今季から東北楽天ゴールデンイーグルスの1軍監督に就任した平石洋介(38)。チームの生え抜き1期生選手として現役時代を過ごしたが、目立った成績は残せなかったプレーヤーだ。そんな「無名」選手がなぜ、プロ野球チームの監督というポジションまで上り詰めたのか。そこには、「実績のなさ」というコンプレックスを自身の原動力に変えた努力、そして恩師・星野仙一との出会いがあった。(ライター・神田憲行/Yahoo!ニュース 特集編集部)
(文中敬称略)
1軍監督としての初キャンプ
島の天気は移ろいやすく、曇天、快晴、雨がもれなく毎日やってくる。沖縄県金武町(きんちょう)にある「金武町ベースボールスタジアム」のグラウンドでは、雨が降りやんだのを見計らって若い選手たちが居残り練習に出てきた。今年2月半ば、プロ野球「東北楽天ゴールデンイーグルス」の春季キャンプである。
平石洋介はバックネット裏にある小部屋から新人選手たちがいるあたりを指で示しながら、「ほんま、すごいやつらですわ」と笑った。
「僕の1年目のキャンプのときなんか、先輩への気遣いと緊張で、1カ月で体重が7キロ減りましたもん。今の若い選手なんか減るどころか増えているやつまでいますからね。『逆におまえ、すごいわ』って言いました」
昨シーズンは、途中で監督を辞任した梨田昌孝の後を継いで監督代行に就任。今季から、正式に監督に就任した。その就任を形容するメディアの言葉は多彩だ。「球団初の生え抜き監督」「松坂世代初の監督」「38歳青年監督」……だが本人には「コーチ時代と変わりはない」と気負いはない。
「話し掛けまくる」監督
平石の行動を細かく観察していると、その動きが特徴的なのが分かる。とにかくよく選手に話し掛けるのだ。試合前の練習はもちろん、昨シーズンの試合中でも先発投手の藤平尚真がベンチに戻ってくるや、横に腰掛けてなにか話し込んでいた。このキャンプでも新人、ベテラン関係なく話し掛けている。
ベテラン選手の1人、内野手の藤田一也もやはりこう指摘する。
「コーチ時代もそうだったんですが、監督になられていっそう、選手とのコミュニケーションを大事にされている気がします。楽天の監督って、今までドシッとした方が多かったんですが、平石さんは試合中にベンチの中で反対側に座っている外国人選手にまで話し掛けてました。外国人選手は喜怒哀楽の激しい人が多いので、そういうケアが上手だなと思いました」
楽天は今まで野村克也、星野仙一、梨田と大御所監督が多かった。それだけに平石の腰の軽さが際立つのである。話の内容について平石は「たわいもない冗談も多いですよ」と言うが、藤田には違う印象がある。
「いや、厳しい言葉がけっこうありますね。他の選手に言っていることを聞いたこともありますし、僕自身も言われたことがありますから」
実績のない自分が、監督になっていいのか
選手とのコミュニケーションに注力するのは、平石がたどり着いた指導法の一つ。その背景にあるのは、平石の抱える抜きがたいコンプレックスだ。
先ほど平石を彩るメディアの言葉を紹介したが、あまり大声で語られていない言葉がある。「現役時代のヒット数37本の監督」――。2004年度のドラフト7位で指名され(この年の最下位指名である)、楽天の1期生として入団。11年オフに現役引退するまでの通算7年間の成績は、ヒット37本、本塁打1本、打点10である。ヒット37本というのは、同じように無名選手から阪急ブレーブスの監督になった故・上田利治の56本よりも少ない。
この数字を持ち出すと、平石は「思い出したくもないわ、その数字」と苦笑いを浮かべた。この数字が、現役を引退してすぐコーチ就任の要請を受けた平石を悩ませた。
「当時はそんな成績しか残してないやつの言うことを、選手が聞いてくれるのか、かなり葛藤がありました。日本のプロ野球は素晴らしい成績を残した人が指導者になるじゃないですか。その葛藤、コンプレックスは監督になった今でもゼロではありません」
実績がない指導者として、指導の引き出しの一つとして平石が磨いたのが「コミュニケーション」というわけだ。
