子育てをめぐる問題の根本では、「育児は女性のもの」という“常識”が今も強く残っている。これはいったい、何なのか。「母性」の研究で知られる恵泉女学園大学学長・大日向雅美氏に「問題の本質」を徹底的に語ってもらった。(取材:伊澤理江/Yahoo!ニュース 特集編集部)
「育児がつらい」をやっと言える時代に
――子育てがつらい、しんどい、という声があちこちで聞こえます。まずは先生、昔より今が大変なのかどうか、そこからお尋ねしたいんです。
育児のつらさは昔からありました。ただ、昔は公然と口に出すことが許されなかったと思います。母親たちが「育児がつらい」とつぶやき始めたのは、1970年代前半です。そのころ、駅のコインロッカーに赤ちゃんの遺体が置かれたりする「コインロッカー・ベビー事件」が相次ぎました。
育児で孤軍奮闘して矢尽き刀折れた果ての行動でもあったのですが、当時の母親たちは「育児がつらい」ということすら言えなかった。(周囲と社会が)言わせなかったのです。うっかり本音を言えば、「母親なのになぜ?」とか「母性喪失の女だ」とか、そういうバッシングの嵐に遭う時代でした。
――先生の著書には「母性」の研究を始めるきっかけが書かれています。どうしてこんなに育児がつらいのか、という疑問が端緒だった、と。
コインロッカー・ベビー事件では、母親たちが「鬼」「人間失格」といった烙印を押されていました。しかし、私はただ母親たちを糾弾するのではなく、なぜ子育てに挫折したのか、どんな生活があったのか、知りたいと思ったのです。全国を回り、お母さんたちから聞き取り調査をし、あるいはアンケート調査などを行いました。10年余りで6000人ほどの母親たちの声に接しました。
――どんな実態が見えたのでしょうか。
一見、幸せそうに子育てに励んでいる「ふつう」の母親たちもまた、子育ての負担を一身に担わされ、疲労困憊(こんぱい)していたのです。コインロッカー・ベビー事件のニュースに接して、「ひとつ間違えたら自分も?」「あすはわが身かも?」とおびえる声が少なくありませんでした。
でも、そんな気持ちすら当時の母親たちは公然とは言えなかったのです。そうした傾向は、長い間、変わっていません。
実は、こんな話があるんですよ。
コインロッカー・ベビー事件を契機に全国の母親たちの声をまとめた私の本『子育てと出会うとき』(1999年、NHKブックス)を東京・神田の古書店で、ある出版社の編集者が偶然手にされたそうですが、そこに書かれていた母親の孤独、夫の無理解などに苦しむ声が、いま現在のことかと思ったそうです。1970年代から1980年代の母親たちの声だと知ってすごく驚いた、と。そして、今の母親たちにも伝えたいと、復刻本『みんなママのせい?』(2013年、静山社)を発行してくださったのです。
育児に協力しない夫への不満は、昔も今もほとんど同じですね。「イクメン」は一部の現象に過ぎないようです。男性が育児に関われない働き方に問題があるかと思いますが、でも、「育児は家庭のプライベートな問題」だと多くの人は思っている。夫の非協力は夫の個人的な資質の問題だ、とか。
私たちは、子育てや家庭内のことを「愚痴」「私ごと」の範囲にとどめ、「社会全体の問題」として捉える発想を持ってこなかったのですね。それでいて、「女性は母親になれば皆が皆、子育ての適性を発揮し、子育てを喜びとするものだ」という母性観にとらわれているのです。
でも、少しずつですが、時代は変わっているとも思います。
母親たちは育児のつらさを口にできるようになっています。しかも「原因は夫にある。いや、夫だけの問題ではなくて、企業の働かせ方にある」とか。「ママ友はなぜつらいのか」「地域の無理解はどうにかならないのか」などと、状況を自分なりに分析しながら声に出せるようになっています。
やっと、「私ごと」を「社会ごと」と捉える人たちが出てきたように思います。
「妻の愚痴」 本当は愚痴ではない
――「愚痴」が「愚痴」で終わり、なかなか社会化されない。その理由はどこにあるのでしょう。
母親たちの苦しさに共感するリベラルな男性たちも増えています。
でも、彼らはこう言うんですよ。「夫は妻の愚痴を聞いてあげよう!」って。「妻の悩みを聞いてあげることが子育ての悩みを解決するスタートだ」って。でも、聞いてあげるなんて、ずいぶんと上から目線ですね。しょせん、女や妻の話は愚痴だと思っている。ですから「言わせてあげたら、ストレス発散できるだろう」と思っているのが透けて見えますね。
