森山憲一

「人生の中に山登りがある」――クライマー佐藤裕介が「悔悟」から見た新しい風景

10/10(水) 7:14 配信

今、日本でもっとも世界に誇れる登山家は誰か。登山関係者の答えは、ほぼ一致する。佐藤裕介だ。今年、39歳になる。国内トップとして、世界からも尊敬を集める。だが、その圧倒的な支持の割に、この6年間、彼がテレビや雑誌に露出することはほとんどと言っていいほどなかった。その理由は、ある「傷」を負ったからだ。口を閉ざし続けてきた登山家に、あのときのこと、そして、あれからのことを聞いた。(ライター・中村計/Yahoo!ニュース 特集編集部)

山岳界でもっとも権威ある賞を受賞

登山家・佐藤裕介(撮影:森山憲一)

頂上から360度見渡すと、まるで仙人の住処(すみか)のような光景である。木々の間から、無数の岩の壁や柱が突き出ている。

山梨県北部にある瑞牆山(みずがきやま、2230m)は、国内屈指の岩山だ。登山シーズンの週末ともなれば、そこかしこの岩をクライマーがよじ登っている。

この地は、世界的なクライマー・佐藤裕介のホームでもある。

ある夏の日、佐藤は一人の客を伴い、瑞牆山を登っていた。先頭を行く佐藤は、何度も後ろを振り返り、コンスタントに休憩を入れていく。また、ところどころで立ち止まり、面前の岩への取り付き方を客にレクチャーする。

ガイドの仕事は、ひと昔前まで「山を飯のタネにしている」と山岳界で快く思われていなかったが、近年は佐藤のように前向きにとらえる登山家が増えた(撮影:森山憲一)

才能に恵まれた登山家は、往々にしてエゴイスティックなものだ。初・中級者を相手に懇切丁寧に指導する佐藤の姿は意外に映った。

「僕も昔は、ガイドの仕事は自分の登山を諦めた人がやるものだと思っていた。でも、ガイドをやりながらでも、自分の登山を続けている人が少しずつ出てきて。やり方によってはできるんだな、って思い始めたんです」

あるお客さんは「佐藤さんに教えてもらえるなんて、超ラッキーですよ」と興奮気味に語った(撮影:森山憲一)

佐藤のツアーは1人から4人の少人数がほとんど。「それくらいでないと責任を持って教えきれない」という(撮影:森山憲一)

甲府市内の団地で生まれ育った佐藤は、釣りや木登りなど野外で遊ぶことが大好きな少年だった。本格的に登山を始めた甲府第一高校時代は、部員が少なく休部寸前だった山岳部を盛り立て、クラスメイトからは「山岳クン」と呼ばれていた。金沢工業大学に進学し、地元の社会人山岳会「めっこ山岳会」で経験を積んだ。

大学卒業後は、父の経営する環境調査を行う小さな会社に勤めながら、海外遠征にも頻繁に出かけるようになる。佐藤の名前が世界に知れ渡ったのは09年。佐藤を含む3人の日本隊によるインド・カランカ北壁の初登頂が評価され、世界の山岳界で最も権威のある「ピオレドール賞」を3人が受賞したことがきっかけだった。フランスの山岳団体と山岳雑誌が主催する同賞の受賞は、日本人としては初めてでもあった。

人生を一変させた「事件」

日本を代表する登山家として地歩を固めつつあった佐藤の人生を一変させる「事件」が起きたのは、2012年7月15日のことである。

「那智の滝」は紀伊半島のほぼ南端、和歌山県那智勝浦町にある日本三名瀑(めいばく)のうちの一つだ。落ち口から滝つぼまで133メートル。ほぼ垂直に落ちる直瀑で、段差のない滝として高低差は国内最大でもある。

那智山中の入口には「那智御滝 飛瀧(ひろう)神社」の看板がある。大鳥居をくぐり、そこから原始時代を思わす巨大な古木の間を歩くこと数十メートル、木々の合間に大きな滝が姿を見せる。滝口には、しめ縄がかかっていた。那智の滝は、熊野三山の一つ、那智熊野大社の別宮である飛瀧神社のご神体であり、世界遺産にも登録されている。

佐藤レベルのクライマーは、ときに米粒程度の突起でも、それを利用し壁をよじ登る(撮影:森山憲一)

佐藤が振り返る。

「那智の滝の名前くらいは聞いたことがありましたけど、実際に見たことはなかった。ただ、観光地として有名だし、あの滝は(登ることは)無理だろうな……ぐらいの認識でした」

そんな滝の真ん中よりやや上に、複数の人がへばりついているのを観光客が見つけたのは、朝7時半ごろだった。

それが佐藤ら3人の登山家たちだった。当時の雑誌記事などによれば、報告を受けた宮司らは拡声器を手に下りてこいと怒号を響かせたという。

佐藤は安全確保の動作が素早いため、用心深いにもかかわらず誰よりもスピーディーに登れる(撮影:森山憲一)

