上の写真に写っている男の子は2年余り前、母親の手で布団に投げつけられたことがある。幸い、子どもにけがはなく、家庭も平穏を取り戻している。なぜ、そんなことをしてしまったのか。夫の転勤で見知らぬ土地での慣れない子育て。夫は激務で帰りが遅く、頼れる知人もいない。「アウェイ育児」に追い込まれた末のことだった。そんなケースから浮かび上がってきたものとは──。(取材:伊澤理江/Yahoo!ニュース 特集編集部)
「誰かに自分を止めてもらいたい」
「もう、いい加減にして!」
兵庫県に住む鈴木薫さん(30代・仮名)は、そう叫びながら生後6カ月の息子を薄い肌掛け布団に投げつけたという。
2017年8月。蒸し暑い曇り空の日だった。
息子は一度泣きだすと泣きやまない。その日も昼頃から泣き始めた。抱っこをしても、授乳をしても、おむつを替えても泣きやまない。既に2時間以上経過した、その時だ。1メートルほどの高さから布団に投げつけると、息子は一瞬、静かになった。そして、「ギャ――――」とさらに大きな声で泣きだした。
このままでは命を奪ってしまうかもしれないと、薫さんは児童相談所に電話をかけた。
男性の職員が出た。泣きやまない子どもを布団に投げつけたことを泣きながら伝えると、外傷の有無などを聞かれた。外傷はない。するとその職員は「児童館へ行ったり、保健師に相談したりしてみて」と言う。淡々とした口ぶり。短時間で終わったその通話を薫さんはよく覚えている。
「泣きやんだタイミングを見計らって、やっとの思いで電話したんです。動転していて、誰かに自分を止めてもらいたい、と。それをうまく伝えることができなくて」
薫さんは大学を卒業後、東京で就職し、外資系企業などで仕事を続けていた。企業名や仕事の内容を明かせば、典型的な「キャリア女性」に映るだろう。夫の転勤を機に30代半ばで退職。「わが子の投げつけ事件」は、初めての土地に移って1年足らずの時だった。
近くに家族や親族、頼れる友人はいない。メーカー勤務の夫は朝6時に家を出て、ほとんどの日は夜12時過ぎまで帰ってこない。残業に次ぐ残業で、週末もよく仕事に出た。
それにしても、息子はよく泣いた。泣きだすと、何時間も止まらない。周りの目が気になり、薫さんはバスで児童館に出かけることもできなかった。
「家の近くで過ごそうにも真夏のお散歩は1時間が限界で……」
「託児所なんてかわいそう」の言葉に抗しきれず
長い一日を子どもと2人でどう過ごせばいいのか。「夫は存在しないものとして考えていました」と明かす薫さんにとって、2年前のあの夏は何だったのか。
「私の母は、電車とかで小さい子が泣いていると、『親のしつけがなってない』とよく言っていました。泣かせ続けるのは、悪い親、しつけのできていない親だ、と。自分もそう思う節があって。泣き声を聞いているだけでつらい。早く泣きやませたかった」
丸一日、夫以外の大人と話すことのない日が続いていた。
「一人になりたくて、託児所を1、2回使ったんです。すると、顔見知りのママから『預けるなんてかわいそう。罪悪感なかったの?』と言われて。預けないと歯医者にも行けないと説明したら、『へぇー、そうなんだ。すごいね。私にはできない』と。で、思ったんです。預けるのって悪いことなんだ、そうか、自分は母親失格だ、と。託児所も利用できなくなりました」
「今だったら、あんなの聞き流せると思います。でも、当時は違いました。育児ノイローゼだったと思う。何が正しくて何が間違っているのか、わけが分からなかった」
布団に投げつけた後も、子どもをぶったり突き飛ばしたりした。とにかく泣く。泣いて泣いて泣きやまない。夫が帰宅すると、「今日もぶってしまった、大声をあげてしまった」と言い、今度は自分がわあわあと泣いた。
残業残業残業……会社にからめ捕られた夫
わが子を布団に投げつける何日か前、薫さんは保健師に「子育てがつらくてたまらない」と打ち明けていた。子どもの6カ月健診のときだ。
女性の保健師からは「外に出たほうがいいですよ。児童館に行ったらどうでしょうか」という答えが返ってきた。児童館に行くには、バスが必要だ。わんわん泣く子どもが気になって、そのバスに乗れない、という訴えは届かなかった。
いったい誰に相談したらよいのか。
小児科医による育児相談の情報を夫が見つけてきて、2人で出向いたこともある。そこでは「相談は保健所でやっています」という紙を渡されたという。薫さん向けに心を落ち着かせる漢方薬を処方されたが、飲まなかった。
