2019年9月に関東地方に上陸した台風15号は、主に強風で被害をもたらした。10月の台風19号は本州を縦断し、各地で洪水を引き起こした。農業設備は風でなぎ倒され、農地は洪水で泥だまりとなった。農機具も浸水で使えなくなってしまった。農林水産省によると、一連の農林水産被害額は4242億円(2019年12月、38都府県合計)にのぼる。こうした被害を受け、長年にわたって仕事を続けてきた農家が、廃業を余儀なくされている。離農を決めた背景を探ると、高齢化と後継者不足という農業そのものの課題が浮き彫りになった。(文・写真:田川基成/Yahoo!ニュース 特集編集部)
泥のついたリンゴはもう売れない
長野、山梨、埼玉の県境を源流とする千曲川は、長野盆地を北へ向かって流れている。蛇行を繰り返すその川幅は、最大で約1キロにも広がる。2019年11月上旬、長野市穂保(ほやす)地区にある千曲川沿いでは、泥の中に真っ赤なリンゴが埋もれていた。
10月13日未明、台風19号による増水で千曲川の堤防が70メートルほど決壊、周辺一帯が濁流にのみ込まれた。この地で約60年、リンゴを栽培してきた関茂男さん(88)も自宅や農地が被害に遭った。
関さんは自宅のすぐ近所に1万平方メートルの畑を持つ。高齢になって人に貸し出すようになり、今、関さんが自身でリンゴを作っているのは、堤防の外側の1000平方メートル、内側の遊水地(洪水時の流水を一時的に氾濫させる土地)に1000平方メートルの2カ所だ。今回の豪雨ではどちらも浸水した。
「洪水が波打って襲ってきたからね。リンゴの木は2メートルくらいまで全部泥水をかぶってる。まだ木になってる実でも、泥のついたリンゴはもう売れないの。悲しい思いだな」
広大な雨雲で本州を覆った台風19号は各地に猛烈な雨をもたらした。特に上昇気流が発生しやすい山間部では歴史的な豪雨となった。
10月12日の19時ごろ、関さんは2キロほど上流の村山橋まで車を走らせ、水位を確認しに行った。その時点でも堤防ぎりぎりまで水位は上がるだろうと思った。なぜなら穂保では、これまでもたびたび洪水に遭ってきたからだ。
関さんは、この地域は洪水に遭う宿命にあると言う。
「ここはね、有史以来、何十回も水がついてる。少し下流が狭窄部になっているせいで、大量の水がここに集まるんだ。だから、地域の責任者になれば、県とか国に治水をお願いしてきた地域なの、昔っからね」
しかし、堤防の決壊までは予期できなかった。
穂保を含む長沼地区では、2002年から2016年にかけて、「桜づつみ」という名の堤防が千曲川沿いに整備された。長さ4.37キロ。関さんの自宅とリンゴ畑もこの堤防に隣接する。
桜づつみでは、すでにあった堤防の外側に盛り土をして幅を広げ、その上には桜並木が植えられた。関さんは、住民側の代表としてその整備に関わってきた。
「100年、200年に一度の豪雨でも決壊しない堤防をつくりました、みなさん、安心してお暮らしくださいと。堤防が完成した時はそう言われてたの」
台風19号は、そんな安心が吹き飛ぶほどの降雨量だった。10月12日、長野県では初の大雨特別警報が発令された。長野市に近い高山村では、降り始めからの24時間雨量で328ミリ。この地点の観測史上最大の雨量だった。
千曲川の水位は上がり続けた。そして13日午前2時過ぎ、穂保地区の堤防が崩れた。濁流は一気に住宅街に流れ込んだ。
関さんと妻は、その少し前に避難所へ向かっていた。
「孫や子どもがね、『家に残れば行政の迷惑になるから、じいちゃん逃げろ』ってね。ワシが先に避難しちゃって、今でもみなさんに申し訳ないやさ」
関さんが自宅に戻れたのは、堤防決壊から数日後、住宅街から水が引きはじめた頃だった。