彼らが那智の滝を登るにいたった経緯は、こうだ。

「沢や」と呼ばれる、沢(川や滝)づたいに山を登ることが好きな登山家13人が、7月14日から16日までの3連休に奈良県・池原ダムに集まって交流会を開くことになった。佐藤もその中にいた。佐藤は沢登りを含むあらゆるジャンルの登山に精通している。

彼らは四つのパーティーに分かれ、それぞれに周辺でアタックする地点を検討した。そのリストの中に那智の滝もあったのだ。佐藤が話す。

「『マジか?』って思ったんですけど、せっかくだから行ってみるか、くらいの乗りでした。3人で組んだの、あのときが初めてだったんですけど、3人とも沢登りに対する情熱が強くて、異様に盛り上がってしまった。宮司さんに怒られるだろうな、くらいは思ってましたけど、あそこまで事が大きくなるとは思ってなかったですね」

那智の滝を登って逮捕される

結果、3人は警察に通報され、滝を下りたあとに現行犯逮捕された。神社所有の立ち入り禁止区域に入ったことによる軽犯罪法違反と礼拝所不敬の容疑だった。

世界的なクライマーである佐藤ら3人が捕まったというニュースは、SNSなどで瞬く間に拡散した。どれも佐藤らを徹底的に叩く内容だった。

そんななか、登山専門誌「岳人」の編集者であり、サバイバル登山家として多数の著書を持つ服部文祥は数少ない擁護派だった。

「正直、僕は、何がいけないのか分からなかった。滝がそもそも誰のものかというのも分からなかったですし。歴史的に昔から宗教の対象だったと言われても、登山はもっと前からあったという言い方もできる。登るという行為が信仰を汚すとも思わなかった。山岳信仰の象徴である富士山も、みんな登ってるじゃないですか。命懸けで滝を登るほうが信仰の対象に近づいてるという言い方もできる。佐藤君たちはボルトで穴を開けるわけでもなく、ものすごくクリーンに登っていますしね」

スポーツクライミングと登山のいちばんの違いは危険度の高さ。登山はこの指先に自分の命が懸かっている(撮影:森山憲一)

注釈を加えると、佐藤は、ドリルで穴を開けボルトを打つような登山は絶対にしない。ハーケンは利用するが、ハーケンは岩の隙間に差し込んで使うため、壁に大きな傷を付けることはない。服部が続ける。

「大仏に登っちゃって、信仰を汚していると言われるのは分かるんです。でも、滝は自然の一部じゃないですか。佐藤君たちにとっては『山』ですから。ただ、大社の人たちからしたら滝も『大仏』と同じだったんでしょうね。そういう両者の視点のギャップを冷静に分析する記事があってもよかった。ただ、何となくあっちの方が悪そうだからとみんなで叩いて、登山関係者も何の擁護もしなかった。あのとき、誰も登山の本質なんて分かってないんだなと思いましたね。そもそも登山なんて、大昔から、人間がつくった決まりごとの及ばない自然の中でやってきたことなわけですから。人間ではなく、山や獣に怒られるっていうのなら、分かるんですけどね」

探検家であり作家でもある角幡唯介は『新・冒険論』の中で、この事件について「登攀(とうはん)者の倫理としては一分の隙もないほど完璧だった」と書いている。

〈誰も手をつけていない最も大きくて美しい滝を登るという行為の中にこそ、誰もが経験していない人類未踏の危険と創造性がひそんでいるわけで、その危険と創造性の中でこそ究極の自由は経験できる。この登攀者の倫理を突きつめると、逆に那智の滝を登らないクライマーのほうがクライマーとしておかしいということになる〉

角幡の論はクライマー側の極論ではあるが、登山という行為がときに人間がつくった約束事を犯しかねない行為であると見事に指摘している。

質素な生活を送る佐藤は「お世話になっている企業はありますが、自分から積極的に探したことはありません」と語る(撮影:森山憲一)

「独りよがりな価値観があった」と猛省

とはいえ、佐藤の生活は、社会とまったく無縁でいられるわけではない。やはり社会人としてはあまりにも軽率な行動だった。逮捕された翌週、佐藤ら3人は頭を丸めて謝罪に出向き、このようなことは二度としないという誓約書を提出。和歌山地検新宮支部は10月3日、3人を起訴猶予処分とした。

佐藤はこう反省する。

「潜在意識の中に、自分たちのやっていることは悪いことではないというのがあった。でも、あの滝を登るという行為は、那智大社の人はもちろん、地域の方々からしたら、大事にしているものを汚されたとか、侮辱されたと思わせる行為だった。そういう他人の気持ちを考える余地がなく、自己完結してました。もうちょっと、考えればよかった……。今思えば、『沢や』としての独りよがりな価値観があった」

事件後、山をやめなければという思いがよぎったこともあったのかと問うと、佐藤はにわかに強い視線を返し、挑むような口調でこう言った。

「ないです。まったくないですね。山をやめることが、那智大社の方々への謝罪になるとは思ってないので」

スポンサーが契約を解除

事件をきっかけに佐藤はザ・ノース・フェイスからスポンサー契約を解除された。

「それは(経済的には)厳しくなりましたよ。でも、僕がやっている登山は、装備も人数も極力抑える登山なので、そこまでお金はかからないんです。質素に生活していれば、遠征にも行ける」

