歌舞伎俳優・中村獅童、46歳。肺腺がんから復帰し、歌舞伎、映画、ドラマで活躍する。ブレークを果たしたのは、29歳のときの映画『ピンポン』だった。父が歌舞伎俳優を廃業し、後ろ盾がなかった獅童は、自ら道を切り拓いてきた。初音ミクとコラボした「超歌舞伎」など、歌舞伎界の異端児として、新しい挑戦を続けている。心に刻む、自分の使命とは。(取材・文:関容子/撮影:岡本隆史/Yahoo!ニュース 特集編集部)
(文中敬称略)
闘病生活を経て、芽生えた友情
「がんっていったら、死と直面する病気じゃないですか。5000人のお客さんたちの声援とか拍手とか、揺れるペンライトの光とか、ものすごく美しい風景なんですよ。この風景を眺めるのも、もしかして最後かな……と思ったら、涙が出ちゃって」
2017年5月18日、中村獅童は初期の肺腺がんであることを公表した。その少し前の4月29、30日、「超歌舞伎」の舞台に立っていた。
超歌舞伎はテクノロジーと歌舞伎を融合させる試みで、ボーカロイドキャラクター・初音ミクのデジタル映像と、生身の歌舞伎俳優が舞台の上で共演する。幕張メッセで毎年開かれる「ニコニコ超会議」で2016年から上演され、獅童はその座頭を務めてきた。会場には、歌舞伎を見たことのない若者たちが集まり、ライブのようにペンライトを振る。
超歌舞伎の代表的な演目「今昔饗宴千本桜(はなくらべせんぼんざくら)」は、歌舞伎の「義経千本桜」と初音ミクの代表曲「千本桜」に着想を得て書き下ろされた新作歌舞伎だ。物語の終わり、獅童演じる佐藤四郎兵衛忠信が「数多(あまた)の人の言の葉と桜の色の灯火を」と観客に呼び掛け、演者と観客が一体となって、千年枯れ果てていた千本桜に花を咲かせる。
「『数多の人の言の葉』、つまりみんなの声でよみがえるっていうストーリーなんですね。公演が終わって入院したとき、お客さんたちが千本桜に見立てた造花を贈ってくれたんです。紙で作った花びらや葉っぱ一枚一枚に、『早く元気になって』とメッセージがぎっしり書いてある。それを病室に飾っていました。まさに『数多の人の言の葉』を受け取って、必ず元気になって恩返ししたいと思った」
6月2日、肺の左下葉を切除。手術は成功した。「彼女がいなかったら、僕はもうこの世にいない」と感謝するのが、2015年に結婚した妻の沙織さんだ。健康に無頓着だった獅童に人間ドックを勧め、脳と肺に疑いが見つかると名医を探した。
肺腺がんの前に、脳動脈瘤の手術をしている。「奇跡的にくも膜というのが強かったので、くも膜下出血にならずに済んだんです。もう少し遅くなっていたら、命の危険や後遺症があったかもしれません」と沙織さんは言う。
がんの闘病生活について、沙織さんはこう振り返る。
「主人は『妻がいなかったら』と花を持たせてくれますが、私自身はそんなふうに思えません。主人が手術を受ける決断をしたことが何より大きかったんです。肺を取ると肺活量が減ったりして、今後の仕事に影響が出るのではないかと思い、私はもっと他の方法がないかと迷っていました。でも、『肺は膨らみますから大丈夫です』とお医者様が背中を押してくださった。復帰できたのは、主人が大きな決断をして手術したこと、そしてそこからの頑張りです」
「術後はまともにしゃべることもできなくて、せき込んでのどから血が出たりすることもありましたが、リハビリをして、再発予防の抗がん剤を投与しながら、舞台復帰に向けて稽古をしていました。Twitterでも、『中村獅童に数多の人の言の葉を』というハッシュタグで、皆さんが応援メッセージをくださったんですね。めげることもあったと思いますけど、本当にそういう言葉に励まされて頑張れたんじゃないかなと思います」
実は、がんが発覚したのは、妊娠が分かった3日後だった。
「私はつわりがひどかったので、かえって看病してもらったりもしていました。励まし合いながら、絆が深まったというか。生まれるころには、抗がん剤の投与も終わって、もう復帰公演も終えていましたから、出産にも立ち会ってくれて。本当に、命について考えさせられた半年でした」