関さんは長靴を履き、泥だらけのぬかるんだ道を歩いて自宅に向かった。あたりには木の枝やゴミが散乱している。赤いリンゴの実もたくさん落ちていた。土足のまま家に上がると、浸水は床上65センチに達していた。
「畳とか家電製品は全部ダメになっちゃった。畳を剥いでも、床下まで泥がたまってるの」
一連の洪水により、長野県内の住宅は全壊、半壊、一部損壊と浸水を含め計9236世帯(2019年12月26日現在)が被害を受けた。
関さん夫婦は被災以来、市内のスポーツ施設の避難所で寝泊まりしている。日中は自宅に戻り、ボランティアの手を借りながら、復旧作業を行っている。
水に浸かったアップルライン
リンゴ栽培に使っていた農機具の被害も大きかった。
「農薬をまく防除機がダメになっちゃって、だいたい1台500万円くらい。それに150万円のトラクター、灌水機や収穫用のゴンドラもほとんど使用不能。1台130万円くらいする軽トラック2台も廃車だよ」
関さんは被災後、その被害額の大きさを確認して、リンゴ栽培をやめることを決意した。
「これぜんぶ買い直したら1000万円くらいかかっちゃう。もっと若ければね、もう少し頑張れたんだろうけど。70歳くらいになる人は、ワシみたいにやめるかなって思案している人が多いやさ。新しい機械を買って、取り戻すのに10年もかかるしね」
長野県によると、こうした農林業の被害額は県内で約652億円(2019年12月26日現在)に達している。
秋に収穫予定だったリンゴの果実もほとんど収穫不能になった。
「10アールでだいたい4トン取れるから、今年は8トンだな。水に浸かってないリンゴは、3、4トンはある。だけど収穫用のゴンドラも使えないし、地面はぬかるんでっから、取ろうにも取れないやさ」
まずは自宅の復旧作業を優先するため、泥で覆われたリンゴ畑の手入れは、いったいいつになるかわからないという。
「リンゴはね、剪定(枝を選別して切る)を冬にやんの。春は花が咲いて、消毒やらんとね。夏は摘果(余分な果実を摘み取る)と除草。実がなってくると、枝を支えるの。秋は仕上げの摘果。大きくなってくると葉摘みだね。そして、玉回し。太陽に均等に当たるように、リンゴの位置を少しずつ変えんの。それで全面赤くして、一級品を作んのよ」
関さんは毎年、夫婦でこうした作業を続けてきた。家族以外に手伝いを頼むのは、夏から秋にかけての農繁期だけだ。
穂保地区に近い千曲川の堤防沿いには、至るところに果樹園が広がっている。そばを通る国道も「アップルライン」という名で親しまれる。この一帯は、戦前から地域をあげてリンゴ栽培に取り組んできた歴史があった。今回の洪水の浸水地域は、ほとんどアップルライン沿いの範囲と重なる。
「この近所は蚕をやってて、もともと桑畑だったの。でも、昭和の初めにリンゴを導入した。その理由も、洪水の常襲地帯だからリンゴは水害に強いってことだったの。これまでも畑に水がついたことはあった。でも泥が畑に30センチも積もったのは初めてだ。すぐに泥掻きもできねえから。根っこが泥で息できなくなって、どこまでリンゴの木に被害があるか。今度ばかりはわかんねえな」
若い農家が立ち直れるように
今回の被災を機にリンゴ栽培をやめることを決めた関さんは、感慨深く振り返る。
「父が昭和12、13年ごろに植えたリンゴの木が太平洋戦争の時にぜんぶ切らされちゃった。食糧増産のために、麦とサツマイモを植えさせられたの。せっかく成木になったのに、もったいないことするなって思った」
終戦後、地域の農家が助け合って木を植え直し、リンゴ栽培は再び活況となった。
「長野は戦後、リンゴ県と言って、ものすごくもうかった時代もあったの。昭和35年くらいまでかな」
経済が成長するにつれて、リンゴの販価は大幅に下がった。関さんは、それでもリンゴの生産は安定し、よい仕事だったと言う。
「リンゴをやめるのは寂しいわね。まあ、ワシは年だから、いいけど。リンゴやってる若い人がこれから立ち直れるよう、なんとか支援してやってほしい気持ちだな」
