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伊藤詩織

「世論が支持し、一緒に闘ってくれる」―社会を変えるか、動き出した裁判クラウドファンディング

2019/09/06(金) 08:58 配信

オリジナル

インターネットを通じて一般の人々から資金を募る「クラウドファンディング」が、訴訟の分野にも広がっている。個人が裁判費用をネットで募り、国など大きな相手を訴えることも可能にする。英国では3千万円以上の寄付を集めて社会変革につなげた実例も出てきた。英国と日本の実情を紹介する。(伊藤詩織、神田憲行/Yahoo!ニュース 特集編集部)

声をあげたことで解雇された医師

クリス・デイ氏(34)は2016年、ロンドン近郊にある病院の集中治療室(ICU)でジュニアドクターとして働いていた。

ICUは慢性的に医師不足だった。英国では夜間帯は患者8人に対して医師1人というルールがあるがデイ氏は1人で患者18人を担当することもあったという。他の病棟からヘルプにも呼ばれ、ICUでは医師が不在の状態になることもしばしばあった。

クリス・デイ氏(撮影:伊藤詩織)

そんなある日、病院で医師たちが突然欠勤するという状況に耐えきれなくなったデイ氏は「ICUの医師不足は患者の命に関わる」と病院に改善を申し入れたところ、勤務先の病院から自分が納得できない理由で契約を打ち切られた。

ジュニアドクターが所属する英国保健教育機関に状況を通報したものの、それまで問題のなかった業務リポートに「品行が不十分」と書かれたことを理由にジュニアドクターとしての登録を解除されたという。これはデイ氏にとって医師としてのキャリアが閉ざされることを意味していた。

こうした告発は公益開示法より、通報者の身分が保障されるはずだった。しかしジュニアドクターはその例外とされたのである。デイ氏は法律は自分にも適用されるべきだと英国保健教育機関を提訴。ジュニアドクターの身分の回復を求めた。

仕事を失い、子どもも抱えて裁判を争っていくことはデイ氏にとって大きな負担だった。

「本当に孤独な状態になります。誰も自分を信じてくれないんじゃないか、と絶望の淵に立たされます。何をやっても無駄だ、全部忘れてしまえ、という気にもなりました。でも、『クラウドジャスティス』の存在を知り、希望が見えてきました」

デイ氏の自宅で。小さな子どもを抱えて裁判を始めることは不安だったが、同じ医療の現場で働く看護師の妻の理解とサポートがあり、続けることができたという(撮影:伊藤詩織)

クラウドジャスティスを通して続けることができた闘い

「クラウドジャスティス」は社会正義のための訴訟に関して、個人が寄付金を募ることができるサービスだ。デイ氏はサイトに登録し、こう訴えた。

「患者、そしてジュニアドクターたちを守ってください」

デイ氏の訴えは大きく広がり、2015年から5回のクラウドジャスティス・キャンペーンを立ち上げ、合計約29万ポンド(約3800万円)の寄付金が集まった。

長期間に及ぶ裁判もクラウドジャスティスを通した支援によって続行することができた。デイ氏は「お金以上に得られたものは大きい」と語る。

「人々が賛同してくれると、金銭的支援だけではなく、政治的な追い風にもなります。世論が支持し、一緒に闘ってくれる。お金以外の何かが生まれるんです」

5回の審問を通し、さまざまな変化も生まれた。デイ氏の主張通りにジュニアドクターにも公益開示法適用されるようになった。何よりもデイ氏の当初の訴えだったICUに勤務する医師数も増員され、医療現場の安全の向上にもつながったのだ。

そして現在、デイ氏はジュニアドクターとしての身分も取り戻し、非常勤として働きながら裁判を続けている。

裁判の過程で、デイ氏の主張が認められて制度が変わっていったという(撮影:伊藤詩織)

