三代達也(みよ・たつや)さん(29)は、今年5月、世界23カ国42都市を巡る232日間の旅を終え、帰国した。介助者をつけない、車いすでの一人旅だ。石畳の道で前輪が外れたり、観光地の昇降機が壊れていたり。「ダメか」と思うと誰かが現れて、乗り越える手助けをしてくれた。人は思いのほか、やさしい――。帰国した今、そんな気付きを発信している。(ノンフィクションライター・古川雅子/Yahoo!ニュース 特集編集部)
人気の観光地、車いすでどこまで行けるか
海岸線を走っていた国道が、海へとせり出す。全国でも珍しい、海の上を走る道路だ。
茨城県日立市の国道6号日立バイパス。運転する三代達也さんは、海沿いのパーキングエリアに車を止めると、後部座席から車いすを取り出した。メインフレームはチタンでできていて、重さ9キロ弱と軽い。広げて地面に置く。脚を腕で持ち上げて車の外に出し、体の向きを変える。188センチ、70キロの大きな体を腕の力だけでは持ち上げることができない。上半身を振って勢いをつけ、ここというタイミングで腕に力を込めて、ドンッと車いすへ乗り移る。
三代さんは、18歳のときに交通事故で頸髄を損傷した。四肢に麻痺が残り、車いすで生活する。
そんな三代さんが世界一周へと旅立ったのは昨年8月だった。介助者をつけない、車いすでの一人旅だ。232日間(一時帰国期間を除く)、23カ国42都市を巡る旅は、今年5月に完結した。
帰国して最初のブログにこう綴った。「『旅して人生変わった!』なんて安いキャッチコピーのようなことが本当に起きてしまった」
太平洋を望みながら、旅の話を聞く。
「『はじめまして』の土地を訪れるワクワク感はあります。でもそれは1割。残りの9割はやっぱり不安でした。『いいね!』が付いているお薦めスポットに行ってみたら、入り口に段差があって僕にとっては『よくないね!』だったり。道端でつまずいて前のめりに車いすから落ちてしまって、抱え起こしてくれそうな人が通り掛かるまで待つしかなかったり。何をするにも時間は掛かりました」
車いすで見知らぬ土地に行けば、さまざまなバリアがあることは予想できる。それでも三代さんは世界一周を自ら企画し、パルテノン神殿が立つ丘を登り、世界遺産マチュピチュの絶景を楽しみ、ウユニ塩湖に車いすで降り立った。
あえて人気の観光地を選んだのは、旅の目的が「伝えること」だったからだ。その町がどんな地形か。車いすでどこまでアクセスできるか。何を断念したか。どんな失敗をしたか。誰がどんなふうに助けてくれたか。
「不安で旅を諦めている車いすの人はたくさんいる。そんな人たちに一歩踏み出す勇気を与えたい」と三代さんは言う。
日本を出て2週間後のこと。イタリア中部の古都フィレンツェの路上で、突如、右の前輪が外れた。何かしようにも車いすは全く動かない。「早くも帰国か?」。しばらく放心状態のまま、道端に転がる前輪を見つめていた。
「トラブル?」。声を掛けてきたイタリア人の4人家族がいた。前輪部分をのぞき込んでいたお父さんがこう言った。「ネジが1本ない。固定するためのレンチも要る」
家族総出でネジ探しが始まった。少し離れた所で子どもたちから「あった!」と声が上がった。お母さんは、工具を持ったスポーツ用品店の店主を連れて戻ってきた。店主がネジを締める。車いすは再び動いた。三代さんは思わず叫んだ。「グラッツェ(ありがとう)!」
家族や店主とハイタッチを交わす。周りを取り囲んでいた人たちにも祝福ムードがあふれた。三代さんはこう言う。
「気付いたら、涙が出てたんですよ。ホッとしたし、そこにいた人たちの気持ちがありがたくて。思わぬ出会いがあって、前へ進める。お金をとられたりしたこともあったけど、嫌なことが帳消しになるぐらい、心が熱くなる出来事も起こる。旅って、僕の人生と同じだなと」
「これが限界」一生車いすを受け入れた
三代さんは、18歳になったばかりの冬、バイト先からバイクで帰宅途中に自動車と衝突。首の骨を折り、頸髄を損傷した。人間の背骨には脊髄と呼ばれる太い神経の束があり、頸髄はその上のほう、首の辺りを指す。頸髄を損傷すると、首から下に脳からの指令が伝わらない状態になり、体に麻痺が残る。
三代さんは医師から「運がよければ車いすで動けるようになるかもしれませんが、おそらく一生ベッドでの生活になるでしょう」と告げられた。むせび泣く家族の横で、三代さんは、涙も流さずに医師の言葉を聞いた。そのときの気持ちをこう語る。