トタンが飛ぶ、地獄のような音
9月に上陸した台風15号では、千葉県を中心に暴風の被害が深刻だった。県内の農林水産業被害額は、約428億円(2019年10月11日現在)。四街道市にあった戸田養鶏場も大きな被害を受けた。
11月上旬、郊外の戸田養鶏場を訪ねると、すでに鶏舎は跡形もなかった。そこに広がっていたのは、1000坪(約3300平方メートル)以上はあろうかという空き地だ。
養鶏場の主、戸田弘一郎さん(62)は、台風の夜を振り返る。
9月9日の午前3時、真っ暗闇の中、「バシャンッ、バシャンッ、バシャンッ」という激しい音が外で鳴り響いていた。鶏舎の外壁と屋根のトタンが強風で打ちつけられる音だった。
「地獄のような音だった。朝3時から5時くらいまでの間。自宅も地震のように揺れて、壊れるんじゃないかと思ったね」
夜が明けて外に出ると、向かい側にあった鶏舎3棟は崩壊していた。外壁と屋根が飛ばされ、残っていたのは骨組みだけだった。飼育していた3000羽の鶏は別の鶏舎にいたため無事だった。
「蛇のようによじれて、鶏舎が倒れていたんです。まるで津波の後みたいに。台風が来るたびにトタンを釘で補強はしていたけど、まさか一気に吹き飛ぶとは。こんな強い台風が来たのは初めてでした」
鶏舎のほかに、卵をパック詰めする作業場も半壊していた。弘一郎さんは妻のみどりさんとともに、その光景を前に呆然(ぼうぜん)と立ち尽くした。
二人は被害の状況を冷静に確認し、その日の夜に話し合って養鶏を廃業することを決めた。再建の費用だけが決断の要因ではなかったと弘一郎さんは語る。
「鶏舎の再建、故障した設備の修理で500万円くらいかかるかもしれない。だけどお金のことより、台風の被害が怖くてもう。こんな台風は今後、日常的に来ると思うから」
そしてすぐに鶏業者に連絡を入れた。被害からわずか2日後、水曜日の昼には、3000羽の鶏たちがトラックで引き取られていった。
生き物を飼っていると、365日休めないですから
弘一郎さんは長年、両親と3人で養鶏を営んできた。しかし両親は高齢となり、体が動きにくくなってきた。さらに、父が交通事故に遭い、今年は妻のみどりさんの手を借りながら夫婦で仕事を続けていた。
「卵というのは、けっこう時間がかかるんですよ。鶏が3000羽いたら、毎日2800から2900個くらい卵を産むんです。もし再建するとしたら、卵の選別、出荷をしながら、作業場を修理して、壊れた鶏舎も片付けなくちゃいけない。その両方をやるのは難しいなと思いました」
戸田さんは毎朝、8時から仕事を始めるのが日課だった。得意先に車で卵を配達し、鶏舎で作業をするのは8時半からだ。
「まず手作業でその日の卵を集めて、自動のローラーに載せて流します。温水とブラシで洗って、最後にはかりで重さによって卵が分別される。その分けられた卵をまた手作業でパックに詰める。これで11時半か12時。ようやくお昼が食べられると」
午後はまた車での配達だ。配達が終わると、今度は鶏舎の掃除や手入れが待っている。また、ほかの畑作業、敷地の草刈りなど雑多な仕事をこなしていると、養鶏場の一日はあっという間に暮れていく。
「うちは3000羽だけだから、業界ではおままごとみたいな小さな養鶏場だったんです。元は1万羽くらいいたんですが、少しずつ鶏を減らして、その分、卵に付加価値をつけるようにした。自分たちで販路を広げて、3000羽で回るようになってきた。そんなところに、あの台風が来ちゃった」
戸田養鶏場は、父の登さんの代からはじまった。養鶏場のある四街道市鹿放ケ丘(ろっぽうがおか)地区は、戦後に開拓された地域だった。