元国連弁護士が設立したクラウドファンディング

「クラウドジャスティス」は、国連で弁護士をしていたジュリア・サラスキー氏(36)が2015年に創設した。

「国連や法律事務所で働いたあと、どれだけ多くの人々が自分の法的権利を理解したり、弁護士に相談したりすることが難しいのか実感しました。法律が自分を守ってくれるものだと感じていない人が多く、どうすれば司法への間口を広げられるのかと考えました。そこで、テクノロジーを使えば、これまでのバリアがなくなるのではないかと考え、クラウドジャスティス社を始めることにしました」

英国では、法的な問題を抱える人の約7割が、経済的な理由、または長期にわたる裁判への精神的な負担など、さまざまな理由で提訴を断念しているとされる。最大の要因は裁判費用だ。

従来、資金が十分でない人たちの裁判費用集めは、募金活動や銀行からの融資などだった。自宅を抵当に入れて費用を捻出するケースもあったという。

サラスキー氏は、司法に権利救済を求めるニーズとテクノロジーの力を組み合わせようと考え、ITを活用した裁判費用集めを考えた。

クラウドジャスティス社を設立したジュリア・サラスキー氏。2007年から弁護士としてロンドンの法律事務所で仕事を始め、その後、国連のウィーン、ハーグで活躍する。2018年にはフィナンシャルタイムズ、ヨーロピアン・イノベーティブ弁護士アワードを受賞(クラウドジャスティス社提供)

集めた寄付金総額は14億円を超える

これまでにクラウドジャスティスが扱ったケースは600件近く。集まった寄付金総額は約1千万ポンド(約14億5千万円)に上る。ブレグジット(英国のEU離脱)など多くの人々の生活に関わるような公的ケースから街の小さなピザ店で起きた訴訟まで、さまざまなケースを支援してきた。

同社キャンペーン部長のマシュー・ベセル氏は言う。

「私たちは利用者のクラウドファンディング、目標の達成をサポートします。これまで私たちが扱ってきたケースの目標達成率は約75%です」

同社を利用できるのは、すでに弁護士が受任しているケースだけ。やみくもな訴訟を排除するためだという。

「利用者にとってはハードルになりかねないですが、ケースの法的正当性を保つためにも重要なプロセスなのです」

クラウドジャスティス社のマシュー・ベセル氏(撮影:伊藤詩織)

クラウドジャスティスが弁護士の受任を確認し、承認すると、募金キャンペーンを開始することができる。一般的なクラウドファンディングと大きく違うのは「リターン」がないということだ。つまり、純粋な寄付である。

寄付金のうち、クラウドジャスティス社が受け取る手数料は3%。キャンペーン支援、決済サービス料、マネーロンダリングに使われていないかを検証するコンプライアンス費用などに充てられる。さらに決済で利用するサービスの手数料がかかる。

クラウドジャスティスが始まる前にも、アメリカの「Kickstarter」「GoFundMe」などのさまざまなクラウドファンディングのプラットフォームが存在したが、訴訟事案に特化したサービスは存在しなかった。ベセル氏は言う。

「英国の法廷では、今でも裁判官がウィッグ(かつら)を着けて、古色蒼然とした空気があります。市民が利用しづらい雰囲気と思われがちですが、そんな法廷や司法の現場をより多くの人が利用しやすい場所になるようにと思っています」

撤回された仮釈放

性的暴行事件の被害者女性2人の訴えが、英国の司法当局の判断を変えたケースもある。

タクシー運転手が乗客の女性に次々と性的暴行を加えたとされる事件が英国全土を震撼させた。その犯行は長年にわたり、警察が把握しているだけで被害女性は100人近くいるとされる。2009年4月にその一部の事件で有罪判決が下り、運転手は刑務所に収監された。2017年11月、英国の仮釈放委員会が仮釈放を決定。今も明らかになっていないケースもあるなか、被害女性たちに仮釈放の事前通知はされなかった。

