる。その後、大学に進む人もいる。
東京シューレの出身者だけをみても、進路はさまざまだ。大卒で国連職員や公務員、外資系証券会社、製薬会社の社員や獣医になった人がいる。デザイナーやミュージシャンなど、個人の能力・個性を生かして活躍するケースもある。
23歳で大学入学、27歳で就活へ
不登校経験者が大学から就職というルートを歩もうとすると、履歴書をみて偏見を持たれないか心配になるかもしれない。大学入学までに時間がかかったりすると余計に不安になる。
フリースクールを経て23歳で大学に進み、27歳で就活を経験した北村浩幸さん(36)はこう語る。
「経歴や学歴、年齢で偏見を持たれました。やり直しは利きます。でも、ストレートに人生を歩んだ人より、かなり多くのエネルギーが必要です」
膨大なエネルギーは、遅れた勉強を取り戻すために費消された。
北村さんが学校に行かなくなったのは、小学6年の秋から。中学2年のときに東京シューレに通い始め、友だちから“電脳”と言われるぐらいゲームばかりやっていた。ところが中学3年のときに、同じ学年の子の会話を聞いて、ヤバいと気づかされる。「高校に行こうか」という話や「三単現のS」という言葉も聞こえた。しかし中学に行っていない北村さんにとっては、何かの呪文のようだった。
「疎外感を感じましたね。同じ年なのに、未来を見据えている同期がいる。自分の人生を取り戻さなければ……と初めて思いました。うちはサラリーマン家庭だったので、大学を卒業し、サラリーマンになることしか思い浮かばなかった。その大学にしても“逆転ホームラン”につながる有名どころに行けば少しは人生よくなると思っていましたから、かなりハードルは高かったです」
17歳のとき、定時制高校の夜間部に入学。「大検」(=当時、現在の高認)に2年がかりで合格。すぐ大学受験の準備に着手するが、当時の偏差値は27。予備校の難関私立コースで勉強を始めるも、ついていけず半年で挫折。「人生、やり直せないじゃん!」と、2年間引きこもった。
しかし21歳の夏、ある映像をみて雷に打たれたような感覚を覚える。超就職氷河期のなか、大学生が就活をしているニュースだった。スーツ姿の学生が映し出される。考えてみれば自分と同じ年の学生だ。なぜか、無性にエネルギーが湧いてきた。
「死にものぐるいでやれるだけやろう」――北村さんは、受験準備を開始する。父親が「狂気じみている」と心配するほど朝から晩まで勉強し、早稲田大学人間科学部に合格。北村さんは言う。
「当時の自分に必要だったのは納得感でした。精いっぱい努力して目標を成し遂げること。その実感です。このときに得た自信は就活のときに役立ちました」
5年遅れの「新卒者」。100社にエントリーするも、2次、3次面接で全滅した。就活した2009年が、リーマン・ショックの翌年に当たる不運はあった。それでも、くさらず就活を続けた結果、埼玉の小規模な商社から声がかかった。「逆境から這い上がる力」を社長自ら評価してくれたのだ。
しかしその商社も円高の影響で業績を悪化させ、入社5年目に転職活動を余儀なくされる。また10代の経歴がネックになることを恐れたが、ネガティブな反応は一切なかった。ほどなくして、大手外資系生命保険会社から内定を得る。現在、営業活動などの支援を行う、本社の総務関係の部署に所属し、充実した毎日を送っている。
「不登校の過去は取り戻せないです。私のように人がしなくてもいい苦労をすることはあります。でも、人生はやり直せます。人生に正解はないのです」
西所正道(にしどころ・まさみち)
1961年、奈良県生まれ。ノンフィクションライター。近著に『東京五輪の残像-1964年、日の丸を背負って消えた天才たち』(中公文庫)、その他、『「上海東亜同文書院」風雲録』、『そのツラさは、病気です』、『絵描き 中島潔 地獄絵1000日』、共著に『平成の東京 12の貌』がある。