福島県いわき市の競輪場近くに、古い洋館がある。地域紙「日々の新聞」の本社だ。2003年の創刊時から記者はずっと2人。それでも、毎月2回発行のこの新聞は全国に読者を広げ、この10月に400号が出る。2人は、全国規模のメディアや都道府県単位の新聞にはできないことがあると言う。「地域に根ざした人たちの日常、喜怒哀楽やささやかな誇り。そこにすくい取るべきものがある」。かたちや規模は違っても、「日々の新聞」のような地域紙は全国に多数ある。地域と地域紙の世界をのぞいた。(取材:高田昌幸、当銘寿夫、伊澤理江/Yahoo!ニュース 特集編集部)
創刊から記者2人で16年 間もなく400号
洋館に入ると、細い階段がある。それを上ったところにある広い部屋が「日々の新聞」の編集室だ。数台のデスクトップ・パソコン、本や資料の山。ネット全盛時代にあっても「紙の新聞」へのこだわりを捨てておらず、部屋にはやたらと紙がある。創刊時からこの風景はほとんど変わっていない。
編集長の安竜(ありゅう)昌弘さん(65)は「自分で好きなことを書きたいと思って実際にそうやってきました。(経営の厳しさを前に)眠れない夜もたびたびだったし、いまもかなり苦しんでいますが」と言う。
タブロイド判で、普段は12ページ。上質紙を使い、時々カラー印刷になる。「日々の」と名付けたのは、毎日発行するという意味ではなく、いわきの日常を記録したいとの思いからだったという。東日本大震災直後の一時期を除いて、月2回のペースを崩したことはない。
2003年に134部でスタートし、東日本大震災後は一時750部まで増えた。今は約650部。少部数とはいえ、読者は北海道から沖縄まで全国にいる。「いわきに根ざしたいわきの新聞」ながら、なぜ、読者はあちこちに広がっているのだろう。
記事に登場するのはほとんど、いわゆるふつうの人々だ。
安竜さんは「わたしたちはいわきで生まれ、育ち、骨になる。そうした人の目にしか見えないものを伝え、記録に残したい」と話す。
今年7月31 日発行の第394号には、火災で店舗を失いながら、多くの支えで再建を果たした「Dining & Bar QUEEN」の記事が載った。1600字ほどの長い記事は「どんなに苦しくてもバーとライブを手放さなかった」店長にエールを送った。敬老の日に発行された別の号では、大正生まれの高齢者が1面で自らの人生を語り、春4月の紙面では地元の石割桜にまつわる物語が綴られた。
創刊時から二人三脚で新聞を作り続ける大越章子さん(55)は言う。
「地域を取材していると、感じるんですね。『この地域で起きていることは、実は全国のあちこちで起きてることでもある』と。だから、いわきの日々は『関係ないよ』ではなくて、九州のある町でも北海道でも同じようなことがあって、どこかでつながっている」
伝統ゆえの「古さ」に見切り
大越さんも安竜さんも、創刊前は夕刊紙「いわき民報」の記者だった。大越さんは行政担当、安竜さんは報道部長や編集委員などを務めたベテラン。2人が辞める前の2000年ごろには公称で約2万部の部数を持っていた。
やりがいを感じつつも、当時の2人は息苦しさも感じていたという。型にはまった記事や取材のスタイル、行政や地区行事を無味乾燥に伝えて「よし」とする姿勢、人の名前や顔写真がたくさん載れば部数増になるという方針……。特に、若い大越さんは、伝統ゆえの「古さ」に落胆もした。
安竜さんはどうだったか。
「警察担当も行政担当もやって、それなりに他紙を出し抜くスクープも書きました。敏腕記者と言われたい、そこに価値を見いだしたい、って感じですね。ところが、年のせいなのか、自分の価値観が少しずつ変わった」
転換点は1996年だった。いわき市の上三坂(かみみさか)地区の様子を伝える年間連載を担当した。上三坂は古い宿場町。市の中心部から車で1時間弱もかかる。
