私的録音録画補償金の問題点とは?権利保有者が「補償金ゼロ」を目指すべき理由
11月17日13時45分、記事末尾に追記アリ
音楽や映像の権利者団体など85団体が構成する「Culture First」が、私的録音録画補償金制度の刷新を提言したニュースが報道された。音楽や映像の流通経路・利用形態が変化していることを背景に、新たな補償金制度創設が必要というのがCulture Firstの主張である。
しかし、もともと私的録音録画補償金制度は旧い時代背景を元に作られた概念だ。
かつてはコピー制御が不可能な、著作権管理技術が行き届かない経路でコンテンツが流通していた。また汎用のコンピュータ機器ではなく、専用の映像・音響機器で消費者がコンテンツを楽しんでいた。あの頃ならば、音楽や映像を楽しむ機器から一律で補償金を徴収するという考え方にも賛成できる面はあった。
だが今のはクラウドとコンピュータの時代。旧い時代背景において、致し方なく一律徴収としていた補償金の概念を、クラウド型のサービスに適応させるには無理がある。
まずは私的録音録画補償金制度のうち、「録画」に対する補償金が形骸化した背景について考えてみよう。録画機器からの補償金がゼロになった理由が理解できれば、近未来のクラウド型コンテンツ配信において補償金という制度が馴染まないことがわかる。著作権管理団体が目指すべきは、私的録音録画補償金制度で徴収される金額を維持することではない。むしろ、ゼロを目指すべきなのだ。
その理由をここで説明しよう。
「録画機からの補償金ゼロ」をCulture Firstは誇るべき
Culture Firstは前記の記者会見において「現在の私的録音録画補償金制度は形骸化している」と主張したという。確かにその通りだ。しかし、録画機に関して言うならば、そのことは決してCulture Firstにとってネガティブな話ではない。
Culture Firstの発表によると、テレビ放送の録画機器に関し、年間最大25億円あった補償金がゼロになったという。これは”とんでもないこと”なのだろうか。本来の目的に立ち返って、25億円がゼロになった意味を考えるならば、補償金ゼロという成果を、Culture Firstは誇るべきである。
まず、デジタルで録画記録できる機器から補償金を徴収する根拠が何であったかを振り返ろう。
アナログテレビ放送をアナログ録画機(ビデオカセットデッキなど)で録画・保存していた時代には、ダビングごとに劣化が発生するため私的録画の範囲において、複製が許諾されていた。
ところが、アナログテレビ放送には複製制限を施す機能がなく、そのままデジタル記録できてしまうと、録画した番組を無劣化で二次複製、三次複製できてしまう。そこで補償金という形で録画機の価格に私的録画の補償金を算入しておき、購入する全消費者から一律にメーカーが補償金を徴収。関連する著作権団体へとメーカーが代理で収めることとなった。
この経緯を鑑みるに、デジタル放送への移行が完了し、新規に販売される録画機がアナログチューナを搭載しなくなった時点で、カジュアルコピーによる著作権侵害は起きなくなったと考えるべきだ。アナログチューナを搭載しない録画機が、補償金制度の対象外であることは最高裁の判決でも認められており、制度の制定経緯だけでなく、法的な意味でも補償金ゼロは妥当な結果と言える。
”カジュアルコピーによる損害がなくなった結果”としての補償金ゼロならば、著作権を管理する側が、それを喜ぶべきと思うのは筆者だけだろうか。彼らはアナログ時代よりも、自分たちの権利が侵されにくい環境を勝ち取ったのだから。
Culture Firstから見えている風景
上記の話は何もいまさら説明するまでもなく、これまでに何度も繰り返し議論されてきたことである。過去、筆者も何度もコラムの執筆や他誌の取材で話をしてきた。
話は実にシンプルであり、”複製管理が行える世界”では補償金制度は不要であり、”複製管理が行えない世界”では補償金が必要と認められているということだ。そして、録画に関しては複製管理が行える世界が実現され、補償金がいらなくなったのである。
では、なぜCulture Firstは、私的録音録画補償金制度を蒸し返すのだろうか。その理由について考えてみたい。
もちろん「目的はお金さ」というのは簡単だ。実際、それが目的なのだろうという推測は簡単にできる。補償金は著作権侵害を実際に受けた個々の権利保有者に直接還元されるわけではない。録画・録音それぞれの著作権団体で構成される協議会に分配され、各協議会内の規定に従って各著作権団体へと再分配され、管理団体が分配を行う。
果たして、これほど事務コストや分配比率の根拠などについて透明性が薄い方法を採用する必要があるのか?という意見が出てくるのも不思議ではない。それはCulture First自身も感じ、そして理解していることだと想像する。これ以上、強硬に補償金を主張したとしても評判を落とす一方であることは、彼ら自身わかっているはずなのだ。