少し前の話ですが、ある市長が「子育てひろば」をつくったお披露目の場でこんな発言をされました。「お母さんたち、わが市にも子育てひろばができました。ここに来て日頃の愚痴を全部言っていいんですよ。そしたら子育て楽しくなるからね」と。
だから私は市長に言ったんです。
「市長さん、母親たちの訴えを愚痴だなんて思わないでください。母親たちの声は社会の矛盾を訴えているんです。それを政策に反映する姿勢を持って、どうか市政に携わっていただきたい」と。
とかく男性は、オンナコドモの言うことは全部愚痴、だから聞いてあげるよという発想ですね。でも、それはとんでもないことです。今は学校でも、社会でも男女共同参画の時代を迎えています。その認識をしっかり持ってほしいと思います。
創られた「育児は女性のもの」
――なかなか家に帰らない、帰れない父親。男性が育児をすることに理解を示さない企業。一人で抱え込み、疲弊する母親……。それらの根底には「育児は女性がするもの」という通念が根深くあると思います。
「育児は女性のもの」という通念は、近代以降、政策的に創られたものです。
かつて農業漁業が主だった時代、子育ては村落共同体の皆でしていました。家事育児にだけ専念する女性はいなかった。それが戦後の高度経済成長期以降、産業構造の変化と共に、人々の暮らしが大きく変わりました。男性は企業戦士として、「24時間、戦えますか」という形で外で働き続け、女性が家を守るという「性別役割分業」体制が敷かれました。
それによって日本の経済発展が遂げられた面はあるのですが、そうして男性は「一家の大黒柱」になり、子育ては完全に「女性だけの仕事」になったのです。
これは、経済的・政策的な要請でもあったのですが、問題はそれを隠し、「女性が家庭で育児に専念することが絶対的・普遍的な真理だ」とする価値観として、「母性愛神話」が広められていったことだ、と私は考えています。
――男性がより強固に「企業社会」にからめ捕られていく時代になっていった、と。
そうです。そのころから、子育て中の母親はとても苦しくなっていきます。「子育ては母性を持っている女性の責務」とされ、立派に育てるのが母親の当然の役割、子どもの出来不出来は母親次第とされたことから、子どもに全力を傾ける「教育ママ」にならざるを得なかったのです。
コインロッカー・ベビー事件は、まさにそんな時代の話です。
「3歳児神話」が覆い隠したものは何か
――「3歳児神話」はどうでしょうか。「3歳までは母親が育児に専念すべきだ」という考え方が根強くあります。
「3歳児神話」は「母性愛神話」の中核をなすもので、その内容は3本柱から成り立っていると私は考えています。
①小さいとき、3歳くらいまでが大切
②そのときは母親が育児に専念すべき
③もし、母親が働くなどで育児に専念しないと、子どもの成長発達が歪む
という考え方です。
このうち、①の「小さいとき、3歳くらいまでが大切」は真実であり、発達心理学的にも大切にしたいと思います。
でも、なぜ大切なのかを考えてみたいですね。それは愛される経験が必要だからです。そして、その愛とは、母親の愛ももちろんですが、母親だけではありません。父親や祖父母、保育者や近隣の人など、子どもを大切に育もうとする人々の愛に見守られて子どもは健やかに育っていくのです。
それなのに、幼少期に母親の愛情の必要性だけを強調・偏重するところに「3歳児神話」の問題の一つがあると言えます。
その根拠とされたのが、英国の精神科医ジョン・ボウルビィの研究です。20世紀初頭から問題となっていた、欧米の乳児院などで育てられていた子どもたちの発達の遅れや異常を調査し、その原因を「母性的養育の剥奪」に求めたのです。
ただ、その研究が日本に導入・紹介されたとき、ボウルビィの言う「母性的養育の剥奪・欠如」、つまり「温かな養育環境の剥奪・欠如」は「母親不在」に置き換えられました。そして、「女性は家庭で育児に専念すべきであり、それがなされないと、子どもの成長発達が歪む」という形で、②③が強化されてしまったのです。
――意図的に強化された、と。それはなぜでしょうか?