「今はへんぴな山村です。それがね、一軒一軒訪ねて、集落の日常と向き合うようになって、いろんなものが見えてきた。例えば正月飾り。独特なんです。いわきは合併でできた市なので、地区によって民俗が違う。風習が違う。言葉も違う。自分が生まれ育ったのは海辺だったから、『えっ、いわきにこんなものがあったのか』って。驚きの連続なんですね。土地の人と話していると、その人生を通していろんなものが見えてくる。そういうものを書きたい、と。そういう新聞をつくりたい、と」
大震災の被災地になって「人にシャッターを押せなかった」
都道府県単位で発行されている「地方紙」よりも、さらに規模の小さいものを「地域紙」と呼ぶ。
この分野に詳しい龍谷大学社会学部の畑仲哲雄教授によると、地域紙の中には広告主体のフリーペーパーやイベント情報などに特化した媒体もあり、全体像をつかむことは難しい。「日刊でニュース・報道に軸足を置いたもの」に限定しても、170~200紙はあるという。
地域紙には、7万部近い部数を持つ「市民タイムス」(長野県松本市)や8万部超の「十勝毎日新聞」(北海道帯広市)のような大きな媒体もある。それらに比べると、「日々の新聞」の規模は地域紙の中でもかなり小さい。
では、いわき市のこの新聞は何を目指しているのだろうか。
2003年に出た「日々の新聞」創刊準備号の1面には「まず現場に立ち、見つめる」という見出しが躍っている。いわきに根ざすため、この地域を這いずり回ります、という宣言だ。
安竜さんは言う。
「市井の人に取材するでしょ? それぞれにドラマはもちろんある。でも、一見どうでもいいようなことを語る中にも、社会の問題は編み込まれているんです。丁寧に声を拾っていくと、何かの問題点が立ち上がって見えてくる。バスの便もなくて行きたい所にすら行けないお年寄りとか。若者にも、地方の若者なりの悩みや考えがある。そうしたものはたぶん、全国一緒。日本の各地域に共通の問題です」
とくに東日本大震災後は、東京電力福島第1原発の事故や津波被害の「その後」にこだわる。
多くの全国メディアから「その後」や「放射能」が消えていくなかで、「日々の新聞」はそれを忘れたことがない。いわき市と原発の距離はわずか30キロほど。まさに「地元」である。だから、記事の目線も徹底して「地元」の側にある。
例えば、放射能に汚染されたがれきを市内の清掃センターで焼却する話が持ち上がったとき、住民向けの説明会が行われた。「日々の新聞」はその様子を1面でこう書き起こしている。
「まるで『この機会を待っていた』とばかり、次々と手が挙がった。怒り、戸惑い、やるせなさ…。その質問と意見は、どれもが切実で核心を突いていた。予定時間はあっという間に過ぎ、市の担当者が『時間の関係もありますので』と締めにかかろうとすると、『まだ聞きたい人がたくさんいるのに終わるんですか』と続行を促された。その説明会は4時間以上に及んだ」
大越さんにも、地元で生きるメディアとして忘れられない体験がある。震災の直後だった。
「2週間後です……。あの風景が見えました」
震災で予定の号は出せずにいた。創刊後、初めて出せなかった。そして、再開後は当然、「大震災」について書くことになる。いったい、いわきはどうなってしまうのか。それを丁寧に拾うため、2人は市内の海岸線を北から南まで取材していく。放射線量が高いなか、全部歩き、そして薄磯地区の浜に行った。
大越さんが続ける。
「住んでた方が片付けに来たりとか。自衛隊やボランティアの方によって、がれきだらけだった所に一応、道ができて。(新聞に載せる写真が必要だったので)撮りました。結構、撮りましたけど、人の姿は撮れませんでした。花を手向けてらっしゃる方とか、自分の家を見に来た方とか……撮れませんでした」
——まだ収容しきれない遺体があった時期ですね?
「ありました」
——それは撮れなかった、と?
「ここに住んでいる記者として撮れませんでした。(カメラを)向けはしました。でも、シャッターは押せませんでした。カメラを構えようとしただけで涙が出てきてしまって……。薄磯の海岸は海水浴場なんです。私も小さいときに家族で海水浴に行き、記者になってからはそこで採れる名産を取材に行ったり。よく知ってる地域なんです。その風景があまりにもガラッと変わってしまっていて。それに……」
——それに?
