京都精華大学のウスビ・サコ学長は式辞で、生まれ育った西アフリカ、マリ共和国の文化や言葉を織り込む。それも、必ず、である。小雨模様だった今年3月の卒業式は、「マリは乾燥地帯で、雨の日が一番おめでたい。だから本日は、マリ的には非常に天気がいいのです」というあいさつから始まった。4月の入学式では、母語のバンバラ語で「みなさん、故郷の家を出て、新しい家へようこそ」と語り掛けた。世界の広さを感じ、想像してほしいからだという。2018年4月の就任から1年余り。「日本で初のアフリカ出身学長」と話題になったサコ氏は「グローバル」と「ダイバーシティ」を掲げて奔走している。(文・松本創、写真・浜田智則/Yahoo!ニュース 特集編集部)
アフリカ、中南米、南アジア……「留学生を4割に」
「すいません、遅くなって。昨日中に京都へ戻るつもりが、帰れなくなって」
朝からの取材と撮影を依頼していた日、東京出張から直接大学に戻ってきたサコ氏は、30分ほど遅れてタクシーで到着した。いま、53歳。前の日は、ナイジェリアとジャマイカの在日大使館を訪ね、交換留学や大学間連携の話をしてきたという。
「セネガル大使館にも行きたかったけど、うまく予定が合わへんかったから、また今度やな」
マンガ学部を持つことで知られる京都精華大の留学生は、大半が中国や韓国、台湾などの東アジア出身者だ。日本のマンガやアニメーションを学ぶことが目的だという。建築や住空間を専門とするサコ氏が学長になってからは、それを新たな国や分野に広げようとし、アフリカや南アジア、中南米といったエリアも視野に入ってきた。
サコ学長の誕生と同時に、学校法人の理事長になった石田涼氏(57)は、こう言う。
「さまざまな国から提携や交流の話がくるのは、間違いなくサコさんの存在が大きい。ただ、ここまで海外の注目を集めるとは、私たちも思っていませんでした。話題性やグローバル化を狙って出身国や肌の色の異なる人を選んだのではなく、あくまで大学という共同体の一員として、学長にふさわしい人を選挙で選んだだけなので」
サコ氏は、京都精華大に着任して18年になる。
自身は「この大学で、自分が外国人だと意識したことはないし、外国人だから学長に選ばれたとも思っていない」と繰り返し語ってきた。学生の指導や自分の研究だけでなく、大学の校務や対外折衝、さまざまな雑用まで、日本人とまったく同じようにこなしてきたという自負もある。石田氏も「言葉や文化の違いから校務に消極的な外国人教員もいるなかで、サコさんはそう感じさせるところがなかった」と言う。
現在、京都精華大の留学生の割合は10%台。これを「4割にまで高めたい」と、サコ氏は学長になったときから語っている。この春入学した学部生・大学院生は964人で、このうち外国人留学生は322人。33%を占めた。
その新入生たちを前にした入学式で、サコ氏はグローバル化する世界とダイバーシティの必要性を熱っぽく語った。
「グローバル化はテクノロジーの進歩と深く関わります。それによって国や地域を超え、互いが互いの現実について、リアルタイムで話し合えるチャンスが与えられる。世界の若者たちが地球の未来を一緒に考えていくプラットフォームが多様にできており、世界を変革する希望も生まれました。この希望を現実にするためには、他者との違いを認識し、尊重する姿勢を学び、自分の価値観を形成することが求められています」
マリ共和国出身の学長が、日本の古都の小さな芸術系大学を世界へ開こうとしているのだ。
マリ共和国から中国、そして日本へ
サコ氏の人生は変化に富んでいる。
1966年にマリの首都、バマコで生まれた。苦学して税関職員になった父親は厳しく、長男のサコ氏はスパルタ式で育てられた。中学教師だった遠方の親戚宅に小学4年生から預けられ、水道も電気もない家で暮らしたという。炎天下、片道5キロの通学路を歩く。夜はベルトでむち打たれながら勉強した。
「甘えるな」が父の方針だった。
成績優秀で、数学が得意だったサコ氏は、高校卒業時に国費留学生に選ばれた。本人は旧宗主国のフランス行きを望んだものの、行き先はマリ共和国政府が決める。命じられた留学先は、改革開放から間もない中国だった。北京で1年間、中国語を学んだ後、南京工学院(現在の東南大学)に入り、建築を専攻した。この間、留学生排斥運動にも遭遇したという。
1990年、夏休みの旅行で初めて日本に来た。アフリカ人3人による、気ままな旅。長逗留(とうりゅう)した先は、中国で知り合った日本人留学生の実家で、東京の下町の商店街にあった。
そこで日本人の印象が変わったという。