「薬で解決するものではないでしょう? 状況を改善したいのに、保健所へ児童館へと回されるだけでした」
薫さんの夫は「わが子の投げつけ事件」をこう振り返る。
「帰宅すると、妻から泣きながら打ち明けられました。『怒鳴っちゃった』というのは前にも聞いたけれど、口だけでなく、手が出ちゃった、と。なんでそんなことをしたんだ、とは思いましたよ。でも、それだけ育児がしんどいんだろうな、って。責めたら妻は自分を追い込むだろうから言えなかったです」
転勤先は夫にも縁のない街だ。自分の転勤を境に、突然、一人で育児を担うようになった妻。充実していた仕事を辞して夫についてきて、ほどなく家で子どもと2人きりの生活になった。まさに「一変」である。
夫は続けた。
「早く帰りたいのに仕事量が多く帰ってあげられなくて。早く帰らないと妻が疲弊していく。かといって、この先も長く働く会社でいい加減な仕事もできない。それに、みんなこういう苦しみを乗り越えてやってきているでしょ? そこそこ給料ももらえているし。(早く帰ってあげたいと思う)自分が甘いのかな、って」
夫の勤務先は日本を代表する大手企業だ。戦後から高度成長期、バブル期も含めて、日本経済をけん引する存在だった。大学生の就職人気企業ランキングでは、多少のアップダウンを経ながらも常に上位にある。
「入社したときから、『残業している人がすごい』『俺はこんだけやっているんだ』という風潮の会社です。最近では働き方改革の影響で『残業はだめだ』と社内でも言われますが、業務量は減らないし、増員もないです」
あの夏、夫も苦しんでいた。
「自分も子どもと触れ合いたい、妻を助けたい。なのに帰れない。それが一番きつかったです。会社で周囲の人に相談しても『子どもが1人しかいないのに、なんで大変なの?』と言われました。理解されなかった。子どもの性格、育てやすさの違い、近くに助けてくれる家族がいるか……。そういうことで育児の負担は大きく変わります。子どもの数だけじゃ、測れません。それなのに理解されないから、会社では相談しなくなりました」
母親たちの苦境、社会から見えず
児童福祉の専門家である関西大学の山縣文治教授(65)は、これまで多くの子育て家庭を見てきた。厚生労働省の児童虐待に関する専門委員会の委員長も務めている。
「地方に行けば行くほど、『女性は子育てができて当然』という意識が強いんですね。そんななか、薫さん本人はちゃんとSOSを出していた。なのに、関係機関がちゃんと受け止めていない。たらい回しです。おそらく、わが子の投げつけを聞いた児相は、(児相の権限に基づく)母子分離までの必要はないと判断し、保健師に委ねたのでしょう。最初に、6カ月健診で相談を受けた保健師が(後日でもいいから)ちゃんと寄り添って話を聞き、例えば『児童館の〇〇さんのところに行ってみて』とか、場所ではなく人につなぐことができていたらよかった」
「児童館のような公的な場に一人では行きにくい人もいます。だから、保健師が一緒についていってあげるのが理想的です。そして、児童館はその後どうなったかを最初に担当した保健師に戻す。すると、情報の蓄積もできます」
リスク要因が多ければ、どんな親でも虐待に走る可能性がある。それが山縣教授の見解だ。
「信頼できる少数の人と『つながる力』が大切なんです。人と関わることで、虐待をしそうな衝動に対処できる力が育つ。ところが、現実には、3歳児以下の未就園児を家庭で養育している親には、自分に関わってくれる社会資源がほとんどない」
「未就園児を持つお母さんたちには『必ず行かなければならない場所』がないんです。本人がSOSを出さないと、その苦境は外から見えない。家庭で養育しているお母さんが、みんな虐待をするわけではありませんが、子どもとお母さんだけの時間が長くなると、リスクも増える」
実際、厚労省の検証結果によれば、児童虐待による死亡事例のうち、地域社会との接触がほとんどなかった事例はおよそ4割に上っている。
「共感してくれる人」と出会って
薫さんの話には、もう少し続きがある。
「わが子の投げつけ事件」の後、どうやって自分を取り戻したか、だ。一つは、心理カウンセラーの石﨑和美さん(64)と子育てひろばで出会ったことだ。苦しさを訴える薫さんに向けて、石﨑さんはこんな助言を繰り返した。