「人々の何とも言えない表情や雰囲気を前に、『撮れないんだったら撮らなくてもいい、それが今の私なんだから』って。人にカメラは向けられませんでした。それで撮れるものを撮りました」
被災者はみんな淡々と作業しているように映っても、そうではない。だからこそ、その心情が伝わり、自分たちはすごく無神経なことをしている気持ちになったという。取材どころか、声も掛けることができなかった。
「ただただ、歩いて。それでプーさんは撮れたんです。めちゃくちゃになったピアノとか、そういったものは撮れたんです」
「地域紙は良き隣人」と専門家
前出の畑仲教授は言う。
「一般に地域紙は通信社と契約していないので、全国ニュースはほとんど載りません。全部、地域の話題。記事も全部自前。記者が這いずり回って、地元の出来事を追いかけている。基本は『こんなことがあったよね』という地元の話です。ローカルメディアは自分たちも地域の一員として地域の問題を考えていく役割を担っている。良き隣人。これが地域紙の基本なんです」
畑仲教授によると、新潟県の「上越タイムス」は定期的に、地元のNPOに紙面の一部を無償で提供し、NPOがどんな記事を載せても内容に干渉しない。それが、地域社会と地域紙の良好な関係を示す事例だという。
「大きな、大きな掲示板を市民社会に提供しているわけです。NPOはそれを使って仲間を募ったり、地元の課題を地域住民と共有したり。イベントもやり、相談会もやる。上越タイムスはそれを通じて、地域メディアの役割はこうなんだ、と学んでいった。その過程が私には感動的でした」
「彼らは仲間だから。信頼しきっている」
「日々の新聞」の2人は、いわき市をぐるぐる回るように取材している。定期的に会う人も多い。9月下旬の金曜日には、小名浜地区の漁港に足を運び、福島県漁連の野﨑哲会長(65)と向き合った。
事故を起こした原発から出る「汚染水」。その処理問題で、野﨑会長はキーパーソンの一人だ。各メディアに追い回されもする。それでも、自身を「てっちゃん」と呼ぶ記者は、安竜さんの他にはいないという。互いに同世代で、共通の知人も多い。
30分余りの取材が終わった後、野﨑会長は言った。
「『日々の新聞』の2人はよく知ってるし、媒体のこともよく分かっている。取材というより雑談だね。仲間だもの。大手メディアとは違う。(県紙の)福島民報、福島民友新聞とも違う。信頼しきってるから。雑談の中から(情報源である自分を傷付けないかたちで)きちんと書いてくれる。そりゃないだろ、と思ったことは一度もないね」
創刊準備に忙しかった頃、安竜さんと大越さんは米国のニューヨークタイムズ紙のような新聞を作りたかったという。「内容ではなく、デザインがかっこいいから」と。しかし、それはただの照れ隠しかもしれない。
2人は、福島出身の詩人・長田弘(故人)の作品集「散歩する精神」を気に入っている。そこに収められた「アンダスンと猫」という一編は、アメリカに実在する小さな新聞社の物語だ。「マリオン」という名の小さな町。主人公のアンダスンは社主で、コラムニストでもある。
その中にこんな一節がある。
マリオンは典型的な古いアメリカの町だった。ある日一人の男が、町をでてゆく。もどってくる。赤ん坊が生まれる。誰かが死ぬ。なにも変わらない日々だけがのこる。だが、ありふれてみえる町の日々の一つ一つには、人がそこで生きている無言の物語が籠められている。
語られることのないそれらの物語を語ることができなくてはならない。平凡な日常を生きている人びとの日々の匂い、感覚をとらえるのだ。それが自分の仕事だ。そうアンダスンは考えていた。
これが「日々の新聞」の精神です、と安竜さんは言う。
400号の発行を控えた10月12日から13日にかけては、台風19号の影響で東日本各地に大きな被害が出た。いわき市でも河川の氾濫などにより、市内全域の約34万人に避難指示。犠牲者も出た。2人は、その中に分け入るように取材を続けている。
「地域に根ざした人たちの日常、そこにすくい取るべきものがある。私も土着なんです。いわきに生まれ、いわきで育ち、いわきで骨になる。そうした人の目にしか見えないもの、書けないもの、それがあるはずだ、と思うんです」
高田昌幸(たかだ・まさゆき)
ジャーナリスト、東京都市大学メディア情報学部教授。「誰も知らない世界を 誰もが知る世界に」を掲げる取材者グループ「フロントラインプレス」代表。
当銘寿夫(とうめ・ひさお)
ジャーナリスト。琉球新報記者を経て、2019年に独立。フロントラインプレス所属。
伊澤理江(いざわ・りえ)
ジャーナリスト。新聞社、外資系PR会社などを経て、新聞・ネットメディアなどで執筆活動を行う。英国ウェストミンスター大学大学院(ジャーナリズム専攻)で修士号。フロントラインプレス所属。