ボウルビィの研究は、日本が低成長期に入りかけた1970年代後半に盛んに導入されたのです。
当時、政府や与党自民党は「家庭基盤の充実構想」「日本型福祉社会」という政策を打ち出して、介護と子育てを家庭・女性が担うことで、福祉関連予算の削減を図ろうとした時代でした。
もっとも、どこの国でも、いつの時代でも、人々の暮らしは常に政策の対象となります。政治や経済の要請と無縁な暮らしはないと言ってもよいかと思います。ですから、それを正確に認識することが必要です。
でも3歳児神話の問題点は、それを覆い隠したことです。研究を政策的に使ったことで、抗(あらが)いがたい絶対的客観的な真理であるかのように用いた……言葉はきついかもしれませんが、結果的に(ボウルビィの研究成果を)ねつ造したことになるのではないかと私は考えています。
――それに対して先生は反論したわけですね。
3歳児神話を中核とする母性観を神話だとして、「母性愛神話からの解放」を訴えました。それは決して、母親の愛情の大切さを否定することではありません。むしろ、母親が喜びをもって子どもと関わるためにこそ、社会や周囲の支援が必要だと訴えたのです。
でも、当時はなかなか理解していただけませんでした。「国を滅ぼす女性」などという激しいバッシングも受けました。
それほどに、人々の母性に対する思いが強かったのですね。情緒的に信じて疑わなかったものを崩されることへの怒りと恐怖からのバッシングだったと思います。その構図は、今も完全に払拭(ふっしょく)されているとは言えないかもしれません。
「子育ては母だけのものじゃない」
――「3歳児神話」そのものは、1998年の「厚生白書」によって、「合理的な根拠は認められない」と否定されています。
私の母性の研究を基にしてくださったと聞いています。ただし、「合理的根拠がない」と単純に言い切るのではなく、丁寧に崩すことが必要だと思っています。前にも言いましたように、3歳児神話の3本柱のうち、①の「3歳までの乳幼児期が人間の発達にとって大切」は、その通りです。愛される経験は子どもには不可欠です。
でも、②の「その愛はお母さんだけ」という考えは崩されなければいけません。
問題は、③の「母親が育児に専念しないと子どもの発達が歪む」という考え方です。この点についてはエビデンスに基づいた検証が必要です。
米国をはじめとして、この点についての研究がいろいろなされています。それらを整理すると、子どもの発達は「母親が専業主婦か、働いているか」の二つの要素だけで決まることはない、ということです。
母親が働いている場合でも、夫や家族、周囲の協力があること、そして、日中の保育の質、さらに職場の支援の在り方などが大切です。それらが保障されていると、母親が働いていても、子どもの成長発達には何の問題もない。それどころか、知的にも情緒的にも社会性でも、素晴らしいことだと立証されているんですよ。
一言で言うと、子育ては母親だけが担うべきものではない。むしろ、社会全体の問題であるということです。
ですから、「母性愛神話からの解放」を訴えて、「3歳児神話を問い直そう」という私の提起は、「お母さんが子どもを愛さなくていい」ということではなく、「社会全体の子育て支援の在り方を問い直そう」ということにつながるのです。
ようやく「真実」が見え始めた
――世の中のその後をどう捉えていますか。
少子化が問題となった1990年代、「どうして女性たちは産まないの? 産めないの?」という疑問の声が広がるようになりました。そうした疑問がきっかけとなって、近年、ようやく真実が見え始めたと思います。