2017年11月の巡業公演で舞台復帰。翌年4月には超歌舞伎の舞台に帰ってきた。このときのことを、プロデューサーを務める松竹株式会社の小野里大輔氏に聞いた。
「人気俳優が病後に復帰するとき、『お祭り』という舞踊をやるのが慣習のようになっています。大向う(おおむこう)が『待ってました!』と声を掛けると、役者が『待っていたとはありがてえ』と受ける。『〇〇屋!』と声を掛ける大向うの原点は、興奮して俳優さんに自分の気持ちを伝えたいっていうことだったと思うんです。このときの超歌舞伎で、幕張メッセの5000人が『待ってました!』と叫んだ。江戸歌舞伎のころと共通する光景に思えて、感動しましたね」
獅童はこう言う。
「異様な盛り上がりでした。幕が閉まった後も、みんなが『ありがとう』って言ってくれてんのね。こっちも涙だけど、見てる人たちも泣いている。作り手、役者とお客様の間で、友情が芽生えたんです」
父親の後ろ盾がないという逆境
超歌舞伎だけでなく、絵本を原作にした新作歌舞伎「あらしのよるに」、東京・天王洲の寺田倉庫や新宿歌舞伎町のライブハウスを会場にした「オフシアター歌舞伎」など、獅童はさまざまな新しい挑戦を行ってきた。
「父親が歌舞伎の世界にいるわけじゃないので、父の芝居を守るとか、受け継ぐっていうのが僕にはない。自分ならではの生き方を追求しないと駄目だと思う。映画やドラマにもたくさんチャレンジさせていただいて、そうやって外で培ったことを、歌舞伎にどう返していくか。それが中村獅童の生き方なんじゃないかな」
祖父は三代目中村時蔵。しかし、父である初代獅童が、10代で歌舞伎界から身を引いた。
「歌舞伎役者にとって、父親の後ろ盾がないということは、大きなハンデなんです。でも、物心ついたころにはもう、『隈取りをして、立派な刀を差してみたいな』と思っていた。自分で祖母に頼み、6歳から日本舞踊と長唄を習い始めたんです。歌舞伎には、子どもの心をわしづかみにする魅力があるんでしょうね。今、1歳8カ月になるせがれの陽喜も、隈取りをした僕のポスターを見て、『パパ、パパ』って言ってますから」
叔父は、歌舞伎界から映画の世界に転じ、時代劇で一世を風靡した萬屋錦之介だ。錦之介は、毎年6月に歌舞伎座で萬屋錦之介公演を行っていた。
「叔父が『極付幡随長兵衛(きわめつきばんずいちょうべえ)』をやったことがあって(1994年)。僕も、子分の役で後ろに並んだんです。そのときはまぁ、嬉しかったですね。心強いというか。親と一緒に舞台に出るというのはこういう気持ちなのかな、と思いました」
初舞台を踏んだのは、1981年、8歳のとき。獅童の名を二代目として襲名した。10歳で松竹社長賞を受ける。「そこまではよかったんだけど、それからさっぱり役が付かない」。
中学生になると、自身の不利な立場を自覚していた。同世代の子が自分より格上の役を演じる。それでも、日本舞踊の稽古だけはずっと続けていた。
「(市川)海老蔵さんも同じ稽古場でした。五つ下ですから、彼はまだ子ども。待ち時間に『腕相撲やろうよ』って言ってきたんです。成田屋の坊ちゃんだから、みんな負けてあげてる。『ここで負けたら一生調子に乗られるな』と思ったから、『えいっ!』って負かしてやった。『これが大人ってもんだ。分かったか!』って。いずれ自分を飛び越えて、いい役を持っていくということが分かるから、せめて腕相撲くらい勝っておこうと思ったんです。それからはお友達みたいになりましたね。20代のころですけど、クリスマスに稽古の後、デートに向かっていたら、後ろから彼がずっとついてきて。結局、僕と彼女と3人でご飯を食べたなんてこともありました。『弁天娘女男白浪(べんてんむすめめおのしらなみ)』や『勧進帳』、『六本木歌舞伎』で、今みたいに共演するようになるとは、昔は全く想像しなかったですね」
