障がいのある人にとって、サーフィンなどのマリンスポーツを楽しむのは難しい――。そんな“常識”を軽快に乗り越えてもらおうと、中谷正義さん(50)は挑戦してきた。千葉県や茨城県の海岸を主な舞台とし、障がい当事者のマリンスポーツをサポートする活動を続けている。一緒に海に入った障がい者はこれまで500人以上。「2020年東京オリンピック・パラリンピック」に向けて障がい者スポーツへの理解が進んでいるとはいえ、海にはまだ多くの壁がある。それを溶かす中谷さんのこだわりは「相手を信じ、必要以上のサポートはしない」ことにある。中谷さんが主宰する活動「サーフクラシック」のひと夏を追った。(文・写真:吉田直人/Yahoo!ニュース 特集編集部)
大事なのは「体験したということ」
9月上旬の日曜日、朝6時。
千葉県勝浦市の鵜原(うばら)海岸近くに、中谷さんのワゴン車がやってきた。直前までの悪天候とは打って変わり、空は真っ青。風もやや凪(な)いでいる。波はそれほど大きくないようだ。
既に到着していたサーフィン仲間が近寄ってきた。片足に義足を履く男性、日焼けした女性……。「もう少し(波が)あればいいんだけどなぁ」。短く言葉を交わす。ワゴン車に同乗してきた女性はトランクに積載していた車いすに乗り換え、談笑の輪に加わった。
朝の海岸。サーフクラシックの活動は、いつもこうして始まる。
活動が始まると、中谷さんは代わる代わる、参加者をサーフボードに乗せて沖に向かって引いていく。ちょうどよい波は、いつ来るか。大きすぎず、小さすぎず、かつ、すぐには消えない波だ。
よい波をつかんだ瞬間、中谷さんがボードの後部に飛び乗った。海上を滑り出したボードの前部には、障がい者が乗る。サポートしながらの波乗りだ。
その横では、自身でボードを操る阿部未佳さん(27)が立ったまま波をつかんで滑っていた。彼女は右足首が義足だ。
車いすの寺戸香南子さん(17)はこの日、初めて波に乗った。
脳性麻痺により四肢に機能障がいがあるものの、小中学校は普通学級、現在は都立の定時制高校に通っている。高校では体育の授業に参加できるようになり、バスケットボールやテニス、マラソンに取り組んだという。
母の真代さんは「中学校の体育は全て見学でした。高校に行くようになって、本人も自信が付いてきたみたいです。私にもできるんだ、と」と話す。
日常生活や体育の授業とは違ったアクティビティーを――。そんな父・洋輔さんの後押しもあって、次に選んだのが“本当の海”だった。
洋輔さんは言う。
「『どうせやっても無理だろう、受け入れてくれないだろう』と、こもっていた殻が破れて、変わってくる可能性があると思っています。サーフィンを通じて、自分の可能性が膨らむ。そこが魅力だと思いました」
「今日をきっかけにサーフィンを好きになってもいいし、怖ければ浮かぶだけでもいい。大事なことはこういう体験をした、ということ。(娘の)笑顔が見られたので、それに勝るものはないです」
「ユウタ、立ったよ!」
6歳の岡優太君も、この日初めて波に乗った。
先天性の聴覚障がいと、脳性麻痺による下肢機能障がいがあり、日常生活では脚部に装具を付けて歩く。聞こえの程度は両耳が120デシベル。高い音には反応ができないという。
母の晴美さんは、2年前から「サーフクラシック」を知っていたという。なかなか都合がつかず、この日が初参加。勝浦に宿泊中、偶然この日の活動を知り、飛び入り参加した。
晴美さんも父の大介さんもサーファーだ。優太君がサーフィンに興味を持ち始めたことにも気づいていた。ただ、「脚が悪いので、(ボードには)立てない」と思っていた。
優太君の番が来た。
ボードを押して沖へ向かった中谷さんは後部に乗る。前部には優太君。手を添えて立たせたまま波に乗り、パッと離すと、スタンディングの状態で波打ち際まで帰ってきた。
これを数回繰り返した。その波の合間を、義足の阿部さんのボードが縫っていく。
後日の取材で晴美さんはこう言った。
「あのときの優太の笑顔が忘れられないです。翌日も、ろう学校に行くなり、友達に自慢したみたいです。『ユウタ、立ったよ!』って。突然『立ったよ!』と言われて友達も混乱してしまったみたいで……。その後、今回のサーフィンのことを話したようですが(笑)」
「サーフクラシックの中谷さんは、義務感とか、使命感で活動しているというよりは、自然にやっているように感じましたね」
名前も障がいも知らず、海に入れていた