「もともと父は岐阜県の出身で、満蒙開拓青少年義勇軍で旧満州(中国東北部)に行く予定だったんです。ところが、終戦で行けなくなった。そこで国内に開拓地を探して、ここに入植したんです。それが15歳のころ。すごい荒れ地を開墾して、今の農地をつくったそうです」
四街道市教育委員会が発行する「鹿放ケ丘開拓のあゆみ」によると、茨城にあった満蒙開拓青少年義勇軍の訓練所の出身者172人が終戦後、鹿放ケ丘に入ったのがこの地の農業の始まりだったという。
登さんが開拓仲間たちと共同経営していた養鶏場は1972年に解散、個人の戸田養鶏場としてスタートした。弘一郎さんは、大学を卒業した1979年に実家に戻り、以来40年間、毎日仕事を続けてきた。
みどりさんは振り返る。
「生き物飼っているとやっぱりねえ。お父さん、休めないですから、365日。毎日卵を産んじゃうから。結婚してから、旅行にもほとんど行っていなくて」
戸田夫妻には双子の娘と息子という3人の子どもがいるが、もとより家業を継がせる予定はなかったという。弘一郎さんが続ける。
「こういうきつい仕事に我慢できるのは、うちらの年代で最後かなって思いがあって。開拓3世、4世の時代になって、後継ぎたいという子もいないですから。どこかでやめるきっかけは見つけないといけないと思ってたよね」
台風がなければ、やめられなかったかな
40年もの長い間、養鶏をしながら、みどりさんは自分一人でやるときの難しさも想像していたという。集卵とパック詰めはできるが、配達先の場所など知らないことも多かったからだ。
「よく主人に言ってたんですけど、『お父さん倒れたら私どうするの』って。主人が入院したり、もしも亡くなったりしたら、私は悲しむ前に卵の作業をまずやらないといけない。鶏は生きてるわけで……。私たち夫婦はともに62歳。ふつうは定年を迎えている年。これで40年間ほとんど休みなく働いてきた主人に、お休みがあげられるんだなあって。廃業してみて、すごい重かったんだなって、わかりましたね」
弘一郎さんは、やめると決めたあとは、むしろすっきりした気分になったと笑う。
「今まで40年間、寝込みもせず、ずっとやってきたんですよね。つまり、休めなかったんです。残念な思いとか、それは全くないんですよね。収入が途絶えるから、そこは問題なんですけど」
廃業を伝えると、子どもたちもよいきっかけだと言ってくれたという。こういう災害でもなければ、やめられなかったのではと弘一郎さんは考えを巡らせる。
全壊した鶏舎と半壊した作業場、その他の設備はすぐに解体業者に連絡し、撤去してもらった。3000羽の鶏を廃鶏にしたときと同じく、感傷に浸る間もなく更地にしたのは、飛び散ったトタンが近くのアパートや駐車場の車に当たってしまったためだ。
弘一郎さんは、ひいきにしてもらった飲食店が残念がってくれたのを見て、すまないという気分になったという。
「戸田養鶏場の名前がついたプリンや卵焼きなんて、メニューに載るくらいでした。自動販売機にも、毎日100人近い人が買いに来てくれていた。そんなお客さんが残念がってくれていて、なんだか悪いなあって気持ちがするんです」
弘一郎さんは養鶏の廃業後、みどりさんが自宅で続けてきたバッグや小物の製作を手伝っている。今はミシンで生地を縫い続ける毎日だ。
「妻の作品、けっこう人気があって、生産が追いついてないんです。前から助けたいなあ、なんて思ってて。この1週間で、妻に弟子入りして毎日手伝ってます。私が下地だけ作れば、量産もできるから。今まで養鶏も畑も、できることはなんでも自分でやってきたから。まんざらでもないですよ」
田川基成(たがわ・もとなり)
写真家。1985年生まれ、長崎県の離島出身。北海道大学農学部卒業。移民と文化の変遷、土地と記憶などに関心を持ち作品を撮っている。千葉に住むバングラデシュ移民家族の5年間を撮った写真展「ジャシム一家」で第20回(2018年度)三木淳賞受賞。motonaritagawa.com