「事故の前日には、当時付き合っていた彼女とディズニーランドに行く計画をしていた。『あなたは今日から障がい者です』と言われても現実味なんかなかった」
入院中、父に脚のマッサージをしてもらっていたときのこと。父が「達也、おまえ今、力入れたか?」と言った。三代さんが脚を動かそうと試した瞬間、ピクリとしたのが父の手に伝わった。脚の感覚がわずかに残っていたのだ。
その後、埼玉県所沢市の病院に転院。リハビリを始めて車いすに乗れるようになると、かえって無力な自分を思い知らされた。「俺、何もできなくなっちゃったんだな……」。絶望的な気分に襲われた。看護師に「歩けるようにならなかったら死ぬから」と言ったこともあった。やけになって、リハビリを投げ出した時期も長かった。
それでも、若さと体力があった。理学療法士や作業療法士の指導のもと訓練を続けるうち、半年ほどで食事、排泄、入浴といった日常動作がこなせるようになった。
19歳になる直前、静岡県伊東市のリハビリ施設に転院した。目標は「歩くことを取り戻すこと」に絞られた。
「ただ、そこからは全然芽が出なくて……。これが限界だと自分で分かって、やっぱり一生、車いすの生活なんだと思ったときは、最初の告知よりショックでした。その時点では、健常者ベースの脳みそでものを考えていたんだと思う。これから何を目的に生きていけばいいのか、分からなくなっていました」
背中を押してくれた「師匠」との出会い
そんな折、人生最大の出会いがあった。同室だった吾妻俊則さん。三代さんはひそかに「師匠」と呼ぶ。
父親の年齢に近い吾妻さんは、三代さんと同じ頸髄損傷だったが、障がいの度合いは三代さんよりも重かった。最初の帰省のとき、吾妻さんに「三代、どうやって帰るんだ?」と聞かれた。
「親が茨城から車で迎えにきます」
「いや、おまえ、電車で帰れよ」
え? 駅までどうやって行く? 駅にはエレベーターがあるのか? 車両の乗降はどうすれば? 不安は尽きなかったが「やってみよう」と思えた。事故後、初めて電車に乗った。東京駅で出迎えた両親は、静岡から一人でやって来た息子の姿に目を潤ませた。
その後も吾妻さんの問い掛けは続いた。「リハビリ終わって施設出たらどうするの?」
「親元で暮らしてDVDでも見ながら過ごそうかと」
「おまえ、それでいいの? 東京へ出てこいよ」
東京都練馬区の大泉学園駅に初めて降り立ち、駅前の不動産屋に一か八かで飛び込んだ。「僕、見てのとおり車いすなんですが、僕でも過ごせるところありますか?」
見つけた物件は石神井公園駅から徒歩10分。バリアフリーではなかったが、吾妻さんが経営する工務店のスタッフが改修してくれた。当時、20歳。人生初の一人暮らしが始まった。
吾妻さんはいつも三代さんに「ちょっと上」のミッションを与えた。三代さんはこう言う。「落ち込んでいるときは話を聞いて活路を見出してくれ、軌道に乗っているときはあえて冷静に直すべき部分を指摘してくれる。そして最後には『おまえなら大丈夫』と背中を押してくれる。貴重な存在です」
しばらくして、三代さんは車いすツインバスケットボールに出合う。車いすバスケが下肢障がい者のスポーツであるのに対し、車いすツインバスケは下肢だけでなく上肢にも障がいを持つ人が参加できるように考案された。
三代さんはツインバスケで知り合った人から在宅でできる仕事があると聞き、人材派遣会社に就職した。本社とスカイプで連絡を取りながら自宅のパソコンで行う事務仕事。うれしくて吾妻さんに電話で「ツインバスケだけじゃなく、仕事も始めちゃいました」と報告した。
「まずは、おめでとう。でも、在宅かぁ」
その言い方が引っ掛かった。自分の性格をよく知っている吾妻さんに「家に引きこもらないほうがおまえらしい」と言われた気がしたのだ。上司に「在宅から通勤に切り替えたい」と直談判した。その会社に車いす通勤の前例はなかったが、「試しに2週間通ってみようか」とチャンスをくれた。
「通勤許可が取れました!」と伝えると、吾妻さんはこう言った。
「おう、いいね」
何気ない一言がうれしかった。食事も着替えも、健常者より時間が掛かる。朝4時に起きて支度をした。自動車通勤だったが、片道1時間半、混めば2時間は掛かった。身体的な疲労から排尿をコントロールする機能が弱まり、普段はしない失禁をしたこともあった。それでも、外で働く充実感は格別だった。
父の利郎さん(60)は「息子がここまで自力での暮らしを取り戻すとは想像していなかった」と話す。