「自分のやり方が正解かどうかはわかりませんよ。『監督なんだからもっとどっしりと構えていれば』と言う人もいます。でも、人の言う通りにして失敗するなら、自分が考えた通りにして失敗したほうが後悔が少ないじゃないですか。それに僕はコーチになったとき、自分の言葉に責任を持とうと決めたんです」
コーチの言葉の責任とは何か。現役時代にこんなことがあった。
ある試合で平石が打席に向かおうとすると、コーチから「初球から狙え」と耳打ちされた。打席でその通りにすると凡打に。ベンチに戻ると監督の叱責が待っていた。思わず平石がコーチの姿を目で追うと、ベンチ内からいつの間にか消えていた……。
「そういう嫌な目に遭った選手は少なからずいると思います。だから僕はコーチ就任のときに、ちゃんと言葉の責任も持つコーチになろう、と最初に思ったんです」
イエスマンにはならない
もともと、はっきり物を言う性分ではあった。昔の平石をよく知る人物が大阪にいる。
大阪府藤井寺市、駅近くの商店街に持ち帰り寿司店の「ふじ清」がある。どこの商店街にもあるような、こぢんまりとした地元の人に親しまれている店だ。
店主の清水孝悦は、高校野球界の有名人である。平石の母校・PL学園(大阪府富田林市)のコーチとして、多くの有名選手を指導しプロに送り込んできた。主な教え子に福留孝介、松井稼頭央、今江敏晃らがいる。もちろん平石もその一人だ。高校野球史上屈指の名勝負と語られる98年夏の甲子園準々決勝、横浜高校との延長17回の一戦でも、清水は相手投手の松坂大輔対策で頭をひねり、名勝負の影の演出家と言われた。平石は清水に憧れ、1軍監督に就任したときはわざわざ家族を連れて報告に訪れている。
清水は白い上っ張りとエプロン姿で、「平石はああいうおとなしそうな外見なんですけれど、腹決めたら上のもんにでもハッキリ言うところがあります」とうなづいた。
平石はPL学園でキャプテンだった。
「PLでは毎日の練習メニューを僕が決めてキャプテンに伝えるんですが、僕のメニューに『いや、今日は違うことさせてください』って言いにきたんです。そんなん言うてきたのは、(指を2本折りながら)平石と福留だけですわ。イエスマンにはならない」
「頑固やし短気やけど、(自分の胸を指して)ここが強いです。PLの子はやっぱり最後にここがもの言いますから」
私も高校時代の平石を取材していて、彼に言い返されたことがある。夏の甲子園でそれまで控えだった平石が先発出場した。勝ったあとの取材で「どうして今日は先発メンバーに選ばれたと思う?」という質問に、彼は真っすぐこちらを見て「そういうことは首脳陣に聞いてください」と静かに言った。調子の良さをアピールしてほしかったのだが、言われてみればもっともである。
思いもよらなかった星野の言葉
頑固で腹に決めたことをはっきり具申する平石の性格をかわいがったのは、故・星野仙一だった。
星野は2011年に楽天の監督に就任。平石は2013年から1軍打撃コーチ補佐としてベンチに入った。とはいえ歴史に残る野球人で、コワモテの印象がある星野に近づく勇気はなかなか出ない。きっかけは「バント代打」だった。ある試合中、星野がバントのための代打をコーチに命じた。しかし指名された選手はバントがあまり上手ではないと思った平石は、思い切って初めて、星野に近寄って進言した。
「バントならベンチにいる○○がうまいです。彼を代打でお願いします。やつのバントなら僕は心中できます」
「心中」という時代がかった言い方からして平石らしい。星野は平石の言う通りの選手を起用、バントは成功した。失敗すれば責任を問われる若いコーチの勇気を意気に感じたのか、以降、平石の携帯電話に星野から「晩飯行こうや」と呼び出しがかかるようになった。打撃コーチの田代富雄と3人でテーブルを囲むこともあれば、星野と2人きりのときもあった。
「ご飯食べてても一切野球の話はしない。星野さんが政治とか社会問題の話をされるんです。あの人、すごく勉強されてました。僕はうなずいて聞いているだけでしたけれど」
その中で星野のひとことが平石の胸を打った。
お前、将来は監督になるんやぞーー。
「正直そんなこと考えたこともなかったですから、びっくりしました」