仮釈放を決めた仮釈放委員会は英国司法省の外郭団体である。ベセル氏は言う。

「この委員会の判断は激しく批判されました。犯行の残虐さも去ることながら、まだ裁判中の暴行事件もあるためです」

そこで被害女性のうち2人が、仮釈放決定を不服として司法省を相手に異議申し立てを起こした。

「2人の女性と英国の司法省との闘いです。彼女たちは勇気と信念を持った人たちでした。裁判費用をクラウドジャスティスによって募集したところ、驚くことに、2500人以上の人々から6万6千ポンド以上(約960万円)も集まりました」

結果、高等裁判所は女性2人の訴えを認め、仮釈放委員会の決定は覆された。

ロンドンの王立裁判所(撮影:伊藤詩織)

12歳の少年の訴え

クラウドファンディングで裁判費用を集め始めることで、裁判前に事態が動いたケースもある。聴覚障害を持つ12歳の少年、ダニエル・ジリングス君のケースだ。

ベセル氏が説明する。

「ダニエルは英国手話でGCSE(義務教育後の進学希望者に義務付けられた統一試験)を受けられるようにしてほしいと希望していました。苦労しながらも法的根拠を集め、資金を募って訴訟準備を進めてきました。すると、訴訟を起こす前に政府側が譲歩してきたのです。彼の希望をかなえるべく、迅速に検討する、と言ってきました」

クラウドジャスティス社で寄付を募るダニエル君のキャンペーン画面

クラウドファンディングを利用した訴訟案件のアピールは、寄付金を広く集めるだけでなく、世論を喚起するところに特徴がある、とベセル氏は強調する。

「訴訟では当事者が孤立しがちです。でもクラウドジャスティスがあれば、一人じゃなく、何百人、何千人もの人々が同じ価値観を共有し、自分と同じことを問題視してくれていると実感できます。彼らも自分の仲間(コミュニティー)だと感じられるのです」

英国内がメインのクラウドジャスティス社だが、米国やヨーロッパの他の国での訴訟も取り扱っている。クラウドファンディングというインターネットでのプラットフォームであるため、世界中から資金を募ることができる。ベセル氏がいま関心を持っているのは日本だ。

「個人的には、日本のような国、ITがこれだけ普及している国はわれわれが進出するポテンシャルが非常に高いと信じています。ぜひ日本でもクラウドジャスティスを展開したいです」

クラウドジャスティス社の社内風景(撮影:伊藤詩織)

日本でも始まる裁判費用のクラウドファンディング

日本でもすでに一般のクラウドファンディングを活用した裁判費用の資金集めが行われている。

彫り師の男性が客にタトゥーを施した行為が医師法違反に問われた刑事裁判だ。男性は一審の大阪地裁で罰金15万円の判決を受けて控訴した。その裁判に必要な調査費や翻訳費用などを求めて、男性は2018年3月、300万円を目標にクラウドファンディングを行い、目標額を上回る金額を集めて注目された。

さらに裁判費用のクラウドファンディングなど訴訟に特化したサービスも立ち上がった。サービスの名前を「Call4」という。デザインリニューアルを経て、2019年9月9日に正式オープンを予定している。

Call4では、弁護士が受任済みの訴訟案件の原告ないし支援者が、訴訟に関わる費用の寄付を募ることができる。ただしクラウドジャスティス社と違い、対象となる裁判は国や地方公共団体が相手で公共性のあるものに限る。民間人や民間企業を訴えるものは取り扱わない。

寄付者に「リターン」はなく、集まった資金は手数料などの実費を除いて全額、募集者に渡される。サイトでは、同性婚訴訟、カメルーン人男性死亡事件国賠訴訟などの案件が紹介されている。

立ち上げ人の1人、谷口太規弁護士(東京弁護士会)は、米国に留学していた2017年、自らクラウドファンディングで寄付を募った経験がある。

谷口太規弁護士。ソーシャルワーカーでもある。2005年に弁護士登録。公益分野を中心として民事・刑事・行政事件に従事。2015年にフルブライト奨学生としてミシガン大学ソーシャルワーク大学院修士課程に留学。 終了後はミシガン州立の公設弁護人事務所に勤務し、刑務所からの出所者の社会復帰支援に携わる。2018年に帰国し日本での弁護士活動を再開(撮影:菊地健志)