「中国で接していた日本人留学生といえば、レトルトカレーとインスタントのスープばかり食べ、何をするにも効率とお金の話をする。『ロボットみたいな人たち』と思っていた。だけど、その家の人たちは温かくて、すごく人間くさい普段の生活が見えた。お父さんは下着姿で家の中をウロウロしてるし、商店街の人たちも連日、歓迎会を開いてくれる。居心地がよくて、2週間ぐらい居座ったよ」
実は、サコ氏らの滞在が長引くにつれ、その家の人たちは「いつまでいるつもりなんだろうか」と困っていたらしい。だが、はっきり言わないから伝わらない。一方のサコ氏らには特段の予定がなく、急いで中国へ戻る理由もない。
「負担をかけて申し訳ない」という感覚も、当時はなかった。日本の常識を知った今から思えば、「とてもマリ的だった」とサコ氏は笑う。
「結局、その家の人から『京都で祇園祭というのが開かれる。ぜひ見に行ったほうがいい』と強く勧められ、最後は新幹線の切符まで渡された。別に行きたくなかったんやけど、そこまで言うならしゃあないな、と」
ところが、その約1年後、サコ氏は京都に舞い戻ることになる。
中国留学を終えれば、母国で国家公務員になる予定だったのに、国の経済情勢が悪化し、帰国してもすぐに公務員になれる見込みが立たなくなったからだ。それなら再留学を————。そして関西を目指した。
「日本へ来たのはいいけど、日本語もできず、大学院へ入る当てもない。滞在費は3カ月分だけ。大阪の日本語学校に入り、英会話スクールでアルバイトしながら、とにかく必死で勉強した。少し話せるようになったら大学院を探した。いくつかの大学に電話して、教授に会いに行き、自分の研究テーマを話して……。それで京大の大学院に入れることになった」
日本で経験した異文化ゆえの苦労やすれ違いを、今では笑い話として話せる。だが、当初は違った。
言葉の問題だけではない。貧しいアフリカの国の出身であること、黒人であること、イスラム教徒であること……。日本で暮らした28年間、偏見や無理解からくる差別や衝突は、シャワーのように数限りなく経験した。
サコ氏には「日本のお父さん」と呼ぶ人がいる。
京都・西陣で織物会社を経営する小野内悦二郎氏(81)。所属する京都北ロータリークラブがサコ氏の京都大学大学院時代、奨学金の窓口になっていた。小野内氏は海外出張が多く、外国人との接点も多かったため、サコ氏のカウンセラー役を任されていた。
小野内氏は、京都に来た頃のサコ氏をよく覚えている。
「今よりずっと痩せてヒョロリとして、自信がなさそうに見えました。月1回の(ロータリークラブの)例会にサコ君も出席するんですが、誰も近寄ろうとしない。彼が話し掛けても、会員は『英語は分からんから』と逃げるんです。サコ君は『僕は日本語で話しているのになあ』と言うてました。彼が自信なさそうに見えたのは結局、日本人の側がうまく交われないことの裏返しやったんでしょう」
サコ氏はその後、日本人女性と結婚し、2人の息子を育てた。そうしたなかでも、壁や悩みがあった、と小野内氏は振り返る。
しかし、サコ氏は自らの来歴や経験してきた壁を決して深刻に語らない。関西弁でひょうひょうと笑いにくるむ。学長室での取材では、例えば、こんなふうだった。
「いちいち気にしてたら、もう、やってられへんことばっかりですよ。だけど、それらを差別だと僕は思ってない。ただ単に相手を知らない、理解が足りないから起こるだけのこと。マイノリティーが被害者意識を募らせて怒りの声を上げても、なかなか受け入れてもらえない。マジョリティーの側もびびってしまうからね。大事なのは、双方が歩み寄ること。じゃあ、そういう関係をつくっていくにはどうしたらいいかを考えたほうがいいでしょう?」
「違いとともに成長する」の真意とは
京都精華大は、サコ氏の学長就任と同時に「ダイバーシティ推進宣言2018」を発表した。「違いとともに成長する」というその理念に、サコ氏の発想がよく表れている。
「年齢、人種、性別、身体的特徴、性表現など表面的に認識されやすいもの」から「国籍、宗教、家庭環境、出自、働き方、性自認、性的指向など表面からは認識されにくいもの」までを対象とし、それらを理由とした差別や排除が起きないようにするには、どうすればいいのか。その取り組みの方向性を具体的に示した内容だ。
教員の中で女性や外国人の比率を上げるため、同等の能力であれば、他の候補者より優先して採用することが明文化された。同性パートナーのいる教職員にも、男女の夫婦と同等に就業規則が適用されるようになった。