それでも従来からの主張を続けるのは、私的録音録画補償金制度のうち、特に”録音”部分、すなわち音楽にかかわる部分のキャッシュフローが、補償金だけでなく業界全体で落ちてきているからではないか、というのが筆者の推測だ。実際、記者会見でも中心になって発言しているのは、日本芸能実演家団体協議会、日本音楽著作権協会(JASRAC)、日本レコード協会といった音楽に関わる著作権管理団体が主だ。
彼らの目からは、我々、一般消費者とは異なる風景が見えているのではないだろうか。すなわち、音楽再生が可能なデジタル機器とインターネットを使いこなす者は、すべて音楽を盗んでいる、という妄想だ。
とあるように、データ用ハードディスクドライブであろうが、仕事に使うパソコンであろうが、著作物を複製する可能性のある機器、メディアなどは、すべて補償金対象とすべきと提言している。
すなわち、すべてのパソコン、タブレット、スマートフォン利用者は、”盗人”の容疑者であると指名しているに等しい。
Culture Firstが本来、果たすべき役割
こうしたCulture Firstの主張は、完全に消費者の視点を失っていると言うほかなく、またテクノロジの進歩による著作権保護の可能性をも否定しかねない。彼らは包括的に徴収できる著作権料(すなわち分配根拠が曖昧になりがちなお金)に固執するが、技術の進歩やクラウドとスマートデバイスの普及といった環境変化に対応し、フェアに著作物の対価を交換する仕組みへの取り組みを阻害しているからだ。
たとえば、日経新聞ではJASRAC幹部が以下のような発言をしている。
すなわち、盗人であるデジタル機器とインターネットを使いこなす消費者に、その道具を売り付けている機器メーカーこそが、著作権利保有者を貶める本当の悪人であり、彼らが補償金を支払うべきと断じているのだ。
果たしてそうだろうか?
もしCulture Firstがカジュアルコピーによる著作権侵害を防ぎたいのであれば、彼らが目指すべきは著作権管理が不可能な音楽流通(具体的にはCD販売、CDレンタル)の割合を減らし、インターネットを通じて著作権管理システム(DRM)による複製管理が行える環境を手にすることだろう。
ところが、彼らが目指しているのは”補償金を増やす”、すなわち”著作権が侵害される世界”なのだから、クラウドの時代においても補償金が必要とする彼らの行動は矛盾している。クラウド型ならば、複製許諾範囲をあらかじめ決めた上で、その許諾範囲に見合う著作権料を価格に含めておけば良いからだ。
一方で、Culture Firstの主張で正しいと思える部分もある。それは、機器メーカーも音楽著作物を巡るエコシステムを構成する利権者であるという点だ。これはそのまま、Culture Firstを構成する著作権管理団体にも当てはまる。
Culture Firstが果たすべき役割は、包括的な著作権料の徴収額を増やすことではなく、著作権侵害の可能性を減らし、著作物の利用者から正当な対価を直接徴収し、節度ある範囲内での複製権の付与と管理を行うことであり、機器販売によるキャッシュフローを持つ機器メーカーに代理の支払を押しつけることではないはずだ。
もちろん、音楽に関してはCD複製制御機能が導入されていないデジタルメディアが、現時点における流通の主流になっているという側面はある。しかし、その一方でレンタル事業でのCD流通を認めている(レンタルCDからの複製も想定して、レンタル料金に著作権料が上乗せされている)側面もある。
しかし、レンタルCDが問題なのであれば、その著作権料を上げることで、著作物使用者から直接、レンタルしたCDの著作権保有者に支払うべき金額徴収するのが筋というものだろう。機器メーカーから分配根拠の曖昧な金額を徴収する理由にはならない。
”放送と録画”に関する補償金についての結論はすでに出ているが、コンテンツ頒布システムのデジタル化が進んでいるのは音楽も同じだ。音楽のインターネットを通じた頒布(デジタル配信)では、CD時代よりも柔軟な複製管理が行える。
アップルがiTunesで採用している、ひとつの利用者IDで再生可能な装置の数を制限するというものが広く知られているが、他にもゆるやかな管理方法として電子指紋を使う方法などもある。電子指紋は複製制限を行わない代わりに購入者のIDをコンテンツに埋め込んでおき、ネットで無制限頒布された場合などに、特定の利用者ID指紋が付いているコンテンツの利用を禁止できるという仕組みだ。
それら以外にも、さまざまなコンテンツの複製、利用範囲の制限を行う技術はある。Culture Firstが著作権侵害から著作物を守りたいのであれば、機器メーカーを一方的に悪者に仕立て上げるのではなく、共にエコシステムを作る者としてフェアな形で著作物が利用する世界を作ることに腐心すべきだ。