29歳のとき、運命が変わった
高校時代、うっぷんはロックで晴らした。
「踊りの稽古には、革ジャンに穴開きジーンズで行ってました。祖母の小川ひなは、歌舞伎界のゴッドマザーと言われた厳しい人なんですけど、僕がロックをやることに反対しませんでした。『どんどんおやり。お客の前でいろんなことをやるのは、歌舞伎の舞台にも生きるんだから』って。母親も、僕が不良気分でいるのに、『今日は新宿でライブだ』って言うと、『お弁当は?』なんて。いざライブが始まると、会場の真ん中で踊ってるおばさんがいるんです。顔があまりにも似てるから、獅童のお母さんだってすぐばれちゃう」
祖母の勧めで、大学に進学する。
「もし役者がうまくいかなくても、大学さえ出とけばなんとかなるからって、日大の芸術学部に。でも勘三郎兄さんが、京都や大阪とか、あちこちの芝居に誘ってくださる。『学校があるんですけど』『いいよ、そんなもん』なんて。そのうちあまりにも単位が足りなくて、やめたんです。そしたら兄さん、『え、やめちゃったの? 馬鹿だね、もったいないねえ』なんて」
獅童の役者人生を導いたのが、この、今は亡き十八代目中村勘三郎の存在だ。
「役が付かなくて、『若き日の信長』(1995年)にその他大勢として出ていたとき、『君、いいよ』って肩をつかんでくださったのが、勘三郎兄さん。それから目を掛けてくださった。大阪で芝居の後、必ずみんなで行っていたバーがあって。僕は一番下だったから、隅のほうで話を聞いていたんです。そしたら突然お兄さんが、『あの隅っこで黙ってる男がこれから大きくなるよ』って。何人かが笑ったんですけど、『今笑ったやつは、全員抜かれるよ』って言ったんです。強烈に残ってます、その言葉」
2001年には平成中村座の試演会で、勘三郎が獅童に一日だけ、「義経千本桜」の「四の切(しのきり)」で、主役・狐忠信を演じるチャンスを与えた。花道から引っ込むとき、自然と客席から手拍子が湧き起こった。「初めて確かな手ごたえを感じた瞬間だった」と獅童は振り返る。
2002年の映画『ピンポン』で、一躍ブレークを果たす。29歳だった。スキンヘッドにして、眉毛も剃って向かったオーディションで、役を勝ち取った。
宮藤官九郎が脚本を書いた卓球映画で、最強の選手でありながら、プレッシャーに苦しむドラゴンを演じた。この演技で、日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞する。ドラマ、映画、CMと次々にオファーが舞い込んだ。
「世間の注目を集めたことで、逆輸入みたいに、歌舞伎でも主役級の役がもらえるようになった。知名度ってこういうことなのかと思いました。がらっと運命が変わりましたね。急に大きなお役を次々いただいて、プレッシャーで押しつぶされそうになりました。速度に追い付くのがやっとという状況で、葛藤もありましたけど」
「我慢の時代だった」という20代を振り返ると――。
「あの時代があったから、爆発できたんじゃないかなって。いつか主役をやるって気持ちでずっとやってきた。抑圧が生む芸というか、我慢することがあるからこそ、弾ける瞬間があると思うんです。踊りなんて、ほんとに我慢なんですよ。ものすごく苦しい格好をしてるときが、お客さんから見て、美しい。衣装もかつらも重いですし。我慢して、我慢して、最後にワーッとなる。歌舞伎はそういうところがありますね」
チャンスは自分で掴みに行く
真夏の京都。八月南座超歌舞伎で、熱い舞台が連日繰り広げられている。伝統ある京都四條南座で、獅童はれっきとした座頭の地位にある。南座はとりわけ思い入れの深い場所だという。
「若いころ、南座の12月の顔見世興行で、まだ10分くらいしか出番がなかったとき、泊まっていたホテルの人が部屋に手紙を届けてくれたんです。見ると母からで、『あなたは将来必ずいい役者になれる、と今日の舞台を見て思いました。母は信じています』って」