異なる文化や価値観を理解するための学内イベントも継続的に開かれている。サコ氏自身がマリ共和国のカレーをふるまい、祖国の生活や文化を紹介したこともある。
京都精華大学は1968年の開学時から「自由自治」「人格的平等」を掲げ、民主的な大学運営を徹底して追求してきた歴史がある。5学部・4研究科の専任教職員が全員出席する「教職員合同会議」が3カ月に1回。学長・理事選挙の選挙権・被選挙権も、全ての専任教職員に与えられている。かつては、学長から食堂職員や用務員まで一律の給与体系だった時代もある。
そうした流れに沿うかたちで「違いとともに成長する」は登場した。
ダイバーシティ推進センター長を務めた矢澤愛さんは、サコ氏とともに理念の実現に向けて走り回ってきた。
「(サコ氏からは)上下関係を感じることがないし、どんなに意見や立場が違う人でも、とりあえず話を聞こうとしますよね。それと、怒らない。理不尽でつらい自身の体験も、いったん笑いに昇華させて話します。すごいなあ、と」
矢澤さんはシングルマザーで、「働き方という意味ではマイノリティーです」と言う。
矢澤さんが続けた。
「理不尽に直面すると、どうしても怒って、相手を責めてしまうことがあったんです。でも、それだと相手が引いて、逆に伝わらないんですね。サコさんは『楽しくやって、周りを巻き込んでいこう』というやり方。国籍や肌の色だけじゃなく、“違い”の生じる切り口は無数にあって、誰もがマイノリティーになり、不自由を感じる可能性があるんだと思います」
民主主義が進めば多様性を損なう?
1年余り前の取材で、サコ氏は次のようなことを語っていた。学内選挙によって、就任が決まった直後である。
「精華大は民主主義と平等主義が徹底しているから、僕は学長に選ばれた。だけど、民主主義が徹底しているということは、多様性が進んでいないということでもある」
民主主義が進めば多様性も進む――。普通はそう考えそうだ。サコ氏の発想は逆である。この4月、どういう意味なのかを再び尋ねてみた。
「みんなが同等の権利を持ち、平等に扱われるということは、全員が差異のない、平準で無個性な数の一人になってしまう恐れがある、ということ。僕がよく話すしょうが焼き弁当の話のように、個々の宗教的背景や健康状態や好みも全部ないことにして、『平等なんだから全員一緒でいいだろ』となってしまう。民主主義と多様性って、両方実現しようとするのは、なかなか難しいということです」
しょうが焼き弁当の話とは、サコ氏の経験談だ。お昼どきに行われた大学の会議で、「全員、同じ弁当でいいね?」と豚肉のしょうが焼き弁当が用意されたことがある。サコ氏はイスラム教徒であり、豚肉を口にできず、全部捨てたという。
市場原理主義に基づく「グローバル化」は、一方で世界中の人々の個性と多様化を押し殺しているのではないか――。そうした考えが、サコ氏にはある。
昨年10月には、アフリカ初のノーベル文学賞受賞者となったナイジェリアの詩人、ウォーレ・ショインカ氏が京都精華大を訪れ、サコ氏との対談で同じような考えを披露した。「今日、世界の一極化が進むことによって、人間の価値を認めない風潮がもたらされている」「グローバル化によって、マクロでは均質化と一極化が進み、ミクロでは分裂と対立の時代に入った」と。
今年の入学式でサコ氏は、ショインカ氏の言葉を引用し、その一例として祖国で起きた事件を挙げた。
「私の出身国であるマリ共和国でも、つい先月、民族間の対立により、村が焼き打ちされ、150人以上が殺害される事態が起きました。殺し合いがあった民族同士は長年共存し、互いの価値観を尊重してきたはずです」
グローバル化は、因襲的な束縛から個を解放する一方で、地域や民族の対立を顕在化させ、経済や教育の格差を広げ、人々に不安や分断をもたらしている──。学長になる前からサコ氏は、さまざまなところでそう警告を発してきた。だからこそ今、ダイバーシティ、つまり多様な価値観を共存させる努力が必要なのだ、と。
「まずはお互いの違いを認める。みんな同じではないことを知る。そして、個々の存在が自立できるようにする。小さな大学からでも、そこから始めていくしかないんじゃないかなあ」
松本創(まつもと・はじむ)
ノンフィクションライター。新聞記者を経てフリーに。関西を中心に、人物ルポやインタビュー、コラムを執筆。著書に『ふたつの震災 [1・17]の神戸から[3・11]の東北へ』(西岡研介氏との共著)、『誰が「橋下徹」をつくったか 大阪都構想とメディアの迷走』『軌道 福知山線脱線事故 JR西日本を変えた闘い』など。