サーフクラシックの原点は、東日本大震災にある。
建設会社で働く中谷さんは震災後、仮設住宅の建設工事のため、宮城県多賀城市を中心に何度も被災地に足を運んでいた。一方、趣味で続けていたサーフィンは、ショップからサポートを受けるほどの腕前だ。
「あのころは、テレビをつければ津波の映像が流れていました。道路は少しずつ整備されていたけど、車が民家に突っ込んだままだったり、木にぶら下がっていたり。サーファーの仲間でもボランティアで現地に入っていたやつがいて、毎日のように電話しては、泣いてた」
震災からしばらく時間が過ぎても、「何かできることはないか」という思いは消えなかった。
「あの時期は、『自分に何かできることは』と思っている人が多かった。俺もその一人だった。仮設住宅の工事を終えて普段の生活に戻っても、その思いは残り続けてた」
そんなころ、サーフィンスクールの生徒を通じて、障がい当事者のマリンスポーツを支援する団体を知った。団体代表も脊髄損傷で元サーファー。中谷さんは「サーフィンのスキルはあるから」とボランティアとして参加するようになった。
中谷さんが言う。
「初めてサポートしたのは車いすの方だったんだけど、波に乗ったとき、たまたま横にいたサーファーと波長が合ったようで、ものすごく喜んでね」
ただ、このままでいいのかな、と思うこともあった。中谷さんは参加者の名前も、障がいの程度も知らないまま、「ただ海に入れるサポート」をしていたからだ。それもあって、その後に個人として「サーフクラシック」を始めたときは「参加者と密なコミュニケーションを取る」ことをとても大切にした。
事前に参加者や保護者と話し、障がいの程度をしっかり聞き、「できること、できないこと」を把握しておく。親しい医療関係者にアドバイスを求める。そして、当日は事前に得た情報をもとに「必要な分だけ」をサポートするという。
もちろん、中谷さんも一緒に海を楽しむ。
「一から十まで、と思っていました」
サーフクラシックの活動に共感し、サポートする人々も増えてきた。
三ツ橋剛矢さん(46)もその一人だ。CMなどのキャスティング会社を経営する傍ら、20代で始めたサーフィンを今も楽しんでいる。SNSでサーフクラシックの活動を知ったことで、中谷さんとの接点ができた。
「『良い活動してますね、頑張ってください』とメールしたら、即座に『遊びにくれば?』と返信が来て。行ってみると、車いすの女性が2人いて、1人は車いす生活になってから初めて波に乗る日でした。天気も波も良くて、彼女たちの笑顔も良くて。それがきっかけで手伝うようになりました」
三ツ橋さんが一緒に海に入ることも多い。タンデムで波に乗ることもある。
「いろいろな障がいのある方が参加されるんですが、みんな、笑顔が素敵です。海に入って、ちょっと世界が開けた、という感覚なのかなと思います」
神奈川県藤沢市を拠点にマリンスポーツ用品の製造・販売を行う「バズコーポレーション」代表の内田美智子さんは、道具の面でサーフクラシックを支えている。かつてはプロのボディーボーダー。その経験を生かし、「慣れ親しんだマリンスポーツを通じて社会貢献ができないか」と思っていた際、中谷さんに出会った。
活動を初めて見たとき、内田さんは驚いたという。
「必要以上に手助けしないんです。一から十まで手取り足取りなのかな、と思っていたら、想像と全く違って……。中谷さんに『何も変わらないんですよ』と言われて、ハッとしました。障がいの有無にかかわらず、私たちは同じ人間ですよね? 必要以上に手を貸したり、心配したりするのではなくて、自然に付き合えばいいんだな、と」
忘れられないメッセージ
サーフクラシックの活動で、中谷さんには忘れられない波乗りがある。
一つは4年前、脳性麻痺の双子の兄弟と海に入ったときだ。
1人は半身麻痺だが、自力で歩くことができるため、中谷さんと一緒に沖に出て波に乗った。もう1人は、より症状が重く、普段はベッドタイプの車いすで生活し、視覚に障がいがある。会話も難しかった。だから、サーフボードではなく、カヌーに乗せ、父親が抱いて3人で海に出た。
中谷さんは言う。
「会話は難しいけど、カヌーで20分くらい波に揺られている間、その子が終始、あー、うー、って声を発していて。それが本当に心地よくて、ゆったりとした歌を聴いているような感覚だった」
当時、その男子は12歳。