「事故の直後は『なんでこんなことになったんだよ』という雰囲気だったのが、何でもトライしていって。一人暮らしも、就職も、世界一周も、親には全部、事後報告です(笑)。事前に相談されたら、私も親だから『危ない目に遭ったらどうするんだ』とネガティブな側面を言ったかもしれない。達也はそれを分かっていたんだと思う」
「何か困ってない?」気軽に声をかけ合う世の中に
統計がないため車いす利用者数は正確には分からないが、内閣府の「障害者白書」平成25(2013)年版によれば、施設に入らず自宅で生活する身体障がい者は357万6000人いる。そのうち、手足に障害がある「肢体不自由」が約半数の181万人。車いす利用者の多くはこれに含まれる。
海外を旅してきた三代さんから見て、日本の都市部はバリアフリー化が進んでいる。例えば、イタリアでは凸凹の激しい石畳に、ベトナムではオートバイの路上駐車に進路を妨げられたが、日本ではそんな場所は少ない。
「それにしては、街で車いすの人を見かけることが少ないと思いませんか?」
アメリカでは、人々は目が合うとすぐに「元気? 調子どう?」「何か困ってる?」と話し掛けてきた。「君の履いてるジョーダンのスニーカー、カッコいいねえ」と声を掛けてきた黒人の男性もいた。
「片言でも自然と会話が続いて、僕も素直に助けを求められた。思ったより人ってやさしいんだなって。困ったときに『ちょっと助けてくれない?』と気安く頼むことができたのは、人々の雰囲気が基本ウェルカムで、嫌なら断るというサッパリしたものだったからじゃないかな」
H.I.Sユニバーサルツーリズムデスクの薄井貴之さんは、三代さんの世界一周を主に情報提供の側面でサポートした。三代さんから送られてくる道中の記録をH.I.Sのフェイスブックページで公開した。薄井さんは「三代さんの旅の価値は、訪れた国の数ではなく、人の助けを借りながら旅するコミュニケーション力にある」と言う。
「弊社でも障がいのある方や高齢者のためのパッケージツアーを実施していますが、三代さんは個人旅行です。ご自身の人柄と交渉力を駆使して、旅を全うしました。偶然出会った人に車いすを押してもらうことも多々ある。そこに会話が生まれる。三代さんが旅をすることで生まれる現地の人との温かいやりとりに、惹きつけられます」
ギリシャの首都アテネでこんなことがあった。
夜遅く到着し、ゲストハウスはどこも満室。ようやく一つ、空きを見つけた。案内されたのは2段ベッドが並ぶ8人部屋。下の段はいっぱいだったため、管理人が一人の男性を揺り起こし、上の段に移ってもらった。三代さんが気まずい気持ちでベッドに身を沈めると、隣のベッドの女性が明かりをつけ、車いすに目をやり、こう言った。「大変だったね。私にできることがあったらなんでも声を掛けてね」
世界中を旅してきた三代さんはこう言う。
「東京オリンピック・パラリンピックが開催される2年後には、東京にどっと人が来ますよね。健常者も障がい者も含めて。外国人だから、障がい者だからとおろおろして遠巻きに見ているだけではコミュニケーションは生まれません。僕たち日本人が、何か頼まれるまで待つのではなく、『こんにちは』『どう? 何か困っていない?』って声を掛けるようになれたらいいなと。僕が旅で出会った世界中の人たちがそうしてくれたように。それが、本物のおもてなしだと思うから」
三代達也(みよ・たつや)
1988年生まれ。茨城県日立市出身。18歳のときにバイク事故で頸髄を損傷。四肢麻痺(C6B2不全)により車いす生活に。約2年に及ぶリハビリの後、東京で一人暮らしを始める。23歳のとき、勤めていた会社の夏休みを利用して、初めて海外一人旅を経験。旅に目覚め、会社を退職して海外生活を開始。米ロサンゼルスに1カ月半、オーストラリアに半年間滞在。帰国後、横浜で会社員生活。28歳のとき、世界一周一人旅を決意。再び会社を辞め、2017年8月に成田空港を出発。2度の帰国を挟み、2018年5月に全行程を終えた。旅の記録はブログに綴る。帰国後は講演活動に従事。
古川雅子(ふるかわ・まさこ)
ノンフィクションライター。栃木県出身。上智大学文学部卒業。「いのち」に向き合う人々をテーマとし、病や障害を抱える当事者、医療・介護の従事者、科学と社会の接点で活躍するイノベーターたちの姿を追う。著書に『きょうだいリスク』(社会学者の平山亮との共著。朝日新書)がある。