2015年9月には、南座で獅童が座頭となり、新作歌舞伎「あらしのよるに」を上演した。
「NHKのEテレで絵本を朗読する番組があって、『あらしのよるに』に出合ったんです。いつか歌舞伎にしたいと思っていて、いよいよ実現することになった。そしたら、松竹の方に言われたんです。『15年前、お母様が手書きの企画書を持ってこられて。いつか万一、獅童が自分の出し物をやれるような役者になったら、これをやらせてほしい』って。僕はそんなこと、母から聞いてなかったんですよ。おかげさまで、大入り札止め(満員御礼)。母にお礼を言おうにも、もうあちらへ旅立ってましたからね」
2013年11月、獅童は明治座で「瞼(まぶた)の母」に主演した。会えない母親を思う役どころ。芝居を見た母は「今日の忠太郎は良かったぁ、帰りの電車で思い出して涙が出たわよ。もういつ死んでもいい」と話し、公演が終わってまもなく亡くなった。
勘三郎、そして母。サポート役が旅立った後も、獅童の挑戦は続く。4度目となる超歌舞伎を、いよいよ400年の歴史を持つ南座へ。幕張メッセは毎年2日間のみだったが、南座では約1カ月間の公演だ。
「歌舞伎ってそもそも、その時代ごとに、流行や事件をどんどん取り入れてきたんです。今、みんなが何でもスマホで調べて、自分の意見をインターネット上に発信する時代ですよね。だったら、デジタルと融合した歌舞伎があってもいいと思う。いざやってみたら、隈取りの化粧や衣装の色彩美は、デジタル映像と合わせて全く違和感がない。何百年も前に先人たちの考えたものが、時を超えて、最新技術と融合する。古びることがないんだなと実感しました」
「最初、映像と芝居を合わせていくのは大変だったんですよ。まず、デジタル相手だと、絶対間違えられません。4度目になって、歌舞伎チームもデジタルチームも慣れてきましたね。今回は初めて、ミクさんと宙乗りをやります。サブカルチャー好きの方や若者だけでなく、京都にいらっしゃる古くからの歌舞伎ファンの方にも喜んでいただきたい」
「チャンスは待っていても訪れない」と獅童は言う。
「何でも自分で動かないと駄目ですね。どういう客層かを考えて、自分から企画を出す。遠慮してても何も始まらないから、自分で掴みに行かないと」
八月南座超歌舞伎では、通常公演に加え、「リミテッドバージョン」として、より安い価格設定、短い時間で「今昔饗宴千本桜」を上演する回もある。この回では、主役を澤村國矢が務める。國矢は梨園の出ではなく、子役からスタートした歌舞伎俳優。超歌舞伎の初演のときから敵役として出演し、人気を獲得してきた。
「國矢くんがせっかく若者のハートを掴んできたわけだから、主役をやってもらいたい。勘三郎兄さんは、お弟子さんや若手にどんどんチャンスを与えていたんです。僕なんかがチャンスを与えるなんて言うと偉そうですけど、そういう精神を引き継ぐことが、恩返しなのかなと思います」
「勘三郎兄さんなら、こんなときどうするかっていつも考えるから、僕にはいなくなっちゃった気がしないんです。夢の中にはしょっちゅう出てきて、怒られてばっかり。『あんた、ちゃんとやってよ。下手だねえ』って。怒られるほうがいいんです。怒るってことはいつも見てくれてるってことですから、ありがたいんです」
勘三郎の言葉で、深く心に刻まれているものがある。「君は、歌舞伎を見たことのない人を振り向かせられる」。
「伝統と革新。古典を守りながら、ときには超歌舞伎みたいに、新しいファンを呼び込む。それが僕の使命だと思っています」
中村獅童(なかむら・しどう)
1972年生まれ。東京都出身。祖父は昭和の名花形、三代目中村時蔵。1981年、歌舞伎座で初舞台を踏み、二代目中村獅童を襲名。8月26日まで八月南座超歌舞伎に出演中。
関 容子(せき・ようこ)
エッセイスト。『舞台の神に愛される男たち』『勘三郎伝説』『客席から見染めたひと』など著書多数。