「海から上がって着替えた後に、お母さんが俺のところに来てこう言った。『12年間で初めて、“緊張”がなさすぎて、抱っこができなかった』と。脳性麻痺の人は『筋緊張』といって、環境が変わったりすると、関節が固まってしまうことがある。でも、海から上がった後は、お母さんが驚くほど筋緊張がなくて、身体がフニャフニャだったんだ。相当リラックスしてたんだろう、と。それは俺にとって、今でもその子からのメッセージだと思ってる」
創意工夫で実現した“2人の波乗り”
もう一つの忘れられない波乗り。それは今年7月、桐生寛子さん(35)との出来事だった。桐生さんは8年前、スノーボード中の事故で脊髄を損傷。下腹部から下が麻痺し、動かすことができない。
いつもは、桐生さんがボードにうつぶせで乗り、その後ろに中谷さんが乗る。波に乗って浅瀬まで来るとボードから降りる。
その後、再びパドリングで沖に向かう際、上半身は自力でボードに乗ることができるが、不自由な脚が残ってしまう。だからその都度、誰かに手伝ってもらい、脚をボードに乗せる必要があった。
ある時、別の脊髄損傷の参加者から、コツを教わったという。ボードを前方に送り出すとき後部から這うようにして乗れば、脚が残らずに全身が乗る。試してみると、6回成功した。
中谷さんが振り返る。
「そのときは泣いたね。簡単なようで難しい。これができると、波や浅瀬の状況にもよるけど、声は掛けても手を貸さないで波乗りを完結できる。最後は、俺も自分のボードを持ってきて、2人で同じ波に乗った。それって、すごいことなんだ」
桐生さんは、中谷さんと最も多く海に入っている。5、6年前、中谷さんがまだボランティアとして波乗りのサポートをしていたころからの付き合いだ。
初めて波に乗ったときのことを、桐生さんは「何というか……普通に気持ち良かったですね。『あ、海に入ってるんだ』って。ちょっと信じられない気分でした」と振り返る。
仕事でのストレスに加え、自身の障がいを心理的に受容できなくなり、うつ病を発症。連絡が途切れた期間もあったという。病が晴れると、中谷さんから「また来なよ」と連絡があり、昨年夏、久しぶりに海に入った。
それから毎回のように参加している。
「普段生活していると、(周囲の人から)『若いのに、かわいそう』と言われたり、一歩引いて見られたりするときもあります。でも、中谷さんは、障がい者として接していないんですよね。だから、健常のときも、障がいがあっても、(人として自分は)何も変わんないのかも、って思うようになりました」
「誰かに何かはできる」
今年5月18日と9月23日の2回、「日本障害者サーフィン協会(JASO)」主催のアダプティブ・サーフィン(=障がい者サーフィン)の競技会が、千葉県の太東(たいとう)海岸であった。サーフクラシックからも、桐生さんを含む数人が選手として出場した。
選手として力を付けようと思う人、視野を広げようとする人、単純に海を楽しみたいという人、どんな形でもいいから障がい者をサポートしようという人……。サーフクラシックは、そうした人たちの交流の場になった。
中谷さんには夢があるという。
「さまざまな障がい者と、日本で一番海に入る人になること。そして、それを全国でやること。それは活動を継続していくことにもつながる。要は“イベントとしての海”じゃなく、“日常的な海”を提供したい」
現在の活動は、人手や経費の問題もあって、主に千葉県や茨城県の海に限られている。それでも、SNSによって、活動は広がってきた。北海道、宮城県、長野県、大阪府、そして沖縄県。連絡はあちこちから来る。
「去年は三重で活動して、少しずつ範囲を広げられるようになってきた。全国でサーフクラシックの活動をすることで、同じような活動をする人や、海を諦めていた人の選択肢が増えればいいな、と」
“すべての人に何かはできなくても、誰かに何かはできる”
中谷さんの好きな言葉だ。
「もちろん、すべての人を1人で海に入れることなんてできない。けれど、自分の周りにいる人たちに対しては、俺は、何かができる。サーフィンは難しいよ。波は毎回状況が違うからね。でも、難しいからこそ、面白いよ」
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吉田直人(よしだ・なおと)
1989年、千葉県生まれ。2017年にフリーランス・ライターとして独立。
[動画]
撮影・編集:吉田直人
協力:D・R・A/Masahiro Mukaeda、音楽:キリハレバレ