お母さんだけに育児を託すのは、もう限界なんです。そして、さまざまな子育て支援施策が打ち出されています。
ただ、人々の心は必ずしも追いついていないようですね。「女性はもっと社会で活躍してほしい」と言う一方で、「3歳まではお母さんが家庭にいないと子どもがかわいそう」と公然と言う政治家や識者も少なくありません。
――今の子育て世代にも「家のことは女性の役目」という古い通念は根深いです。母親自身も、です。それぞれの「良き母親像」にとらわれている節もある。古い通念が生き続けるには、それを可能にする法的制度やシステムがあるはずです。
「育児は母親のもの」という通念を支えているものの一つに、労働の現場が抱える限界もあるのではないでしょうか。
企業にとってこれまで女性は高リスクな労働力でした。
結婚して子どもを産めば、産休育休で休み、子どもが熱を出したら休む。(男女の別なく)能力を認めることが重要だと分かっていても、子育ては企業のリスクにならざるを得なかったのです。でも、公然と「コスト高だ」とは言えない。ですから、表向きには「子どもにはお母さんが必要だよね」という理屈を使いながら、女性をアンフェアに扱い続けてきたのです。
でも、女性を高リスクな労働力とする見方は、時代錯誤になりつつあります。女性の活躍なくして、これからの社会も企業も成り立たないことは明らかです。
一方、確かに妊娠・出産は女性しかできないけれど、子育ては男性も担えます。母親だけでなく、地域の皆で、見守り、支え合うこともできますし、必要です。
いま、「子育てがつらい」と母親たちがようやく言えるようになった。それは少子化の一方で、社会の危機と言われています。でも、その原因を真摯(しんし)に見つめ、対策を講じることで、いま何をなすべきかが明確になってきています。老若男女共同参画の推進は、子育ての世界にこそ必要です。子育て支援は、老若男女のすべての人が、人間らしく暮らせる社会を築くことにつながると言えると私は信じています。
【連載・子育て困難社会 母親たちの現実】
子育てをめぐる家庭の「危機」は、全国のあちこちにあり、そして「私ごと」の世界に埋もれたままになっているに違いない。どうして母親たちにとってつらい出来事が起きるのか。その素朴な疑問を解くために、多くの母親たちに会い、カウンセラーなどの専門家も訪ね歩いた。
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大日向雅美 (おおひなた・まさみ)
恵泉女学園大学学長。専門は発達心理学。お茶の水女子大学大学院修士課程修了・東京都立大学大学院博士課程満期退学。学術博士。1970年代初めのコインロッカー・ベビー事件を契機に、以来、40年余母親の育児ストレスや育児不安を研究し、地域のNPO活動にも取り組んでいる。NPO法人「あい・ぽーとステーション」代表理事、「子育てひろば『あい・ぽーと』」施設長。内閣府の「社会保障制度改革推進会議」委員、同じく「子ども・子育て会議」委員なども務める。「エイボン教育賞」(2003年)、「男女共同参画社会づくり功労者内閣総理大臣表彰」(2016年)、「NHK放送文化賞」(2019年)を受賞。『新装版 母性の研究』(日本評論社)、『子育てと出会うとき』(NHK出版)、『「子育て支援が親をダメにする」なんて言わせない』(岩波書店)、『増補 母性愛神話の罠』(日本評論社)ほか著書多数。
伊澤理江(いざわ・りえ)
ジャーナリスト。新聞社、外資系PR会社などを経て、現在は新聞・ネットメディアなどで執筆活動を行う。英国ウェストミンスター大学大学院(ジャーナリズム専攻)で修士号を取得。フロントラインプレス所属。