ザ・ノース・フェイスとも、完全に縁が切れたわけではなかった。金銭的な援助は打ち切られたが「フィールド・テスター」として、今も物品の提供だけは受け続けている。

通常の体重は60キロ程度。ハードな岩山をやるときは56キロまで減量し、冬山をやるときは66キロまで増量する(撮影:森山憲一)

登山が他のスポーツと一線を画すのは、審判が存在しないところだ。強いて言えば、自分こそが審判なのだ。それゆえ思索的になりがちで、ときに宗教めいた領域に足を踏み込まざるを得なくなる。佐藤が語る。

「沢を登っていて、大きな滝が目の前に現れたら、そりゃ、神々しいんですよ。そういう自然が大好きですし、だからこそ敬いながら、いつも登っていたつもりなんです。滝を傷付けないよう、ボルトも打ったことがない。ハーケンなども自分たちで回収できる範囲でしか使いません。自然のものを自然に近い形で登る行為は、自然に対するリスペクトでもあって、一種の信仰のようなものだとさえ思っていた」

2015年、佐藤は瑞牆山の通称「モアイフェース」という岩壁に挑戦した。死の危険性もある世界的な難所で、登攀に成功したのは佐藤が2人目(撮影:森山憲一)

「モアイフェース」を登る佐藤(撮影:森山憲一)

ご神体に登るという行為は、その敬虔さが、裏目に出たのだともいえる。

「宮司さんには、『(滝を)征服してやろうと思ってたんだな』って言われたんですけど、そういう気持ちはなかった。自然に飛び込みたいとか、自然を感じたいというのはあっても」

あのとき小学1年生だった娘には、時間を置いてから、自分の口で説明したという。

「お父さんは山を登っているのが純粋に大好きで……ということは小さいころから言い聞かせていた。それで那智の滝っていう、登る状況にない滝を登っちゃって逮捕されたっていうのも分かってます。ネットでも、こういうふうに書かれちゃうんだよ、って。『佐藤裕介』で検索したら、必ず『那智の滝』って出てきちゃう。でも、裸踊りとかはやってないからね、って」

事件当時、佐藤はネットメディア上で、遅くまで山でどんちゃん騒ぎをし、女性に全裸を見せ付けていたことがあるなどのデマを流されていた。

「晴れた日に家にいるのは罪悪感がある」と言われたため、佐藤のインタビューは大雨の日に行われた(撮影:中村計)

「人生の中に山登りがある」

佐藤が登山ガイドの仕事を始めたのは、事件の2年後である。以前よりも自由に休みを取れるようになり、長期遠征にも出掛けられるようになった。

「那智の滝のあと、登山内容が停滞したかといえば、そんなことはなかった。2008年からずっと取り組んできた厳冬期の黒部横断も、事件があった年の冬、5年越しで成功させることができました。それと、昔から憧れていた台湾の恰堪溪(チャーカンシー)の初遡行もできて、登山自体は充実していました」

瑞牆山の通称「モアイフェース」で(撮影:森山憲一)

あの事件の後も、佐藤は佐藤のままだった。その理由をこう語る。

「那智大社の宮司さんに、これからは自然に対し尊敬の念を持って生きていきなさいと言われた。それは、今までもそうだったんですけど、僕にとっては登山を続けていくことなので」

若いころは自分が30歳を過ぎても登山をする姿は想像できなかったという。でも、ここ数年、見える景色がガラリと変わった。

「(登山スタイルの)変化はあっても、山とはずっと付き合っていけるという確信が生まれた。だったら、山で飯を食っていってもいいかなとガイド業のことを真剣に考え始めたんです。登山は一つの課題をこなしたから終わりというものではない。人生の中に山登りがあるんで」

あの「事件」から6年――。客の歩幅に合わせ、のんびりと登山を楽しむ佐藤の背中には、強さと、そして、しなやかさが備わっていた。

今も最前線で登り続ける佐藤は「30歳まで生きていられるとは思っていなかった」と振り返る。すでに10人以上の知人が山で亡くなっているという(撮影:森山憲一)

(敬称略)


佐藤裕介(さとう・ゆうすけ)
1979年、山梨県甲府市生まれ。高校山岳部で登山、クライミングを開始。フリー、アルパイン、アイス、沢登りなど幅広いジャンルで登山、クライミングを行っている。2009年、ピオレドール賞を受賞。公益社団法人日本山岳ガイド協会の山岳ガイドステージⅡの資格を持つ。


中村計(なかむら・けい)
1973年、千葉県船橋市生まれ。同志社大学法学部卒。スポーツ新聞記者を経て独立。スポーツをはじめとするノンフィクションをメインに活躍する。『甲子園が割れた日』(新潮社)でミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞、『勝ち過ぎた監督 駒大苫小牧 幻の三連覇』(集英社)で講談社ノンフィクション賞受賞。


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