「少年時代に終身刑の判決を受けて、50年以上刑務所に収監されていた人が連邦最高裁の判断で出所できることになったんです。でもいきなり社会に出ても、新生活を始めるお金もない。それでクラウドファンディングで寄付を募ったところ、40万円が集まりました。そのときに、困難な状況にある無名の人を一般市民が支えるクラウドファンディングの素晴らしさがわかりました」

弁護士の「手弁当」では限界がある

谷口弁護士は、日本国内では刑事弁護や難民問題などに長く携わってきた。いずれも資力に乏しい依頼者が多く、谷口弁護士自身も経済的にも精神的にもつらかったという。

「いろんな成果もありましたけれど、果たして自分が寝食削ってやっていることが社会を変えることにつながっているのか、そういう思いもありました。そこで問題の上流、社会のシステムから変えていこうと考えるようになりました。根性論、精神論だけでなく、もっとテクノロジーを使って効率よく変えられないか。それがCall4を設立した動機です」

資力が乏しい依頼者のために弁護士費用をもらわず交通費などの実費だけ、ときには実費すら持ち出しで行う――。公的な課題を扱う訴訟では、そんな「手弁当」の弁護活動が珍しくない。谷口弁護士によると、かつて大きな公害訴訟で現地に移り住んで訴訟に取り組んだ弁護士もいたという。その姿は尊い。尊いが、志ある弁護士の善意にいつまでも頼っていては、後が続かないのではないか。

谷口弁護士の弁護士記章。ひまわりは自由と正義を、中央の天秤は公正と平等を表す(撮影:菊地健志)

「完全ボランティアで弁護活動に注力するのは、日本の弁護士活動の美点だとは思います。でもそうすることができる弁護士はごく限られている。またそういう弁護士が担当しなくて見逃されて、泣き寝入りしてきた『正義』もあると思うんですよ。Call4というテクノロジーは、そういう『正義』もいっぱい拾い上げて、よりよい社会にしていく力になれるんじゃないかと考えています」

社会を変えていく市民の力に

Call4では裁判費用を募るだけではない。案件の背景事情を人物中心に紹介する「ストーリー」というコーナーをサイト上に設け、その裁判自体の周知や社会問題化も狙っている。また訴訟記録を公開して、他の訴訟の参考になるようなアーカイブも目指している。

「お金だけでなくさまざまな人の知識やスキルも持ち寄れるような場にしたい。私たちはCall4をクラウドファンディングサイトではなく、市民の力を集める社会変革のプラットフォームと考えています。Call4の4は、三権(立法、行政、司法)に加えた市民の4番目の力という願いを込めています」


伊藤詩織(いとう・しおり)
ジャーナリスト。平成元年生まれ。ロンドン在住でフリーランスとしてBBC、アルジャジーラ、ロイターなど、主に海外メディアで映像ニュースやドキュメンタリーを発信している。New York Festivals WORLD'S BEST TV&FILMS 2018ではディレクターとして参加したドキュメンタリー番組『Lonely Deaths』(CNA)とカメラマンを担当した『Racing in Cocaine Valley』(Al Jazeera)が2部門で銀賞を受賞。性暴力被害についてのノンフィクション『Black Box』(文藝春秋)は第7回自由報道協会賞大賞を受賞し、5カ国語で翻訳が決定。

神田憲行(かんだ・のりゆき)
1963年、大阪市生まれ。関西大学法学部卒業後、ジャーナリストの故・黒田清氏の事務所に所属。独立後、ノンフィクションライターとして現在に至る。主な著書に『ハノイの純情、サイゴンの夢』『「謎」の進学校 麻布の教え』など。

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