星野の言葉が冷やかしではなかった証拠に、監督を退いて球団の副会長になった星野が平石に用意した仕事が、2軍監督だった。
2軍監督は1軍監督とはまた違う難しさがある。勝利を目指しつつも、若い選手の育成と1軍から落ちてきた主力選手の調整にも充てなければならない。試合の打席一つとっても、若い選手に振るか、元1軍選手に振るか、迷う。平石は2016年に2軍監督を務めて、若手選手を育成しながらイースタンリーグ2位という球団初の結果を出した。それを2年続けた。
「2軍監督の経験はめっちゃでかい。全体的なことも当然見ないといけないし、コーチとのコミュニケーションの取り方とか、気を配るポイントとか、トップに立って初めて分かることがありました。監督になって決断を下していくという体験は、去年監督代行やらしてもらったときに役に立ちました」
指導者になると新たな勉強が必要になる
出会いもあった。1軍内野守備走塁コーチを務める酒井忠晴である。酒井とは球団創設初年度に同じ選手としてプレーしたが、当時はほとんど交流がなかった。それが2軍の監督とコーチという形で仕事をし、今季から1軍の監督とコーチという形で再び陣を組む。平石は10歳年上の酒井を親しみと敬意を込めて「忠さん」と呼び、「忠さんが教えたら、どんな選手でも守備の練習に興味を持ってくれるんですよ」と目を見開く。
酒井に、現役時代の成績が乏しい人が監督になることについて尋ねた。するとちょっとキョトンとした。酒井は「僕は成績を残している人が指導者になったほうがいいかというと、そうでもないと思います。そのへんの成績とかあんまり考えないですね」と言った後、「ぶっちゃけね」と笑った。
「なぜ名選手が必ずしも名監督にならないかというと、指導者になると新たな勉強が必要になるからです。選手時代には自分の感覚だけでプレーしても成功できる。でもその感覚はそのまま他人には教えられないんですよ。だから僕も選手に教えるときに『こんな感覚だよ』という言葉は絶対に発しないようにしています。それだけは避けています」
2軍、1軍と一緒に仕事をしてきて、酒井も指導者としての平石を「厳しい人」と言う。
「すぐ怒るとか怖いとかじゃなくて、当たり前のことを当たり前にできない選手にすごく厳しいですね。監督は特別なものを求めていないんですよ。自分が持っている力を出そうとしない選手に対して、厳しい」
「厳しさ」の裏には自らの教訓が込められている。平石が言う。
「それは僕が失敗、挫折ばかりしていた選手だったからですよ。いろんな失敗のパターンを知っているからこそ、選手には僕と同じことを繰り返させたくない。それが財産とまで言えるか分かりませんが、今の僕はそこです」
「媚び」は売らない
コーチと監督で最も違うもの。それは敗戦の責任を一身に背負う、ということである。負ければメディア、ファンからの批判が真っ先に向かう。ときには理不尽にもそれが家族にまで及ぶ。球団から監督就任の要請があったとき、平石は妻と小学5年生になる長女を呼んで「これから覚悟してくれ」と伝えた。長女は黙ってうなずき、妻は「覚悟なんて最初からできてる」と言ってくれた。
昨シーズンの楽天の成績は58勝82敗3分け、借金24でパ・リーグ最下位に沈んだ。だが平石が監督代行を引き受けたあとの試合に限れば、37勝41敗2分けと健闘を見せている。
「僕みたいな実績のない人間が監督になる。誰に媚び売って監督になったんやと、そう見てる人、いっぱいいると思います。でもいいんですよ、分かってくれる人が分かってくれてたら」
島の天気は移ろいやすい。地面にたたきつけるように激しい雨が降ったかと思うと、雲が割れて日光がグラウンドを照らす。
「さ、アサ(浅村栄斗選手)の特守を見にいってきますわ」
平石はそう言って、帽子をかぶり直して立ち上がった。甲子園の栄光、悔しさにまみれた現役時代、彼の次に待ち受けるのは何か。青年監督の挑戦の1年が始まる。
神田憲行(かんだ・のりゆき)
1963年、大阪市生まれ。関西大学法学部卒業後、ジャーナリストの故・黒田清氏の事務所に所属。独立後、ノンフィクション・ライターとして現在に至る。主な著書に『ハノイの純情、サイゴンの夢』『「謎」の進学校 麻布の教え』など。