私的録音録画補償金制度は正当な利用者への負担を増大させる
以上が筆者が考えるCulture Firstの主張に対する意見だが、そもそも私的録音録画補償金制度そのものが、消費者に不利益を与える問題のある制度だと考えている。なぜなら、私的録音録画補償金制度は、違法に著作物から利益を挙げるものたちに対しては何ら戒めとならない一方、大多数の正当な消費者から広く・浅く料金を徴収するシステムだからである。
Culture Firstは機器メーカーの売上げをアテにしているが、補償金は原価に上乗せされ、販売単価に転嫁されるべきものだ。しかし、正当な著作物の利用者は、そもそも所有している著作物に関して著作権料を支払っており、新たな機器を購入するごとに補償金負担を行う仕組みは道理に合わない。
その一方で組織的に著作物をインターネットに流したり、あるいは別メディアにコピーして違法に販売する組織などもあるが、彼らは補償金の有無などまったく気にかけてもおらず、ペナルティにもなっていない。
それにも関わらず、Culture Firstはあらゆるデジタル機器からの包括的な私的録音録画補償金徴収を主張する。
たとえば以前から著作権管理団体の一部は、パソコンなど情報機器上であればデータとしてインターネットを通じて録画・頒布・再生できてしまうため、汎用コンピュータ機器で利用するためのハードディスクドライブや記録型光ディスク(DVD-RやBD−Rなど)からも補償金徴収すべきであるという意見も出されていたが、今回も同じ主張を繰り返した。
彼らは著作物が侵害されない世界を目指したいのか、それとも消費者の不利益を顧みることなく補償金徴収金額の維持を目指したいのか。その結論は今回の記者会見においてすでに出ていると考えられるが、今一度、クラウドとスマートデバイスの時代がどのようなものかを考えた上で、自らの足下を見直してみるべきであろう。
【追記】
最後に過去15年以上に渡る取材において変化してきた、JASRACの対応について触れておきたい。
かつてJASRACに取材すると、現在の彼らとは正反対の意見を話していた。Culture Firstの主張は、あらゆる著作物の複製が悪である、という前提に成り立っているが、当時のJASRACは私的複製は音楽業界にとってプラスであり、売上げに貢献してると話していたのだ。
90年代半ば、MP3がオープンソースで公開されたことで、パソコン利用者に高品位の音声圧縮技術が広まった。ここで音楽著作物がインターネットで流通してしまうという問題が起きたのだ。およそ15年前である。JASRACへの最初の取材はそのころだった。
当時の見解としては、私的複製が欲しい音楽著作物を発見する重要な手段になっており、家族や友人同士の複製は歓迎すると話していた。音楽や書籍などは、”数10万”なら大ヒット、”数万”でもかなり売れた方となる。数千を数万、数10万、数100万にするには、流行を作らねばならない。流行となるためには口コミでの拡がりが不可欠なため、私的複製として許容できる範囲について「実際に会ったことのある知人なら」と、かつてのJASRACは寛容だったのである。
確かに一部の理事に強硬な人間はいたが、生え抜きのJASRAC職員や広報は、音楽文化を育てることを意識している、という印象を当時強く感じた。まだCDから収益が順調なうちは、JASRACもこうした考えを持っていたのだ。
そして、JASRACの経験から得たその見解・姿勢は、デジタル音楽配信の歴史を振り返ると、その正しさが証明されている。厳しいDRMで縛ると正規購入者は減り、デジタル著作権管理(DRM)を緩く(あるいは撤廃)した方が配信の売上げは増える。もっとも最近の例では、オンキヨーや運営するe-Onkyoが、DRMを廃止してコピーフリーにすると売上げを大幅に伸ばした。
物理的なCD販売のピーク時にキャッシュフローが届かないというのは事実だ。しかし、頒布権を持つコンテントオーナーは、著作権管理を弛める方が、音楽市場を活性化し、収益をより大きくできることを知っているため、DRMを使える環境でもDRMをかけないという選択をしている例が増え、主流となっている。
また、音楽と映像では、楽しむ場面も単価も異なるため、両方の著作権保護スキームを一緒に考えることに関しても無理がある。そして音楽の場合、関係者の多くはDRMによる保護を強めることで売上げが下がると知っている。だからこそ、完全な複製制限による著作権保護を強く主張せず、補償金という包括的な集金手段に頼りたいと考えているのではないだろうか。
常に音楽著作物に対して対価を支払ってきた音楽ファンの目を、もう一度しっかり見つめなおして欲しいものだ。