「泣きやまない? そういう子もいるよ。その子の個性だから、他の子と比較しなくていい。一緒にいてつらくなるママ友とは、つるまなくていい。ワンオペ育児がつらい? 預けることは悪いことではないから、託児所でも児童館でも使うといいよ」
「(自分の母がそうだったように)暴力を振るう親になっている? それはつらいよね。でも、よくそれに気付いた。ああはなりたくないという姿になっている自分を発見して、自分と向き合っている。あなたとあなたのお母さんは別。安心して。大丈夫よ」
取材の中で、石﨑さんは「妻だから、母親だから、というジェンダーの刷り込みがお母さんたちを苦しめている。そのことに気付くと、育児のつらさから抜け出せる。妻や母である前に一人の人だから」と言い切った。
薫さんが自分を取り戻すきっかけになった、もう一つの出会い。それは「投げつけ事件」の直後だったという。
JR西宮駅近くの児童館に、薫さんは泣き顔で向かった。すると、40代後半くらいの女性が出てきて、「あらーどうした?」と話しかけてくれた。そのときも息子は泣いていた。
「その児童館の先生から『児童館はお母さんが休む場所。子どもが泣いててもいいから、毎日連れてきなさい。泣いてどうしようもなかったら、私たちが抱っこしててあげるから』って言ってもらって」
「児童館に通ううちに、同じようによく泣く子のママとも知り合って。一人で抱えていた悩みに共感してくれる人たちと出会えた。あれがなかったら私は今生きてないかも」
社会の日常に埋もれそうな、小さなやりとり。2年後の取材でそれを語る薫さんは、涙目だった。もちろん、あのときの涙とは違う涙だ。
平穏は戻った。けれど……
NPO法人「子育てひろば全国連絡協議会」が2016年にまとめた全国の母親を対象に実施した調査によれば、自分の育った市区町村以外で子どもを育てる「アウェイ育児」は、全体のおよそ7割にもなった。そのうち、近所で子どもを預かってくれる人がいるとの回答は3割にも満たない。
一方、内閣府の2016年度の調査によると、「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきだ」に賛成する人は4割いた。その理由については「妻が家庭を守った方が,子供の成長などにとって良いと思うから」が6割に達している。夫の育児参加が阻まれる背景には、こうした性別役割を受け入れている社会の意識がある。
片時も子どもと離れることができない母親たちの多くは「つかの間でいいから一人の時間が欲しい」と望んでいる。取材で会った人たちによると、その時間の使い道は「歯医者に行く」「夕飯の買い物」「部屋をきれいに」などであり、ささやかというほかはない。
2019年夏、神戸・元町のレストラン。
仕事帰りの薫さんとまた会った。4回目の取材。店は金曜の夜を楽しむ客でにぎわっている。「夫不在」「24時間子どもと一緒」に耐えきれなくなった薫さんは、子どもが1歳を過ぎたころ、仕事に復帰した。その息子もいま2歳半。きょうは夫が見てくれているという。
「出産前には赤ちゃんのお風呂の入れ方やマタニティーヨガではなく、出産後にはこんな過酷な日々が待ち受けている、って教えてもらいたかった。泣きやまない子もいるんだよ、って。本やネットの情報に振り回されて比較しちゃいけない、って」
「わが子の投げつけ事件」後から夫は、週末に出勤をしなくなった。夫自身、この取材には「80〜90点でやっていた仕事を60〜70点くらいで回すようにしました」と語っている。問題が起きない程度に最低限のことをやるスタイルだ。子育て家庭を侵食する企業の論理に対する、ささやかな抵抗だったのかもしれない。
でも、薫さんはこう続けた。
「夫? 仕事で帰れなかった夫に対しては、今も恨んでいます。会社で評価が下がっても、減給されてもいいから、あの一番苦しいとき、家に帰ってきて助けてほしかった。あの恨みは一生消えないと思います」
[協力]山縣文治・関西大学教授
【連載・子育て困難社会 母親たちの現実】
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伊澤理江(いざわ・りえ)
ジャーナリスト。新聞社、外資系PR会社などを経て、現在は新聞・ネットメディアなどで執筆活動を行う。英国ウェストミンスター大学大学院(ジャーナリズム専攻)で修士号を取得。フロントラインプレス所属。